たまゆら婚姻譚

ミコト楚良

引田部の乙女

第1話

 とある大王おおきみの御世のお話である。



 大王おおきみは巡察で訪れた地で、河のほとりにお出かけになった。

 河辺では乙女たちが衣を洗っていた。

 その中のまだ少女とも言える乙女に大王おおきみは目を留めた。

「そなたの名はなんと言う?」


阿加猪子あかいこと申します」

 乙女は、とまどいながらも名を告げた。

「そなたは誰とも結婚するではないぞ。私が、いずれ宮居みやいへそなたを迎え入れよう」 

 大王おおきみは乙女の家に使いを送り、求婚なすったのだ。


 ゆえに乙女は大王の迎えを待った。

 ひとつき、みつき。

 いちねん、さんねん。


 妹たちが婚姻しても、乙女は「大王が私をお召しになると仰ったのです。他の方に嫁ぐことはできません」と、大王の迎えを待っていた。


 じゅうねん。じゅうごねん。


 父親は黄泉路よみじを渡り、母親も床に臥すことが多くなった。気がつけば乙女は三十路みそじも間近となっていた。


「ねぇ、あーちゃん」

 乙女の妹の娘は、名を白多麻しらたまといった。

 母親に頼まれて、阿加猪子あかいこのところへよくお使いに来ていた。

「なんぼなんでも大王おおきみは待たせ過ぎとちゃう? お父とお母も言うとった」

「位の高い方にはね、いろいろ御都合があるのだと思うの」

 伯母は姪をたしなめる。

大王おおきみが、あーちゃんに求婚したの、ぼくが生まれる前だよ。いくらなんでも待たせ過ぎだよ。大王おおきみ、忘れとんのちゃう?」


「そんなこと」

 あるはずがないと阿加猪子あかいこは。言い切れなかった。

「もしかして、忘れられている?」


「あぁ、阿加猪子あかいこ口惜くちおしい」

 気がつけば臥せっていたはずの母が起き上がって来て、柱にもたれていた。

「お前は娘たちの中でもいっとう賢く、うつくしい娘だった。お前の嫁ぐ日をどんなにかお父さまも待ち望んでいたか」

 ごほごほと母は咳き込んだ。

「寝てなきゃだめだよ。おばあちゃま」

 白多麻しらたまが祖母である阿加猪子あかいこの母の細い身体からだを支えた。


 ――もしかして婚姻の約束はすっかり忘れ去られている。

 阿加猪子あかいこは目の前が真っ暗になりそうだった。

「縁談もすべて断って待っていたのに。私、もう三十路ですわ。同い年の子なんて、もう子供が成人している子もいるのに」


  阿加猪子あかいこの嘆きを聞いた気まずい沈黙の後、「よっしゃ!」と、拳を握りしめ立ち上がったのは白多麻しらたまだった。

「今ならギリギリ間に合う。あーちゃん、都、行こ。大王おおきみのところへ行こ。婚姻の約束守れって言いに行こ!」


「そんなこと……」

 阿加猪子あかいこは、しり込みした。

「ぼくもいっしょに行くからっ」

「だめよ、だめだめ。白多麻しらたまだって、都へ行くなんて御両親が許すはずがない」


「行きなさい、阿加猪子あかいこ

 意外にも後押ししたのは、病床の母だった。

「私がこんな体でなければ、大王おおきみの襟首掴んでどれだけ待たせれば気がすむんだいと言ってやりたい」


「行こう! あーちゃん!」

 姪は伯母の両手を握りしめた。

 つややかな白多麻しらたまの十代の手。阿加猪子あかいこの手は筋張って、最近では爪もくすみがちになった。


 ――われ大王おおきみの言葉を信じている。でも、もう限界。待っているだけなんて。


「行くわ。都に。行って大王おおきみに直訴する。『約束、覚えてらっしゃいます?』って」

 阿加猪子あかいこは決心した。



 しかし、都へ行くことを一族の者、特に白多麻しらたまの両親に知られたら、絶対に反対される。

 阿加猪子あかいこ白多麻しらたまは河へ洗たくに行くふりをして、ごうを抜け出すことにした。


「しーちゃん、本当に、いいの? あなたまで巻き込んでは、御両親に申し訳ないわ……」

 白多麻しらたまは背中に大きめの洗たくかごを背負っているのに、飛び跳ねるように歩む。阿加猪子あかいこは、ついていくのに息が切れそうだった。自分も昔は飛び跳ねていたのに。

「いいの。ぼくもごうを出たかったの。女の印を迎えたとたん、お父が婿むこを取れって言い出して」

 娘が女の印を迎えれば、父親は婿を探す。まわりの男たちも女として扱いはじめる。

「婿候補がさ、キモいおじさんでさ。それが石女いしめちゃんにも、鹿女しかめちゃんにも、このおじさん、縁談を持ちかけてたんだよ。なくない? 石女いしめちゃんも鹿女しかめちゃんも、ぼくもまったく見た目性格ちがう。若い女なら誰でもいいんじゃん」

「まぁ、『あそこの娘は美人らしいぞ』とか、噂だけで男性は求婚するしかないから」

 白多麻しらたまの家に跡取りの弟はいるが、まだ二歳。義弟は手助けしてくれる娘婿が欲しかったのだろう。

「お母はお母で巫女みこになれと言うし」

 

 阿加猪子あかいこ白多麻しらたまの家は引田部ひきたべという部族だ。

 始祖の男は、水の神に仕える機織女はたおりめに入り婿した。

 引田部ひきたべの女子は幼い時から水の神を祀る手伝いをする。大王おおきみに見初められた時、阿加猪子あかいこが河で洗たくをしていたのは、神のための衣を川の水にさらしていたのだ。そのまま長じて女子は、いく人かは水の神の花嫁となる。水の神のために衣食住を調える巫女となる。

 阿加猪子あかいこもただ漫然と大王おおきみの迎えを待っていたのではなく、巫女の中枢としての役目を担っていた。


「お前の母親は巫女みこになりたがっていたわ」

「お母は、あーちゃんに憧れていたもの」

「でも愛する男をみつけたから」

「そうだね。今でもむつまじいね。まだきょうだいが増えそうだよ」

「よいことです。われが行き遅れた分――」


「あーちゃんっ、自分に対して否定的なこと、言わないっ」

 産んでいておかしくない年の子に阿加猪子あかいこは叱責されてしまった。

引田部ひきたべの女って男の物になるか、神の物になるか、その二択しかないんだ。他の選択肢ってないのかなって、ぼくは思うわけです」


 思い返すと白多麻しらたまは、ぼくっ娘だった。そして、男子がするような剣技や木登りを好んでいた。彼女なりのささやかな意思表示だったのか。

「しーちゃんも、いろいろ考えているのねぇ」

 阿加猪子あかいこは感心した。自分は帝を待っているだけだった。それは純粋な気持ちだったけれど、待っているだけだった。


「なんちゃって。単純に都のおいしいものとか? めずらしいもの? 見てみたいなーって。あーちゃんの境遇に便乗させてもらった! だから気にしないで」

 へへっと眉尻をさげて、白多麻しらたまは笑った。

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