第10話


やがて、時間がゆるやかに過ぎていった。


「今日のお小遣い、いただいてもいいですか?」


控えめに切り出すあやちゃんの声。


「……あ、ごめん。すっかり落ち着いちゃってて。」

そう言いながら、文吾は財布からお金を取り出した。 ばつが悪そうに手渡すその仕草に、胸の奥がずしりと重くなる。


──改めて、今の関係を突きつけられた気がした。


現実が、優しく染みた時間の輪郭を、静かに縁取っていく。

けれど、それはあやちゃんの中で、 情が滲み出す前に、あえて自分から線を引くための確認作業。 そんな風にも思えた。


「……そろそろ行こっか。」


あやちゃんの声は、ほんの少しだけ寂しさを含んでいた。 けれど、それを包み隠すように、明るく微笑む。


身支度を整え、ふたりは部屋を出た。

エレベーターを降りてロビーに戻ると、 さっきまでの穏やかな時間が、まるで夢だったように思えた。

けれど、身体に残るぬくもりが──


あれはたしかに“現実”だったと教えてくれていた。

ホテルを出て、駅までの道を並んで歩く。

会話は少しずつ減っていき、街の音だけがふたりの間を満たしていた。


「今日はありがとうございました。」


駅前で立ち止まり、あやちゃんが静かに頭を下げる。

柔らかく微笑むその横顔が、文吾の胸にじんわりと残った。


「……うん。また、連絡してもいいかな。」


それが、やっと絞り出せた言葉だった。


「もちろんです!連絡先、交換しましょう?」


そう言って差し出されたスマホ。

小さな画面越しに登録された“あや”の名前が、なぜか妙に重く感じた。


ふと、あやちゃんからつぶやきが漏れた。

「また会ってくれる?」


一瞬言葉に詰まり、 「また連絡するよ。」 そう返すのが精いっぱいだった。


彼女は軽く手を振り、改札の中へと消えていく。

その背中が小さくなっていくのを、文吾はしばらく見送っていた。


──なんで、こんなに胸がざわついてるんだろう。

出会って、まだほんの数時間。

なのに、確かな“何か”が自分の中に残っている。


帰宅後

靴を脱ぎ、そのままベッドに倒れ込む。

しばらくして、スマホを手に取った。

登録されたばかりの連絡先を、ぼんやりと眺める。


夜──

短く、メッセージを送った。


「今日はありがとう。友達にはメッセージ返せた?」


数分後、返信が届く。


「こちらこそありがとう!うん、バイトの相談だったよ!」


それだけのやりとり。

それだけなのに、何度も画面を見返してしまう自分がいた。


翌日

職場のデスクで、資料に目を通しながらも、 ふとした瞬間に、彼女の笑顔が脳裏をよぎる。

手にしたペンが止まるたびに、あの夜の記憶が静かに蘇った。


「……なんか、晴れやかな顔してるな。」


すぐ隣で、杉山課長がぽつりと呟いた。

茶化すようなトーンなのに、どこか温かい。

文吾は、思わず吹き出しそうになるのを堪えながら、そっとうなずいた。


「ちょっと嬉しいことがありまして。」


胸の奥でじんわりと広がるその余韻は、

ほんのりと熱を帯びたまま、静かに体の中に溶けていった。


──まだ恋じゃない。

けれど、確かにあの子は、俺の中に痕跡を残した。


そのぬくもりは、日常の片隅でそっと息づきながら、

これから訪れる“何か”を、静かに予感させていた。


――――――――――――――――――

【あとがき】

これで第1章「出会い」は終わりです。

少しでも、心のどこかに何かが残っていたら嬉しいです。

次は、ふたりの余韻を描いた「幕間」と次章「再会」の話へ。

繋いでいけたらと思います。

――――――――――――――――――

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る