黄泉の審判 ― 神と閻魔の戦い ―

すぎやま よういち

第1話 魂の裂け目

一、天界の異変

朝霧に包まれた高天原の宮殿で、異変は静寂の中に生まれた。

天照大御神の御前に控える神々の間に、ざわめきが走る。黄金に輝く大広間の中央に浮かぶ「魂鏡(たまかがみ)」―― 人間界と冥府、そして天界を結ぶ三界の魂の流れを映し出すこの神器が、今朝から異様な光を放っていた。

「これは……」

若き神カグヤは、鏡面に映る光景に息を呑んだ。通常であれば、死者の魂は静かに冥府へと向かい、閻魔大王の裁きを受けた後、転生の光に包まれて再び人間界へと旅立つはずだった。しかし今、鏡に映る魂たちは激しく震え、進むべき道を見失ったかのように虚空を彷徨っている。その混乱の奥底には、単なる裁きの異常では説明できない、魂を凍らせるような深い悲しみと、抗いがたいほどの歪んだ正義感が、鏡全体に薄い膜のように覆いかぶさっているのが見て取れた。それは、まるで冥府を統べる者の心の叫びが、鏡を通して漏れ出しているかのようだった。

「カグヤよ」

厳かな声が響いた。天照大御神が、玉座から立ち上がる。その美しい顔には、深い憂いの色が浮かんでいた。

「母上……」

カグヤは跪き、頭を垂れる。彼は天照大御神の分身として生まれた若き神であり、慈愛と正義の心を受け継いでいた。長い黒髪を後ろで結い、白と金の神衣に身を包んだその姿は、まだ人間でいえば二十代前半ほどの青年に見えた。

「魂の流れに異常が生じておる。見よ、あの混乱を」

天照大御神が手を向けると、魂鏡の映像がより鮮明になった。そこには確かに、進路を見失った無数の魂が映っていた。彼らは恐怖に震え、迷子の子供のように泣き叫んでいる。

「なぜこのようなことが……」

「冥府に何かが起きておるのじゃ。閻魔大王の裁きに、異変が生じている」

天照大御神の言葉に、居並ぶ神々がざわめいた。月読尊、須佐之男尊をはじめとする高位の神々も、事態の深刻さを理解していた。

「母上、私が調べに参りましょう」

カグヤが進み出る。しかし天照大御神は首を振った。

「いや、まずは人間界の様子を見極めねばならぬ。魂の混乱は、必ずや現世にも影響を及ぼしているはず。カグヤよ、そなたに命ずる。人間界に降り、異変の原因を探るのじゃ」

「はい、母上」

カグヤは深く頭を下げた。人間界への降臨──それは神にとって重大な使命であり、同時に大きな試練でもあった。

二、降臨の準備

天照大御神の命を受け、カグヤは降臨の準備を整えることとなった。彼の護衛として選ばれたのは、剣神シラヌイである。

「久しぶりだな、カグヤ」

武器庫でカグヤを待っていたシラヌイは、相変わらず無表情だった。黒い髪を短く刈り、精悍な顔立ちをした彼は、神々の中でも屈指の戦闘能力を誇る。腰に差した神剣「天叢雲(あめのむらくも)」は、かつて須佐之男尊が八岐大蛇を斬った際に得た伝説の剣の分身である。

「シラヌイ、今回もよろしく頼む」

「ああ。だが今度の任務は容易ではない」

シラヌイの表情が僅かに曇る。

「以前、冥府で閻魔大王と刃を交えたことがある。あの時の彼は、まだ理性を保っていた。だが最近の魂の裁きを見る限り、何かが変わってしまったようだ」

「変わった、とは?」

「本来、閻魔大王の裁きは厳格だが公正だった。罪深い魂には相応の罰を、善良な魂には相応の報いを与えていた。しかし今は……」

シラヌイは言葉を濁した。

「どんな魂も、等しく厳罰を受けているという報告が上がっている。まるで、魂そのものを憎んでいるかのように」

カグヤの胸に、不安が広がった。閻魔大王といえば、死後の世界を司る重要な存在である。その彼が変貌を遂げているとすれば、人間界への影響は計り知れない。

「とにかく、まずは現状を把握することから始めよう」

二人は武器と神具を身につけ、降臨の門へと向かった。

三、現世の街角で

人間界──現代日本の東京都内。

カグヤとシラヌイは、人間の姿に変身して街中に現れた。カグヤは大学生風の青年に、シラヌイは黒いスーツを着たサラリーマン風の男性に化けている。

「うむ、人間の世界は相変わらず賑やかだな」

カグヤは興味深そうに街並みを見回した。高層ビルが立ち並び、多くの人々が行き交う東京の光景は、天界とは全く異なる活気に満ちている。

「任務を忘れるなよ」

シラヌイが釘を刺すが、カグヤの人間界への愛情は深い。彼は人間の持つ可能性と美しさを心から信じており、それゆえに今回の異変を何としても解決したいと願っていた。

二人は、まず霊的な異変が起きやすい場所──都内の古い神社を訪れることにした。明治神宮の境内を歩いていると、カグヤの神力が微細な異変を感知した。

「シラヌイ、あそこだ」

カグヤが指差した先には、境内の奥にある小さな祠があった。一見すると何の変哲もない建物だが、神の目には霊的な歪みが見えている。

「確かに、空間が歪んでいる」

二人は祠に近づいた。すると突然、空気が震え、目の前に半透明の人影が現れた。

「た、助けて……」

それは、中年男性の魂だった。彼は生前の姿のまま、混乱した様子でカグヤたちを見つめている。

「あなたは……亡くなられた方ですね」

カグヤが優しく声をかけると、男性の魂は安堵の表情を浮かべた。

「そう、そうなんです。先週、交通事故で……でも、どうしても冥府に行けないんです。道が、道がわからなくて……」

通常であれば、死者の魂は自然に冥府へと導かれるはずだった。しかしこの魂は明らかに迷子になっている。

「怖いんです。あの黒い影が……」

「黒い影?」

シラヌイが身を乗り出した。

「はい、冥府の入り口で、巨大な黒い影を見ました。それがとても恐ろしくて、近づけないんです。他にも同じような魂がたくさんいて、みんな震えています」

カグヤとシラヌイは顔を見合わせた。これは明らかに異常事態である。

「大丈夫です。私たちが何とかします」

カグヤは男性の魂に微笑みかけ、神力で彼を安らかな光に包んだ。魂は安心したように消えていく──ただし、本来向かうべき冥府ではなく、天界の一時避難所へと送られた。

「他にも迷っている魂がいるはずだ」

「ああ。そして問題の本質は冥府にある」

四、霊的調査

その後、カグヤとシラヌイは都内各地を回り、迷える魂たちと接触した。どの魂も同様の証言をする──冥府の入り口に恐ろしい何かがいて、近づくことができないのだと。

夕方、二人は代々木公園のベンチに座り、情報を整理していた。

「状況は予想以上に深刻だ」

シラヌイが腕を組む。

「今日だけで、三十体以上の迷える魂を発見した。彼らの話をまとめると、冥府の入り口付近に『虚無の気配』があるらしい」

「虚無?」

カグヤが首をかしげた。

「魂を消し去ろうとする力……それは何を意味するのでしょう?」

「わからん。だが確実に言えるのは、閻魔大王が何らかの影響を受けているということだ」

その時、カグヤの神力が強い霊的波動を感知した。

「シラヌイ、来ます」

公園の向こうから、一人の女性が歩いてくる。しかしカグヤの神眼には、彼女の正体が見えていた──それは鬼の気配を纏った存在である。

女性は二人の前で立ち止まった。美しい顔立ちだが、その瞳には深い悲しみが宿っている。長い黒髪、赤い着物──明らかに現代の人間ではない。

「天界の神々よ」

女性が口を開いた。その声は鈴を転がすように美しいが、どこか空虚な響きを含んでいる。

「私はヒミカ。冥府に仕える鬼女です」

「ヒミカ……」

カグヤは彼女の名前を聞いたことがあった。かつて天界にいた天使が、何らかの理由で冥府に落ちた存在だと。

「閻魔大王の使いとして参りました。大王は、天界の神々が人間界に干渉していることを知っておられます」

シラヌイが剣の柄に手をかけたが、ヒミカは戦闘の意思を見せない。

「大王は何と?」

「『魂の審判の時は近い。天界の神々が余計な干渉をするならば、それ相応の対処をする』と」

カグヤの胸に、不安が広がった。魂の審判──それは千年に一度行われる、三界の均衡を決める重要な儀式である。まだその時期ではないはずなのに、なぜ閻魔大王はそれを早めようとしているのか。

「ヒミカさん、一つお聞きしたい」

カグヤが立ち上がった。

「閻魔大王に、何が起きているのですか?魂たちは皆、冥府を恐れています。これは正常なことではない」

ヒミカの表情が、一瞬揺らいだ。

「……それは、あなた方が直接確かめるべきことです」

彼女は振り返りかけて、しかし足を止めた。

「ただし、忠告します。大王は……以前の大王ではありません。近づけば、あなた方も危険に晒されるでしょう」

「危険とは?」

「魂を、消し去られるかもしれません」

ヒミカの言葉に、カグヤとシラヌイは戦慄した。魂を消し去る──それは神にとっても死を意味する。

「なぜあなたは、私たちに警告を?」

カグヤの問いに、ヒミカは悲しげに微笑んだ。

「私も、かつては天に仕える身でした。そして今でも……大王を救いたいと願っているからです」

彼女の姿が薄れていく。

「時間がありません。魂の審判が始まれば、すべての魂が裁かれ、転生の道は永遠に閉ざされるでしょう」

「待って!」

カグヤが手を伸ばしたが、ヒミカの姿は既に消えていた。

五、決意

夜が更け、都内の霊的活動も静まった頃、カグヤとシラヌイは宿泊先のホテルで今後の方針を話し合っていた。

「事態は予想以上に深刻だ」

シラヌイが窓の外を見つめながら言った。

「魂の審判が早まれば、人間の転生システムが根本から変わってしまう。それは人類の未来に関わる大問題だ」

「ヒミカさんの言葉が気になります」

カグヤは思案深げに答えた。

「閻魔大王が『以前の大王ではない』と……何かに取り憑かれているのでしょうか?」

「可能性はある。強大な力を持つ存在であれば、外部からの侵食を受けることもありうる」

シラヌイの推測に、カグヤは頷いた。

「であれば、大王を救うことが先決ですね」

「だが、そのためには冥府に潜入しなければならない。これは極めて危険な任務だ」

「それでも、やらなければならないことです」

カグヤの瞳に、強い決意の光が宿った。

「人間の魂を守ること、それが私の使命です。そして、もし閻魔大王が何かに苦しんでいるなら、彼を救うことも神の務めでしょう」

シラヌイは、カグヤの決意を確認するように見つめた。

「わかった。ならば明日、冥府への道を探そう」

「はい」

二人は翌日の計画を練り始めた。冥府への入り口は複数存在するが、最も確実なのは地獄の門を通ることである。しかしそこは閻魔大王の監視が最も厳しい場所でもあった。

「六道の試練を通る必要があるかもしれない」

シラヌイが地図に印をつけながら言った。

「天界、修羅界、人間界、畜生界、餓鬼界、地獄界──それぞれの世界を経由して冥府の中心部に向かう古い道がある」

「それは……相当な困難を伴いますね」

「ああ。だが、正面突破よりは発見される可能性が低い」

カグヤは深く息を吸った。明日から始まる旅路は、おそらく彼の人生で最も困難なものとなるだろう。しかし、迷える魂たちの悲しげな表情を思い出すと、躊躇している場合ではなかった。

「シラヌイ、ありがとう。一人では、とてもこんな任務は果たせません」

「気にするな。俺も、この異変を放置しておくわけにはいかない」

二人の友情は、長い年月を経て深く結ばれていた。天界で共に過ごした時間、人間界での任務、そして今回の危機──すべてが彼らの絆を強くしている。

外では、東京の夜景が美しく輝いている。無数の灯りは、そこに住む人々の営みを表していた。彼らは知らない──自分たちの魂の行方が、今まさに危機に瀕していることを。

「人間たちを守らなければ」

カグヤは窓に手を当てて呟いた。

「彼らの魂は、これほどまでに美しく輝いているのに」

「ああ、だからこそ価値がある」

シラヌイも同意した。

「明日、冥府への旅が始まる。準備はいいか?」

「はい。すべてを賭けて、この異変を解決しましょう」

夜が深まる中、二人の神は最後の準備を整えていた。明日からの旅路がどれほど困難なものであろうとも、彼らには揺るがない信念があった──人間の魂を守り、真実を明らかにするという、神としての使命が。

そして遠く冥府では、閻魔大王が玉座に座り、虚空を見つめていた。その瞳には、かつての慈悲深さはもはや存在しない。代わりにあるのは、すべてを無に帰そうとする暗い意志だった。

魂の審判の時は、確実に近づいている。天界と冥府、神と閻魔王の戦いの火蓋が、今まさに切って落とされようとしていた。


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