第1話:異世界転生、志望理由は”枷”です

「……次の志望者、入室どうぞ」


 総括神アルセインの静かな声が響いた会議室に、重い沈黙が残っていた。


 先ほどの志望者──“テンプレ勇者希望”の桐生優斗が、魂のすべてをミジンコに変換されて去っていったあと。

 神々の間に、わずかに疲労と、笑いにも似た苛立ちが漂っていた。


「さっきの子、エロフとか叫んでましたけど……あれ、本気だったんですか?」

 マーケ神レノアがグラフの束をトントンと揃えながら、呆れたように呟く。


「次もテンプレ系なら、もうROI考慮せずにカットしましょう」

 財務神ファエルが低くぼやくと、クァリスがペンをカチ、と鳴らした。


「問題は……次の記録です。志望理由欄が、空欄だった」


 神々が一斉に資料を見下ろす。

 一枚のファイル──そこに書かれていた名前は:


 『佐藤マサシ』


 控室のドアが静かに開いた。


 現れたのは、やや猫背で、目元にクマのある中年の男だった。

 地味なスーツ姿。髪はくたびれたように乱れ、ネクタイは微妙にずれている。

 だが──表情だけが、違った。


 彼は、微笑んでいた。

 不思議なほど、穏やかに、そして誇らしげに。


「こんにちは……佐藤マサシと申します」

「本日は……“枷”を求めて、参りました」


 レノアの手が止まった。

 ファエルの眉が動いた。

 クァリスは、無言で眼鏡を指で押し上げた。


「……枷、ですか?加護ではなく?」

 アルセインの静かな問いに、佐藤は頷いた。


「はい。できれば、首輪から。あと、重めの足枷があると、安心できます」


 ──この時、神々はまだ知らなかった。

 今、ここに現れた男が、“異世界転生史上、最も厄介な志望者”となることを──。


* * *


「念のため、お聞きします」

「あなたのご経歴は?」


 財務神ファエルが書類をめくりながら問いかけると、

 佐藤マサシはすっと背筋を伸ばした。

 その所作は妙に丁寧で、まるで自己紹介に誇りを持っているかのようだった。


「はい。私は、社畜歴17年です」

「物流業界で、月200時間以上の残業をこなし、休日出勤も拒まず、定時という言葉は都市伝説でした」

「上司の理不尽な指導にも、黙って従い、何度も“使い勝手がいい”と褒められた経験がございます」


 クァリスがペンを止めた。


 まるで功績を語るようなトーンで淡々と続けるその様子に、

 レノアが思わず小声で漏らす。


「……褒められてたの、それ?」


 マサシは続ける。


「ようやく昇進の兆しが見えはじめたんです。“家畜としてなら上出来”とまで言っていただいて。

 私、あれが人生のピークだったと思っています。

 なのに……」


 まぶたを伏せたまま、唇が震えた。


「……異動がありまして。新しい上司が、ヒステリックな女性で」

「もう、すごかったんです。怒鳴られるたびに、心が震えて。

 “こっち見るな!”って怒鳴られた瞬間、僕、悟ったんです」


 彼は、目を細めて笑った。


「──ああ、これが、求めていた“幸せ”だって」


 ペンを落としたのは、癒し神メルファだった。

 拾いもせず、ただ無言でマサシを見つめている。


「私は……真面目に生きてきました」

「誰かの期待に応えるように。ノルマ、納期、空気を読んで、他人の優しさに──耐えて。

 それでも、頑張ってきました」


「“普通”に見られるように、笑顔を貼り付けて。

 “感謝してます”って、吐き気を我慢して」


 マサシは、ぽつりぽつりと言葉を落とした。

 神々の誰もが、途中で口を挟めずにいた。


「あの上司に罵られるようになって、幸せだったんです」

「怒られてるときの方が、落ち着くんです。……意味、分かりますよね?」


 誰も返せなかった。

 メルファが息を呑んだ音だけが、小さく響いた。


「……怒鳴られて。叱られて。足を引っかけられて。

 “こっち見るな”って、言われて。

 ……本当に、幸せでした」


 レノアの喉が鳴った。資料を持つ手が震えている。


「やっと掴んだ幸せだったのに......気がつけば死んでるんですよ、酷いですよね?」


 マサシは悲しい笑顔のまま、まっすぐ言った。


「僕が何をしたって言うんだ......」


 神々の中で、誰もその言葉の意味を明確に理解できなかった。

 ただ、“理解してしまいそうな自分”が怖くて、沈黙するしかなかった。


* * *


 沈黙が、長く続いた。


 神々の誰もが、言葉を発せず、ただ場に染み込んでいく異様な“何か”を感知していた。


 そんな中、マサシは、ふと口を開いた。


「私は……枷がほしい」


 言葉には、怒りも誇りもなかった。ただ、ぽつりと落とされるような独白。


 机の上に両手を揃えて置きながら、マサシは深く頭を下げた。


「だから、どうか……」

「どうか、私に、セカンドチャンスを……!」


 彼の声は震えていた。

 それが涙なのか、興奮なのか、それともまったく別の感情なのか、誰にも分からなかった。


 再び沈黙。


 やがて、総括神アルセインが静かに目を伏せたまま、問いを放つ。


「……最後に、お聞きします」


 音のない空間に、その声だけが響いた。


『あなたは、異世界で何を成したいのですか?』


 佐藤マサシは、ゆっくりと顔を上げた。


 そして、微笑んだ。


「──どん底からの、成り下がりを」


 その瞬間、部屋の空気が変わった。


 誰もが、言葉を失っていた。

 クァリスはペンを止めたまま動かず、レノアは視線を逸らし、ファエルの眉間には深い皺が刻まれる。

 メルファだけが、何かを言いかけたまま、声を失っていた。


 そして、なぜか──誰も、否定しなかった。

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