第4話:伝染する悦び──その空気、もう戻らない

 ──ジャラ、ジャラ……。


 鉄の鎖が、石畳を引きずる音とともに揺れていた。

 奴隷商の馬車に繋がれた一列の奴隷たちが、無言で歩いていく。日差しは強く、風は乾いている。


 誰もが俯き、乾ききった目をしていた。


 ……ただ、一人を除いて。


「……ああ、なんという清涼な束縛」


 佐藤マサシは、空を見上げて呟いた。

 首には鈍く光る鉄輪、手足にも枷。なのにその顔は、まるで聖地巡礼中の巡礼者のように恍惚としている。


「首輪って……魂の所在を感じられますよね」


 そう隣の奴隷に話しかける彼に、奴隷は視線すら向けず、ただ距離を取った。


 前を歩く護衛の一人が、ひそひそと声を漏らす。


「……おい、あの新入り、やべぇ顔してるぞ」


「知ってる。俺もさっき、目ぇ合った。なんか……恋する乙女みたいな目したぜ……」


「怖すぎるだろ……」


 そんな護衛の視線にも気づく様子なく、マサシは淡々と歩きながら語り続けた。


「私、生まれて初めてなんです。こんなふうに“人間らしく”扱っていただけるなんて」


 その声は感謝に満ちていた。本気だった。


 奴隷たちは疲れ果て、誰もそれに応じない。

 だが、隣にいた若い奴隷──十代半ばの痩せた少年が、思わず呟いた。


「……“人間らしく”? どう見ても、家畜だろ、これ……」


 マサシはにっこりと笑った。


「家畜は与えられる存在です。命令され、導かれ、責任から解き放たれる。……それって、最高に人間らしいと思いませんか?」


 少年は沈黙した。何も答えられなかった。

 ただ、ほんの少し──その言葉に、引っかかるものを覚えたのだった。


* * *


 乾いた風が吹き抜け、砂埃が舞う道を、奴隷の列はゆっくりと進んでいた。

 沈黙は続いていた──だが、その静けさの中に、違う“音”が紛れていた。


「生きる喜びは、成長を感じるときにこそ訪れます。……重荷なくして、成長できますか?」


 それは、マサシの声だった。


 相変わらず隣の少年に語りかけている。最初はあからさまに無視していた少年も、少しずつ“聞く”ようになっていた。

 そして、ついに小さな声で返す。


「……成長って……何を目指してるんだよ、お前……」


「成り下がることです」


 即答だった。


「底まで堕ちる。その先で、ようやく人は“自分の場所”を知るんです。成り上がりをマクロとするならば、成り下がりはミクロ。ミクロの世界も宇宙なんですよ」


 少年は意味がわからず、言葉を失った。


「奴隷になって思いませんか?誰かに責任を預けていいんだって……。ね、楽でしょ?」


 その会話を聞いていた、列の後方の中年の奴隷がぽつりと呟く。


「よくわからないが……なんか少しだけ楽になった気がする……」


 周囲の空気が変わる。


 苦悶に満ちていたはずの奴隷たちの表情に、わずかな緩みが見えはじめる。

 誰かが小さく頷く。

 誰かがふと、空を見上げる。


「叱咤は愛。罵倒は光。絆を感じるご褒美なんです」


 マサシは柔らかく笑いながら、呪文のように言葉を繰り返す。

 それはじわじわと染み込んでいく。静かに、しかし確実に。


 ──その異変を、奴隷商たちは見逃さなかった。


「……おい、なんだか空気、おかしくねえか?」


 護衛が小声で言うと、奴隷商の頭領が眉をしかめる。


「……妙だな。さっきまであれほど暗かった奴らが……なぜ、顔が……穏やかになってる?」


「笑ってるの、いますよ。鎖で引き摺られて嬉しそうな顔……ヤバくないですか?」


 若手商人の声が震える。


 マサシは、微笑みながら続けていた。


「身体の不自由こそ、魂の休息です。

 罵倒は心を整える音。……同じ境遇と喜びを感じる同志が、こんなにいるって──幸せだと思いませんか?」


 奴隷たちのなかで、誰かが小さく呟く。


「……私、ちょっと……楽になってきたかも……」


「もう、無駄に心の中で争うのをやめよう……」


 鎖を引かれながら、それでも嬉しそうに歩く姿に、奴隷商の男の背筋が凍る。


 ──彼は、思い出した。


 この男を売りつけてきた王国騎士団のことを。


 あのときの、微妙に笑っていた騎士団の顔。

 ──思い出しただけで、吐き気がした。


「……悪魔を……俺たちは悪魔を買わされたのか……!?」


 顔を青くしながら、奴隷商は手綱を強く握り締めた。


* * *


 異変は、目に見えて広がっていた。


 「あ、ありがとうございます……!」

 奴隷の一人が、護衛に軽く突き飛ばされただけで、涙ぐむほどの感謝を口にした。


 「もっと絆をください……」

 別の奴隷は、真剣な表情で護衛に頭を下げていた。


 列の中に、明らかに“何かが伝染している”──そう感じた若手護衛が、焦った声で叫ぶ。


「商長っ! ヤバいです、マジでなんか“感染”してます! こっちまでおかしくなりそうで……!」


 その声に、奴隷商の頭領は顔をしかめる。

 列の前に乗る馬車の上から、全体を見渡し──愕然とした。


 鎖を引かれながらも、穏やかな顔。

 傷つけられても怒らず、むしろ感謝するような瞳。

 地面に転んだ者を、他の奴隷が“美しい転び方でした”と励ましている──。


 (なんだこれは……なんだこの空気は……!)


 商長の背筋が、ぞわりと凍る。


 そのとき──


 マサシが、一歩、列から半歩だけ前に出て言った。


「すみません。すべて、私の責任です」


 その姿は、まるで罪を告白する聖職者のようだった。

 ……ただし、その顔が“全身で悦びを噛み締めている”以外は。


「影響を与えてしまったのなら……甘んじて罰を受けます」


「うるせぇ! その顔で“罰”って言うな! こっちが気持ち悪いわ!」


 若手護衛が怒鳴る。


「あっ......」


 マサシは、さらに至福の笑みを浮かべる。


「なんで、そんな嬉しそうな顔してんだよ……! 反省してる人間の顔じゃねえ……!」


若手護衛が顔を背ける。


「光栄です。ようやく、存在を感じていただけました……」


「言葉の端々が全部地獄だよ!!」


 護衛がわめくなか、商長は汗だくで震えながら呟いた。


「……こいつ、あかん……本気で“人間”じゃない……」


 その言葉は、奴隷たちの異常な変貌よりも深く、隊の空気を凍らせた。


 彼の脳裏に、再びあの騎士団の言葉が蘇る。


『──“問題のない大問題野郎”です。ま、商売繁盛を……』


 あのときの笑顔の意味を、今、骨の髄から理解した。


 その瞬間だった。


 ──パンッ! という乾いた音とともに、森の奥から煙が上がる。


「っ!? 敵襲……!? 盗賊だッ!!」


 護衛の一人が叫ぶ。


 続けて、別方向から怒号と足音。

 武装した山賊たちが木々の間から現れ、列を囲みはじめた。


「マズい! 包囲されてるぞ!」


 商長は一瞬だけ迷った。だが、迷いはすぐに断ち切られた。


「──あの男を、置いていけ!!」


「えっ!?」


「マサシだ! 鎖を外せ! 連れていくな! あいつは……“呪い”だ!!」


 馬車の後ろで慌ててマサシの鎖が外される。

 その間にも、山賊の叫び声が近づく。


 マサシは振り返って商隊を見た。

 逃げ出す馬車、疾走する奴隷商、混乱する護衛たち──

 その中で、彼だけが静かに、ぽつりと呟いた。


「……くっ……ご主人様……。でも……放置されるのも、ちょっと快感かもしれない……」


 そして、次の瞬間。


 蛮刀を手にした山賊たちが、笑いながらマサシたち、逃げ遅れた奴隷を囲んだ。


「よぉ、運が悪かったな、家畜ども……今から全員、タダ働きだ」


 怯える奴隷たち。

 ──だが、誰も知らなかった。


 この出会いが、さらに“予測不能の地獄”をもたらすことを。

 そして盗賊たち自身が──いずれ、震えることになるとは……。

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