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 溢れる光の恩寵を受けた湖畔風景は、もうすっかりと朝の彩りに染まっていた。朧げに残る霧の残滓さえも、今にも薄れ消えようとしていた。夜の残り香に秘匿されていた風景が、次々と明るみにされてゆく。そして、この領域の全貌が、次々と輝きを増してゆく。


 至るところに溢れているのは、風に揺られて騒めく樹々や朝露に濡れる草木の彩り。微かに陰りを帯びた一角には、朧げに残された霧に包まれた小さな丘が覗き見える。決して広大な土地とは言えないものの、自然の寵愛を受けた穏やかな風景が、湖畔一帯に満ち溢れていた。


 萌黄に染まる穏やかな風景の中心には、澄み渡る水鏡が輝いている。霧が薄れて全貌が明らかにされた今、水面には朝を迎えたばかりの山間が鮮明に描写されていた。この世の全てを映し出す鏡––––鏡映しに存在する並行領域––––全てを写し出す根源たる鏡玉––––。なんとも言い難い幻想的な光景は、近付くに連れて徐々に印象を変えてゆく。ある一定の距離を踏み越えると、光の加減が変化を遂げるために、水鏡の奥底を覗き見ることができる。


 透過された鏡面に映し出されているのは、水面の境界の向こう側。湖の内側から滲み出す躍動が、鏡映しの山間風景に重なり合ってゆく。波打つような揺らぎが漂うと、描き出された風景が妖しげに歪み形質を変えてゆく。鏡面を塗り染める奇妙な揺らぎが及ぼすのは、現実との乖離を促すような変容。


 ぐにゃりと湾曲する空を舞うように、滑らかな影が流れてゆく。天から注ぐ光に照らされて、きらりきらりと煌めく姿は、優雅な円舞風景のそのものだった。煌びやかな流線を引く影たちが、滑らかな模様を描き出す。不思議な軌道が波打つと、幾重にも重なる波紋が生じてゆく。水面揺さぶる細波が輝くと、新たな光が次々と迸る。水と戯れる精霊のような煌めきの数々は、夜空を彩る星々にも似ていた。しかし、それとは全く異なった躍動感が、至るところに溢れ返っていた。


 踊り戯れる光の正体は、瑞々しい表皮を誇る魚たち。水面に映し出された空を舞いながらも、皆が揃って朝の優雅な遊泳を楽しんでいる。その印象はどこかしら、未だに浅い夢に揺蕩う湖底へと、目覚めの息吹を伝えているかのようだ。波紋に揺られて水面が煌めくと、更なる光が奥底へと響いてゆく。朝の彩りが注がれた湖中には、大小さまざまな形質の魚たちが自由気ままに泳ぎ回っていた。更に奥深くへと向かうに連れて、夜の名残を滲ませるように、徐々に光が遮られてゆく。その先へと続くのは、未だに眠り続ける湖底の風景。

 

 湖底に向かうに従って、時が遡るかのように、周囲は薄闇に塗り潰されてゆく。やがて、全てが常闇に包み込まれようとすると、彼方の果てから仄かな明滅模様が滲み出す。光を頼りにどこまでも、深く深くへと沈み落ちてゆくと、岩肌そのものが脈打つように、水に蕩けた光の揺らぎが押し寄せる。あまりに奇怪な脈動が、徐々に光量を増してゆく。次々と明るみにされてゆくのは、眠り続ける怪物を予感させる様相。恐ろしき姿を際立たせるように、天から注ぐ光が勢いを増してゆく。湖底の闇が薄れると、岩肌に宿る怪物たる存在の正体が暴き出されてゆく。


 薄闇に閉ざされた湖底を彩る明滅は、岩陰に宿る個体群によって生み出されていた。一つ一つが異なる個性を持つように、微かに乱れた明滅が刻まれる。その光が内側から放たれているのか……それとも、降り注ぐ薄光を反射させているのか……そのどちらかは分からない。確かなことは一つだけ。岩肌を彩る煌めきを生み出すのは、湖底に生きる宝石にも似た貝殻の集落。こぽこぽと泡を吐きながらも、夢の残滓に浸るように、貝たちは明滅を続けていた。自慢の殻を煌々と輝かせては、岩陰から目覚めの光を滲ませる。薄闇に滲む輝きが増してゆくと、ようやく湖底にも朝が訪れる。


 目覚めたばかりの深淵には、極めてゆるやかな時が流れていた。最長老たる大魚が姿を現すと、ゆったりと時間をかけて湖底を流れ横切ってゆく。とても眠そうに泳ぐ姿の傍らに、不思議な影が覗き見えた。妖しき色を塗り染める絵筆のように、儚き流れが引かれては、湖底に墨を滲ませる。そんな奇妙な在り方で、老成した大魚と語らうように並走を続ける影帯は、優雅に流れ去っていった。


 尾を引くように残された彩りが、次なる謎を滲ませる。奇妙な絵筆が流れると、朝の彩りが染み出してゆく。なんとも不思議な遊泳模様の印象は、魚たちとは少し異なった様子を見せ付けた。流れのままに紡がれるのは、優雅な舞踏そのものだった。水面に映し出された天上を臨むようにして、ゆらりゆらりと湖底の舞台で舞い踊る。降り注ぐ光が明るさを増してゆくと、終幕の所作を取るようにして、大魚の鼻先へと舞い戻る。


 虚ろげに姿を暈された影帯は、別れを告げるように大魚を撫で付けた。ゆらりと水を薙ぎ払うと、湖底から離れて遥か上方へと向かってゆく。魚の群れが織り成す対流をくぐり抜け、天に到達するほどの勢いで、湖中を昇り貫いてゆく。やがて、影は世界を隔てる境界を超えて、ぬるりと水面を突き抜けた。水の支配する湖中から、大気司る地上へと姿を現した瞬間に、新たなる彩り押し寄せた。それは、歓迎の思惑を伝えようとするような、澄み渡る朝の湖畔風景。稜線から完全に姿を表した光球が、余すことなく湖畔を輝かせていた。まさに、一日の始まりに相応しい色彩が、至るところに溢れていた。黒に塗り染められた影もまた、神々しい光に染められて、その素性を現そうとしていた。

 

 玄の色合いに塗り潰された半身は、未だ明確な姿を示すには至らない。それでも、燦々と降り注ぐ光を浴びる様子からは、何とも心地良さげな様子が伝わってくる。微風に運ばれた朝の香気を堪能するように、ゆったりと弓なりに身体が伸ばされる。その姿は、やはり湖に住まう魚とは、大きく異なった面影を見せていた。たっぷりと朝の空気を堪能すると、影は水に溶けてゆくように悠々と泳ぎ出した。向かう先に待ち受けていたのは、湖の中央に隆起した滑らかな岩山。目的の場所へと泳ぎ着いた影は、するりと滑らかに水面から飛び上った。煌めく水飛沫を舞い散らせて、滑らかな灰白色の岩肌に乗り上がると、その素性が白日の元に晒される。


 真っ先に明るみされたのは、黒く艶やかな鱗に包まれた尾鰭。無機的な灰白の岩肌と、有機的な黒き尾鰭の対象が、朝の湖畔に新たな色を塗り落とす。柔らかな光に煌めく尾鰭を辿ると、随分と異質な上体が露にされてゆく。水に潤う表皮の印象は、陶器のように滑らかで青白く、魚に与えられたものとは大きく異なっていた。素肌のみならず、その形質さえもまた、湖に住まう水棲とは違う。不思議な姿はどこかしら、天上から舞い降りた存在とも言えそうなほどに、神秘的な印象を帯びていた。


 か細い体躯をなぞるように、繊細な絹糸を思わせる髪が揺れている。その奥深き彩りは、尾鰭と同じように漆黒に染まっていた。蒼白な素肌とは対照的な色調が、華奢な背中を包み隠すように流れ落ちてゆく。そして、尾鰭を彩る鱗に通じる境界を、ゆらりと悩ましげに擽った。さらりと吹き込んだ微風が、青絲の御髪を撫で付ける。流れ舞う漆黒の揺らぎが、相反する色調の肌を掠めてゆく。明らかにされようとした素性を秘匿するように、潤い溢れる黒髪が全てを包み隠して塗り潰す。痺れを切らした微風が、控え目に包み隠されていた表情を覗き込もうと試みる。


 ふわりと髪が煽り立てられると、隠されていた横顔が暴かれる。僅かに覗き見えた優美な微笑みには、仄かな悲哀が滲んでいた。穢れ知らずの風貌は、この世の者とは異なった美しさを帯びていた。素性を現した不思議な乙女は、黒紫色に染まる瞳を傾けて、水面を映る風景を眺めている。心地良さげに朝の風景に浸り込み、微風に届けられた芳香を堪能する姿は、儚きまでに美しい。滲み溢れる陰翳は、なんとも神々しき佇まいを見せ付けていた。


 人と魚の身を分けたような乙女の姿は、大海に住まう人魚族そのものだ。一般的に人魚族とは、陸地から隔絶した海域に隠れ住む種族とされている。その外見的特徴としては、淡く華やかな色調の鱗を有する傾向があると云われている。そして、とある事情が影響して、今では大きく個体数を減らしていた。


 湖畔に住まう漆黒の人魚は、天涯孤独の存在だった。黒き色を有するのみならず、山奥の湖に住まうということは、人魚族らしからぬ生態に他ならない。未だかつて同族に出会ったこともなければ、他の種族に出会したこともない。共生関係にある存在は、湖畔を彩る花々や、湖に住まう魚を始めとした水棲のみ。生まれた時から一度たりとも湖畔から離れることはなく、ずっと独りで暮らしていた。


 湖の北側に向かえば、湖畔の外へと通じる川が流れている。人魚はその先にゆくことはおろか、近付くことさえ忌避していた。湖畔と外界を隔てる境界を超えることは、極めて恐ろしい行為に他ならなかった。本能的な恐怖心に刺激されるが故に、湖畔から離れようとする思いを抱くことは、一度たりともなかった。安全な美しき湖畔に身を置けば、きっと何も恐れることはない。聖域たる領域に護られた状態で、穏やかな時の流れに身を委ねること。それこそが、何にも変え難い最高の幸福なのだ。


 安寧に満ち溢れた湖畔は、世界から完全に切り離されたかのように、何者からも侵害されることはない。何も変わることのないこの場所で、穏やかな時の変遷に心を委ねて耽り落ちてゆく。外界から護られた湖畔にただ独り、人魚は静寂に満ちた優雅な日々を過していた。

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