舌先の幸福
奈良まさや
第1話
第一章:舌先の秘密
蜜美(みつみ)、34歳。
つい先日、誠也(32)と6年目の記念日を祝った。
小洒落たビストロで、予約してくれた席。白ワインを2杯飲んだあたりで、彼はスマホをちらりと確認し、トイレに立った。
画面が一瞬光り、そこに「真理子」の名前が浮かんだのを、蜜美は見逃さなかった。
「また、あの人か」
蜜美の胸が締め付けられる。6年前、誠也が婚約破棄した相手。彼の心から消えたことはないのだろう。
その夜、彼の寝息を聞きながら、蜜美は目を開けて天井を見つめていた。
自分はただの暇つぶし。6年前、彼が婚約破棄で落ち込んでいた時期に偶然出会った。
癒しだった。都合のいい女、という言葉をあえて使わなかったけれど、そういう位置だった。
彼の心には、ずっと別の誰かがいた。それは確信だった。
——でも、愛してる。
どんなに蔑ろにされても、蔑まれても、誠也を愛していることに変わりはなかった。
それなりに接してくれている。それだけでも、ありがたい。
蜜美には秘密がある。
キスのとき、舌を深く入れると、舌が千切れるのだ。
ただ、千切れるだけではなかった。千切れた舌は生き物のように動き出し、相手の喉を這い、食道を伝い、胃や腸を這い回る。そして内臓のどこかで暴れ、血の花を咲かせる。
痛みと恐怖の中で、相手は死ぬ、自分も出血多量で死ぬ——それが蜜美の知る結末だった。
だが、本当にそうなのか。蜜美の中には不確かな記憶が揺れていた。
「もしかしたら、舌は戻ってくるのかもしれない」
蜜美はその異常を、18歳の初体験のときから知っていた。恐怖と混乱の中で病院に駆け込んだことで助かったが、医者も何も理解できず、ただ「外傷性の損傷」とだけ記録された。
それ以降、誰とも深いキスを交わすことはなかった。
誠也と付き合い始めても、いつも表面的な口づけで済ませた。彼がそれに不満を言ったことはない。それもまた、蜜美の心を冷やした。
「この人は、私を本気で求めていない」
——でも、だったら。
だったら、一緒に死ねばいい。
最期まで一緒にいる方法が、これしかないのなら。
この身体に宿った"呪い"が、唯一自分に許された愛の形なのなら。
誠也を自分の中に取り込み、舌を這わせて、内臓の一部にして、死の瞬間まで一緒にいる。
そう考えた途端、蜜美の心は、不思議と軽くなった。
だが同時に、記憶の奥底で何かが揺れ動いた。母の面影。母の日記の断片。そして、12歳の時に聞いた話。
「いや、それでいいのかしら」
蜜美は自問した。本当にそれが愛なのか。
でも今はまだ、答えが見つからない。
「今日、元気そうだね」
「うん。なんか、気持ちが楽になった」
「俺、最近さ、ちゃんと君のこと見てなかったなって思った」
「ふふ。今さら?」
誠也は少し照れ笑いをして、蜜美の手を取った。
そのぬくもりに、蜜美の決意はさらに強くなる。
この一瞬が、最高で最後の幸福かもしれない。
今夜。
いつものように、部屋に戻った。
静かに抱き合って、キスをした。
いつにしよう?
彼の唇をこじ開けて、舌を挿し入れるのは。
そう考えると、マンネリの夜すら愛おしく感じた。
数日後の週末に、誠也が予約してくれた温泉宿。
そこで、終わらせよう。
白いシーツの上で、私はあなたと溶け合い、死ぬ。
それとも——別の結末が待っているのだろうか。
誰よりも近くで、誰よりも深く。
——舌先の幸福。それが、私に許された最期の愛のかたち。
第二章:母の記憶
温泉宿への出発前夜、蜜美は実家の仏壇に手を合わせた。
母・恵子の遺影が、いつものように微笑んでいる。
「お母さんも、同じだったの?」
母・恵子は蜜美が12歳の時に亡くなった。死因は「原因不明の内出血」。医師たちは首をかしげ、検死でも何も分からなかった。
ただ、舌に深い裂傷があったことだけが記録に残っている。
恵子の日記を読み返すと、そこには愛する人への想いと、言葉にできない苦悩が綴られていた。
『この身体は呪われている』
『でも愛してしまう』
『勝也には言えない。彼を傷つけたくない』
『でも心は...あの人を忘れられない』
そして最後のページには不思議な一文があった。
『舌は、愛を運ぶ器。選べば、命を生み出すことも、奪うこともできる』
母も、同じ運命を背負っていたのだ。
そして最期は、何かを選択したようだった。その選択が何だったのか、蜜美にはまだ分からない。
蜜美は日記の最後のページをそっと撫でた。
「私は何を選べばいいの?」
その時、父・勝也が仏間に入ってきた。
「蜜美、お母さんに話しかけているのか」
「うん...お母さんのこと、考えていたの」
「恵子はいつも、お前のことを心配していたよ」
父の目には、複雑な感情が浮かんでいた。
何か知っている——そう直感したが、蜜美は聞く勇気が持てなかった。
「お父さん、温泉旅行、行ってくるね」
「ああ、楽しんでこい」
勝也の笑顔の奥に、どこか悲しげな影を感じた。
父は何を知っているのだろう。そして母は、どんな選択をしたのだろう。
第三章:温泉宿での告白
翌日、山間の静かな温泉宿に到着した。
夕食を終え、部屋に戻ると、誠也は神妙な顔で正座していた。
「蜜美、話がある」
彼の表情を見て、蜜美の心臓が早鐘を打った。でも、不思議と慌てる気持ちはなかった。
むしろ、予感していたことが現実になる瞬間を、冷静に迎えようとしていた。
「真理子と、復縁することになった」
真理子。6年前に婚約破棄した相手。
蜜美は静かに頷いた。
「そう。やっと、本当の気持ちに気づいたのね」
「ごめん。君は、本当にいい人で…」
「都合のいい女だった、って言って」
誠也は言葉を失った。蜜美の顔が、あまりにも穏やかだったから。
「君を傷つけるつもりじゃ…」
「傷ついてないよ。むしろ、ありがとう」
蜜美は立ち上がり、誠也の前に座った。
心の中では、相反する感情が交錯していた。怒り、悲しみ、絶望、そして奇妙な解放感。
「今夜が最後ね」
と微笑む。
その言葉に、自分でも気づかないほどの決意が込められていた。
一緒に死のう——という思い。
もう一つの可能性。母の日記に書かれていた「選択」はもう忘れていた。
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