陽炎の中の女
階段甘栗野郎
陽炎の中の女
あれは、大学二年の夏休みのことだった。
猛暑日が続いて、昼間に外に出るのが億劫な時期だったけど、俺は免許を取ったばかりで、家にある古い軽自動車を使って、ひとりでちょっとしたドライブをするのが日課になっていた。
行き先は特になくて、地図も見ずに、なんとなく知らない道を選んで走るのが楽しくて仕方がなかった。
そうして、ある日、山の方へと車を走らせていると、舗装はされていたが、道幅の狭い山道。
ガードレールの向こうは谷になっていて、緑が濃く、蝉の声が金属音のように響いていた。
昼下がり、じりじりとした陽射しの中、俺はふと、前方の道路に違和感を覚えた。
路面が波打っている・・・いや、違う。
あれは、「逃げ水」だ。
子どもの頃から、炎天下に見えるあの現象が不思議でならなかった。
道路の先に水たまりのようなものが見えて、近づくと逃げる。
あれが、いま目の前にある。
「うわ、久しぶりに見たな・・・」
そう思って、アクセルを緩めた。
けれど、少しおかしい。
通常、逃げ水はもっと自然に揺らいでいるものだ。
でも、今見えているそれは、やけに静かだった。
しかも、逃げない。消えない。
そして、その、逃げ水の中央に人影が立っていた。
一瞬、直射日光の幻覚かと思ったが、でも、確かにそこに女がいた。
白っぽいワンピースに、長い黒髪。
立ち尽くして、こちらに背を向けて立っていた。
俺は急ブレーキを踏んだ。
山道で人なんてまず見ない。
しかも、炎天下に日傘も帽子もなく、影の中に佇むような姿・・・まるで、そこだけ空気が歪んでいるようだった。
「・・・大丈夫ですか?」
窓を開けて声をかけると、女はゆっくりとこちらに顔を向けた。
だが、顔が・・・見えない。
髪に隠れてるとかじゃない、影みたいになっていた。
日陰にいるわけでもないのに、顔の部分だけが黒く、ぬらぬらとした墨のように揺れていた。
その時、日差しの中なのに、車内がひんやりとした。
エアコンは切っている。なのに・・・息が白く見えるような錯覚すらした。
女は、顔の影を揺らしながら、無言で手を挙げた。
それが、車を「止めろ」と言っているように見えた。
瞬時に、全身に寒気感じ鳥肌が立った。
・・・逃げろ!
理屈じゃない、本能が、全身の神経を総動員して警鐘を鳴らしていた。
俺は、急発進した。
アクセルを全開にして、逃げ水の上を突っ切るように走っる。
でも、そこにはもう、逃げ水も、女の姿もなかった。
走り抜けた後、バックミラーを見たが・・・誰もいない。
でも、心臓の音が収まらなかった。
指先が震えて、冷や汗が止まらなかった。
しばらく走って、国道に出たところでようやく安心して、コンビニの駐車場に車を停めた。
車から降りようとしたときに、ルームミラーに、何かが写った。
助手席の窓の外、白いワンピースの女が立っていた。
ただ立って、ミラー越しに俺の顔を見ていた。
今度は、はっきり見えた。
顔は、なかった。
ただ、のっぺらとした影のくぼみだけが、こちらに向いていた。
口も鼻も、目すらもないのに、なぜか笑っている気がした。
俺は反射的に車のドアを開けて飛び降りた。
通行人が驚いた顔をして、こちらを見ている。
もう一度、助手席側を見たが、もうそこに女はいなかった。
コンビニの店内に入って冷たい飲み物を手に取っても、足の震えが止まらなかった。
家に帰ったその夜、俺は高熱を出した。
38度以上の熱が三日間続き、悪夢を見続けた。
白い道、逃げ水の上に立ち尽くす女。
近づいてくるが、顔がない。
でも、なぜか、声だけが耳元で笑っていた。
「見つけた」
そう、囁いていた。
それから二週間後、バイト先の友人が事故で亡くなった。
事故ったのは、俺が女を見た山道だった。
彼が亡くなる前日に、俺にLINEを送ってきていた。
「お前がこの間言ってた逃げ水の道、俺も行ってみたわw。変な女が立っててさ、マジで焦ったよ。でも、全然消えないんだよな。あれ幽霊か?」
俺はそれを、既読にすらできなかった。
夏が来るたびに思い出す。
照りつける陽射し。
ゆらめく道路。
その先に、立ち尽くす白い影。
ある日から、気づいたことがある。
車で走っているとき、ミラー越しに時々、白いワンピースがちらつく。
絶対にいないはずの距離で、誰かが立っているように感じる。
・・・逃げ水
あれは、陽炎じゃない。
あれは、境界線なんだ。
この世と、あの世の。記憶と、忘却の。俺たちと、彼女の。
逃げ水の上に立つ女は、決して幻なんかじゃない。
あれは、こちらを見ている。
近づけば、飲まれる。
自分の顔を、名前を、居場所を忘れて、永遠に、あの夏の熱の中に取り込まれる。
だからもし、あなたが真夏の道路で、逃げ水の中に人の姿を見かけたら。
どうか、絶対に近づかないでください。
振り向かれる前に、逃げてください。
笑ってないのに、笑っている女が、いまも、どこかで
あなたの車のミラーの奥に、立っているかもしれないのだから。
陽炎の中の女 階段甘栗野郎 @kaidanamaguri
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