初盆は夏の嘘

諏訪野 滋

初盆は夏の嘘

 ――父の初盆に、一緒に参加して頂けませんでしょうか。

 代行会社に登録してずるずると八年目にもなってしまった私ではあるが、その奇妙な依頼についてはさすがに初めての経験だった。

 アル中で家庭内暴力を振るった挙句に人身事故を起こして服役した父と、その父に愛想をつかして別の男性と去って行った母。十六歳の時に家庭が崩壊してしまった私は祖父母の家に引き取られ、高校を卒業すると同時に逃げるように上京してみたものの何の当てもなく、結局今の会社にパートの身分のままで所属を続けている。

 代行会社とはつまり便利屋のことで、掃除や洗濯、買い物など、日常生活の様々な雑事を請け負うサービス業のことである。女性を派遣して欲しいという要望は、特に独居女性には安全面などでそれなりに需要があり、仕事の依頼自体にはそれほど困ることはなかった。しかし雑事、という事はすなわち特別な資格を必要としないという事で、当然給料もそれなりのものでしかない。

 とにかく、お金がなかった。貯金が大切だという事は漠然とわかってはいたけれど、昇給の望みなどあるはずもなく、今の仕事を何年勤めても収支はほぼプラマイゼロが確定している。先の見えない生活。そんなときに上司が持ってきたとある仕事に、私は一も二もなく飛びついた。




「ご指名いただき、ありがとうございます。担当の小島こじま菜乃なの、です」

「初めまして。私、米沢よねざわ真希まきと申します」


 米沢と名乗った目の前の女性は、一分の隙も無くスーツを着こなした、いわゆるデキる女という感じの人だった。年齢は、三十代半ばといったところだろうか。二十代後半の私とはそれほど違わないようにも見えるが、彼女が差し出した一流企業の名刺は少しだけ私を委縮させた。


「初盆、ですか」

「はい」

「米沢さんの、お父様の」

「仰る通りです、父は昨年の冬に脳梗塞で他界しまして。今年の二月に四十九日が終わり、八月が初盆になります」


 目の前に置かれているアイスコーヒーが入ったグラスの結露のように、私の額にも細かい汗が浮かんでいるに違いない。家族内での行事なんて、たとえ他人のそれであっても願い下げだ。


「あの。私、法事に参加した経験がないのでよくわからないんですが。初盆というものは、親族の間だけで行われるものじゃないんですか?」

「おおむねそうなのですが、私の実家は母と私の二人きりでして。喪主は母が務めることになっているのですが、仏壇の移動や法要後の会食、参列者への応対などで、結構人手が必要になる場面が多いらしいんです。しかも父がいなくなったことで母が心身ともにかなり参っておりまして、かといって私一人では心細く」


 なるほど、法要自体に参加するのではなく、初盆の準備や後片付けに伴う雑事を手伝えばいいという事らしい。それはそうだろうな、と自分の取り越し苦労に苦笑した私は、幾分ほっとして冷たいコーヒーを一口含んだ。


「合点がいきました。それでは私は部外者であるという事がむしろわかるように、作業衣か何かで」

「いえ。小島さんは私の友人、ということにしていただきたいのですが」

「え」

「ああ、深い意味はないんですよ。ただ田舎の人たちって、たとえばメイドさんとかお手伝いさんとか、そういうよそ者っていうんですか、かなり嫌うんですよね。小島さんはそのようなご経験はありませんか?」

「……すいません、ずっと東京でして」

「ああそうですか、失礼しました。そういうわけで、初盆の準備に派遣の方を頼んだなんて知られたら、やれあそこは人を雇える金持ちだの、大切な父親の法要の準備を他人の手に任せる無精者だの、そんな遠慮のない嫌味や悪口を広められちゃうに決まってるんですから」


 そう言って朗らかに笑う彼女に、そういうものですか、と私はうなずくしかない。


「あと、報酬については貴社規定の時間給に交通費や雑費その他を加えて、このくらいでいかがでしょうか」


 差し出されたアプリ計算機に表示された三十万という数字に、私は目を疑った。作業内容にもよるが、通常であれば便利屋の時給は三千円程度が相場なのに。これはあれか、闇バイトという奴ではないのか? この人、綺麗な顔をして私を犯罪に加担させようとしてる?

 不信を張り付けた私の表情に気付いた米沢さんは、慌てて手を振った。


「ごめんなさい、言い忘れてました。私の実家はここからかなり遠いですし、しかも準備と後片付けは法要の当日と翌日の二日にまたがっておりまして。つまりは、向こうに一晩泊まっていただくことをその条件として頂きたいのですが。拘束時間がまるまる二日間になるのでざっくりと計算してみたんですが、不足でしたら仰っていただければ」


 女性の派遣業務には、それ特有の注意点がある。依頼人と二人きりで自宅やホテルあるいは車中などの密室で仕事をすることは基本的に避けるべきだし、もちろん泊まり込みでの業務なども状況によっては身の危険が伴う。

 しかし、と私は言い訳を無理やり並べ立てた。今挙げたようなことは決して明確な会社の禁止事項になっているわけではないし、しかも相手は同じ女性だ、万が一襲われたとしても恐らく私の方が腕力では勝るだろう。それに何より、机の上に置かれたままの彼女のスマホ上の数字に私は逆らうことが出来なかった。それは彼女の言う規定の金額よりも、かなりの色が付けられている。


「……わかりました、お引き受けいたします」

「本当ですか、ありがとうございます!」


 こまごました打ち合わせを終えて満面の笑みで応接室を後にする米沢さんを見送った私は、とりあえず喪服を借りなきゃな、と当てに出来そうな友人を頭の中でリストアップし始めた。




ほろ、開けないんですか?」


 ティアドロップ型のサングラスをかけた運転席の米沢さんは、ツーシーターのスポーツカーを巧みに運転しながら、私の質問に笑って答えた。


「オープンカーに一番適した季節は、実は冬なんですよ。幌を開けるとイメージ的には風が当たって涼しそうですけれど、実際には肌が日に焼けて最悪です。もっとも車内が狭いですから、閉じてしまえばクーラーはすぐにききますけれどね」


 うっそうとした木立に挟まれた山道はカーブの連続だけれど、それでいて車酔いすることもない。コーナーでは大袈裟なほど減速するその運転に、私を疲れさせないようにという気遣いが感じられて、私は彼女に対する警戒心を薄れさせつつあった。ヒートアイランドの都会から涼しく暗い緑のトンネルに逃れることが出来た私は、高報酬でなおかつ夏休みのような仕事にありつけた自分の幸運に感謝する。

 米沢さんの実家は、都内から車を五時間ほど走らせた山間部にあった。早朝に出発して昼前に到着し、彼女の母親と打ち合わせをしてから、午後の法要で僧侶と親族を迎えるという段取りである。

 砂利が敷かれた中庭に車を停めて降り立った私たちを、けたたましい蝉しぐれが包んだ。日差しは肌に痛いけれど流れる風はわずかに冷たさを含んでいて、この場所が高地であることを差し引いても、夏も後半に差し掛かっていることを感じさせる。

 目の前にある平屋の日本家屋はかなりの年季が入っていて、長い縁側やガラス窓越しに見えるぶち抜きの座敷などが、都会育ちの私には珍しく映る。軒下には白木で出来た白提灯しろちょうちんが揺れていて、玄関先はきれいに掃き清められていた。米沢さんの母親はすでにあらかた準備を終えているらしい、との小さな不安が頭をかすめる。後払いとはいえ、あれだけの額を提示されていて仕事がないことを喜べるほど、私の面の皮は厚くはなかった。

 米沢さんは何故か緊張した面持ちで実家の玄関前に立つと、やや逡巡した後に、ブザーのボタンを強く押した。しばらくして、どちら様、との声が届き、やがて引き戸が開けられる。姿を見せたのは細面の上品な熟年女性だ、面影からいっても米沢さんの母親で間違いないだろう。挨拶をしなければ、と頭を下げかけた私は、ひっという彼女の小さな悲鳴に凍り付いた。慌てて隣を見ると、米沢さんは人が変わったかのように口元に冷笑を浮かべながら、自分の母親をきつくにらみつけている。


「ま、真希……あなた、どうして」

「娘が父親の初盆に帰ってきてはいけませんか、お母さん」


 どう考えても友好的な雰囲気ではない。いったいどういう事だろう、米沢さんの里帰りは彼女の母親にとっては予想外の事であったのか? あえぐような母親の荒い息遣いは、真昼の暑さのせいだけでは決してないだろう。


「お父さんの遺言で葬式には参加させてもらえなかったけれど、初盆まで出席禁止とは書かれていなかったはずですよね」

「でも、あなたの方からも、お父さんには二度と会いたくないって」


 米沢さんはくっと笑うと、玄関のサッシにこぶしを打ち付けた。


「私を勘当かんどうした相手に、会いたいわけないじゃない! 私はね、お父さんとあなたに恥をかかせに来たのよ。女の子が好きだって勇気を振り絞って打ち明けた私を、家の恥だと言って追い出したあなたたちにね」


 米沢さんは私の腕をとると、母親に見せつけるようにその身を私に寄せた。


「真希。隣の、その子」

「私の今のパートナー。東京で、一緒に暮らしてる」


 私は混乱した。いや、頭の中ではわかってる。同性が好きな娘を、受け入れることが出来なかった両親。そして、復讐に利用されている私。私服で来るように誘導されたのはそのためだったのか。それにしてもひどい契約違反だ、友人ではなくパートナーだなんて。私の視線に気付いた米沢さんは、懇願するようにちらりと私を見た。申し訳ないけれど、私にそこまで付き合う義理はない。嘘だとバレれば、法的なトラブルに巻き込まれるリスクだってある……

 しかしその時、私は気付いてしまった。黙って娘の罵倒にさらされている母親の瞳の中に揺れる、孤独と後悔の影。すべてを失って初めてその身に刻まれる、満たされることのない渇き。私だからこそわかる、なぜなら私も鏡の中に同じものを数知れず見て来たから。そしてそれはきっと、米沢さん自身の中にも。


「どう、お母さん。幸せになれるはずがない、なんてお父さんの言葉、のしをつけて遺影に叩き返してあげるわ。私の話を聞こうともしないで、自分たちの考えを一方的に押し付けて。親戚の人たちには私が男と駆け落ちした、なんて言ってるみたいだけれど、その私が女の子をみんなに紹介したら、お母さんの面目は丸つぶれよね? 本ッ当、いい気味……」


 強引に話を続けようとする米沢さんの言葉を遮って、彼女の母親は土間の外へと飛び出してくると、自分の娘にすがり付いてその身体を抱きしめた。たじろぎ硬直している米沢さんへと向けられた、白髪混じりの母親の泣き笑いが、木漏れ日に照らされて弱々しく崩れる。


「幸せ、なのね」

「だから、そう言ってるじゃない」

「……あなたが、独りじゃなくて良かった」


 言葉を失い唇を震わせている米沢さんを見上げる母親の目から、とめどなく涙が溢れた。独りになってしまった彼女は、それでも娘の幸せをこの場所でずっと祈っていたのだろう。離散してばらばらになった家族の肖像を私は再び見ることになったけれど、それでもここには思いやりが確かにある、と私は思った。私が両親から、家族から、もらいたくて結局かなわなかったもの。手放したのは私の方からじゃなかったけれど、それでも。


「ふ、ふざけないで。なによ、今さら」

「もうやめなよ、真希」


 母親に振り上げた米沢さんの手を、私はつかんで止めた。あなたの母親は、こうしてきちんと言葉をくれた。私と違ってまだ望みがあるんだもの、もったいないじゃない。

 驚いた表情で私の顔と手を交互に見る米沢さんに黙って首を振った私は、泣いている母親に向き直ると頭を下げた。


「お母様、初めまして。小島菜乃、と申します」


 家屋を護るように囲んでいる深緑の木立が、私たちに静けさを落とした。


「こそこそと黙って付き合うのは嫌だ、と真希さんに駄々をこねて初盆に参加しようと言い出したのは、私の我がままなんです。お母様と、そして亡くなったお父様に、どうしてもご挨拶をしておきたくて」

「こじ……菜、乃」


 何かを言いかけた米沢さんを制すると、私はほろ苦く笑った。


「お騒がせして申し訳ありませんでした。お母様に恥をかかせたいなんて、私も真希も本当は思っていません。私は独りでも帰れますので、せめて真希さんはお父様の初盆に参加することを許してやっていただけませんか。真希もそれでいいよね?」


 二人の返事を待たずに背中を向けようとした私の右手を、母親がつかんだ。


「菜乃さん。あなたも、うちの人に焼香をあげてもらえませんか? 娘を幸せにしてくれている人の顔を、父親が見たくないはずはありませんから。私たちの、家族として」


 え、と振り返った私に、米沢さんも深々と頭を下げた。その表情は、落ちかかった髪に隠されて見えない。


「……菜乃、私からもお願い。一緒に、法要に参列して」




 それからの私たちは、午後からの法要の準備にかかりきりになった。仏壇周りの確認やお布施の準備などは当然米沢さんたちに任せて、座敷への折り畳み机の配置、仕出し料理の受け取りと配膳、参列者への返礼品の準備などは私が担当する。ようやく本来の仕事にありつけたことに、私の口から安どのため息が漏れた。精霊棚しょうりょうだなにある位牌の位置を直していた米沢さんは、私と目が合うとばつが悪そうに微笑む。玄関先に飾られたほおずきのように暖かに染まった彼女の頬を、私は素直に美しいと思った。

 やがて三々五々に親族が集まってきて僧侶の到着を待つ間、私は台所の陰に隠れるように身をひそめていた。完全にアウェイの状況なのだ、気後れしないほうがどうかしている。やがて喪服姿の米沢さんがやってくると、ごめんなさい、と申し訳なさそうに謝ってきた。どうやら彼女は、家を飛び出してからの事や父親の葬式に顔を出さなかった事などについて親族にいろいろ聞かれていて、その対応に追われているらしい。別に気にしないでください、という私の喪服の袖を、彼女はおずおずとつかんだ。


「小島さん、その。ありがとうございます、私に話を合わせて頂いて」

「だから気にしないでくださいって。誰にどう思われようと、私は米沢さんの彼女を立派に演じきってみせますから。でもこれ、代行会社じゃなくてレンタル彼女とかそういう仕事ですよね。今の会社よりも、そっちの方が稼げたりするのかなあ」

「まあ。小島さん、それにしては少し年を取りすぎているのではありませんか?」


 冗談を言いながら笑いあう私たちを、彼女の母親が呼びに来た。広い座敷に向かうと親族たちはすでに正座していて、最後に入っていった私に彼らの関心が集中する。小さく会釈を返して家族として僧侶のすぐ後ろに座ると、好奇の視線をびしびしと背中に感じた。ある程度の事情は米沢さんの母親が話してくれているはずだけれど、と恐る恐る振り返ると、幼稚園の制服を着た少女が、目を丸くしながら小さく手を振ってくる。急に肩の力が抜けた私が手を振り返すと、少女は照れながら隣の母親に抱き着いて笑った。彼女の微笑ましい仕草に周囲の親族の表情が一度に緩むのを見た私は、恥をかかせたいという米沢さんの思惑が完全に的外れであったことを知った。隣で正座している彼女を肘でつついてからかってやると、遺影の中でいかめしい表情を作っている米沢さんの父親を見上げながら、私は目の前の抹香まっこうを額の前に押し頂いた。




 法要が終わり僧侶を送り出すと、ぶち抜きの広間はそのまま親族との会食場になった。冒頭で米沢さんの母親が、参列者に対するお礼の言葉を述べるともに、私の事を娘のパートナーだと改めて紹介した。家を出るまではそれなりに親族との付き合いがあったはずの米沢さんは、ここに来るまでの勢いはどこへやらすっかり縮こまっていたので、私が彼女の分まで矢面に立つ羽目になった。不束者ふつつかものですがよろしくお願いします、という私の挨拶に、すでに酒が回っていた親族たちはどっと沸いた。


「小島さんは、うちの真希ちゃんとはどこで知り合ったんだがね?」

「し、仕事です。真希さんがうちの会社に契約を持ち込んできてくれて、その担当がたまたま私で」


 米沢さんの叔父だという男性のグラスにビールを注ぎながら、私は乾いた笑いで応えた。これについては、嘘はまったくない。


「入籍、はできないんだっけ。でもせめて、式くらいは挙げてもいいんじゃない?」

「ええと、貯金に余裕が出来てからですかねえ。もう少し生活が安定してから、とは思っているんですけれど」


 しっかり者だねえ、と親族のおばさんは感心したようにうなずいてくれている。嘘を相手に信じ込ませるためには少しの真実を混ぜておくことだ、というのはどうやら本当らしい。


「わたしもお姉ちゃんたちみたいに、おともだちといっしょにおとまりしたいなあ」

「はは、もう少し大人になったらね」


 法要で手を振ってくれたみっちゃんの頭をなでてやると、彼女は私の周りから離れなくなった。

 柔らかな夏の午後のひと時。隣に目を向けると、米沢さんは放心したように実家でのどんちゃん騒ぎを眺めていた。心の空白を埋めるためには、それなりの時間が必要であるはずだろう。やがて車座の輪に組み入れられて酒をしきりに勧められた私は、飲める口ではあったけれど、ぼろが出ないように下戸げこで通した。




 米沢さんのパートナーという役割を最後まで押し通すと決めている私は、離れの奥座敷で彼女と枕を並べていた。網戸の外から響いてくるカヤキリの鳴き声を暗闇の中で聞いていると、それはまるで潮騒のように、遠い記憶を流してはまた引き寄せてくる。


「すいません、小島さん。この家、もう母の部屋しかエアコンがまともに動いていないらしくて」

「大丈夫ですよ、こんなに涼しいんですから。それに、なんだか修学旅行みたいで楽しいです」


 ふふ、と笑った米沢さんは、それこそ学生のような無邪気さで私の手を握った。


「あのう。小島さんは、どうして私の母に本当のことを言わなかったんですか? もちろん、感謝してもしきれませんけれど」


 確かに、自分がただの雇われ人であることを馬鹿正直に話して、あの場をぶち壊すことは簡単にできた。しかしそれを行った結果が、米沢さんが今は孤独であることを彼女の母親に暴露することになるのならば、二人を同時に傷つけることには何の意味もなかった。誰も恥をかく必要も道理もない、私一人が飲み込めばそれで済むことなのだから。

 それになにより、私は決定的な断絶というものに手を貸すことを恐れていた。幸いなことに米沢さんと彼女の母親との関係は、不可逆的なそれではなく可塑かそ性のあるものにとどまってくれていた。それについてはもちろん私の功績でも何でもなくて、あてずっぽうの賭けに今回はたまたま勝ったに過ぎなかった。


「それは私も必死でしたよ。あそこで本当のことを言って帰ってしまったら、契約不履行で残りのお金を頂けなくなるじゃないですか。米沢さんが私を引き留めてくれて、本当に良かったです」


 私のつまらない照れ隠しを、米沢さんはたやすく見抜いたようだった。ありがとう、と小さくつぶやいた彼女は、握る指にほんの少し力を込めながら、部屋を横切る夜風に言葉を乗せた。


「私、父のことは未だに許してはいません。私だけでなく初恋の人まで侮辱した、あの人のことは」

「でも、お母さんは」

「母は、父の言う事に黙って従うだけの弱い人でした。それでも、彼女が私を捨てる選択をした事実は消えません」

「たとえそうだとして、お二人は互いを無視することなく生きてきたんでしょう? それって、とても、幸せなことで……」


 不意に、のどの奥に熱い波が込み上げてきた。

 米沢さんの母親は、自分の人生を悔いて彼女を抱きしめてくれた。父親は遺言という形で、拒絶であっても米沢さんに自分の気持ちを残した。

 私のお母さんは。私を抱きしめてくれたことがあった?

 私のお父さんは。私に自分の気持ちを伝えてくれたことがあった?

 幼いころの私は、自分が恵まれていないなんて気にしたこともなかった。心のどこかで、家族一緒に笑い合える未来を信じていたから。そして、いわゆる普通の家庭とは違う、と他人から指摘された時には、もうすべてが手遅れで。

 誰も私を見てくれなかった。そして今も変わらず私は、朽ちかけた標識のようにかつての役割を失って、ただ独りで突っ立っている。手探りの中で私は、恐怖を覚えて震えた。いったい誰が、私の初盆を覚えていてくれるというの?

 白く浮かぶ天井を見上げながら涙を流し続ける私の身体を、身体を起こした米沢さんが驚きながらも抱きしめてくれる。私はせきをきったように、自分の人生を彼女の耳元に吐き出し続けた。

 突然に訪れた通り雨が、縁側を激しく叩き始める。草いきれのせいにしてむせかえる私の背中をさする、米沢さんの確かな手の温もりを感じながら、いつしか私は深い眠りに落ちていった。




 便利屋の夏の仕事は、当たり外れが大きい。花火大会の場所取り、なんていうのはかなり楽な部類で、最悪なのは何といっても草むしりだろう。都内にだって広い庭はあるものだな、と世の中の不公平に愚痴をこぼしながらジャージ姿で会社に戻ってきた私に、机の上に足を組んでいた上司が一通の封書を投げてよこした。


「……案内状?」


 中身を読みながら涙を落とした私に、手紙をぞんざいに扱ったためだと誤解した上司が慌てて謝り出す。大丈夫ですから、と彼を押しのけた私は、社屋の屋上に駆けあがると、一文字一文字を目で追いながらそれを読み返した。


――謹啓 

盛夏の候、皆様におかれましてはますますご健勝のこととお慶び申し上げます。

さて、亡父米沢富士雄の二回目の盆法要についてですが、今回は家族のみで執り行うこととなりました。

つきましては、下記の通り法要を執り行いますので、小島菜乃様におかれましてはご多忙中誠に恐縮ではございますが、故人をしのび、ぜひご参列賜りますようご案内申し上げます。

謹白

喪主 米沢真希――


 あれから再び夏が来て、そして私にはどうやらパートタイムの家族が出来たらしい。お盆だけでは物足りないです、などと罰当たりでぜいたくなことを言ったりしたら、米沢さんは果たして笑ってくれるだろうか。嘘から出たまこと、という言葉の可能性を信じてみてもいいかも、などと益体やくたいもないことを考えてしまうのも、この夏の暑さのせいなのかもしれない。

 私はポケットからボールペンを取り出すと、「出席」の項を大きく囲った。喪服はこれからも長く使うものだから、買っておいて損はないだろう。今月の給料日を指折り数えながら、割のいい仕事を上司に回してもらうために、私は足取りも軽やかにオフィスへと駆け戻った。


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