1-2
沙那がうんざりして顔を
「お帰りなさいませ、お父さま!」
乳母の説教から
父の
「これ、沙那! そなたも
「あら。ばあやはその方が
「こやつめ!」
父の則実は今でこそ公卿の端くれ、参議の職に
彼の最愛の妻は、沙那の弟を産むときに、腹の子もろとも亡くなってしまったけれど、それ以後も、父が他の女人の元に通うことは無かった。父にとって
そんな父は、母の忘れ形見である沙那のことを、他人に話すのも
「相変わらず、
「失礼いたしました! ついうっかり!」
その場によく通る声に、沙那は慌てて引き下ろした御簾の
なんだ、来客がいるなら先に言ってほしいものだ。父だって自分だって、来客相手にはそれ用の姿を見せているのだから。
(……というか、お父さまったら、客人の前で、私の名前を口にしていなかった?)
女人の名前は、生家の親兄弟のほかは、夫となる相手にしか教えないものである。
あとでお父さまには文句を言わなくちゃ、と頭の
「お客さまはどなたですの?」
「私のことなど忘れてしまったかな。東の
その声には聞き覚えがあった。
それに『東の小姫』という呼び名は、母の家で暮らしていたときに、屋敷の東の
「……まあ!
「望月?」
「紗子のお父さまは月に一度しか紗子に会いに来ないから、『望月と同じ
「これ、左大臣様に何を言うのだ!」
この容姿に高い地位まであれば、それは若い頃から女泣かせだっただろうな、と思うと、
「ご
「忘れるものか。小姫のことは、私のもう一人の娘のように思っているよ」
沙那はじろりと左大臣の
「小父さまには実の娘も実の
左大臣には、方々の女に産ませた子どもが、両手の指では数えきれないほどいるはずだ。その子らに
当然のことながら、かつて紗子と考えた『望月の小父さま』は『月に一度しか顔を見せないなんて、父親としてあり得ない』という強い非難を
数年
「くくっ、手厳しいな」
「娘が大変失礼いたしましたっ!」
「いやいや、なかなか気が
「はい?」
「実は、今日、私がここを訪れたのには訳がある。小姫に、承香殿の女御様のことで相談があってね」
「紗子がどうかしたんですか!?」
『承香殿の女御』という従妹を意味する名を聞いて、思わず御簾際ににじり寄る沙那に、左大臣は世間話でもするかのように、
「ああ、実に困ったことになった。……消えてしまったのだよ、あの子は。宮中の
実の娘の
「このことは限られた者しか知らない」
「どうしてっ!?」
紗子が事件に巻き込まれたのなら、早急に大がかりな
食ってかかる沙那に、左大臣は肩をすくめて答えた。
「我が娘ながら、今や承香殿の女御様は
「そんなことっ、言ってる場合じゃないでしょう!」
「大事なことだ。あの子の戻る場所をなくしてしまうことにもなる」
「何ですって」
「主上もそれを
だからこそ、今日、ここに来たのだ、と。
左大臣は、
「――小姫、女御様の身代わりを務めてくれないか」
その言葉は、あまりに
帝の
その女人の、身代わり。そんな大役は、誰にも務まらないだろう。ましてや、世間並みの女らしさすら足りないらしい沙那には荷が重すぎて、果たせるはずがない。
「身代わりって、何を……?」
どんな無茶難題を言い出す気かとおそるおそる確かめれば、左大臣はひらりと手を振り『簡単なことだよ』と
「小姫には、女御様のふりをして
「そんなことでいいの? それくらいならできるけれど……」
「引き受けてくれるね?」
「ええ。
不安が無いと言えば
*****
「……どういうおつもりですか」
「何がだい?」
これは、沙那の知らない一幕。
目当ての娘と身代わりの約束を取りつけて、足早に立ち去ろうとする左大臣を、則実は車止めで呼び止めた。
振り返った左大臣は、
「我が
「違うでしょう」
則実がぴしゃりと切り捨ててやると、左大臣はにやりと笑う。
過去を振り返ってみれば、そもそも有力な
彼が何を気に入ったのかは、何年経っても理解できないけれど。
「『何を考えているのか分からん、気味が悪い』という顔だな。貴殿は分かりやすい」
ついに声を立てて笑い出した左大臣を、その通り、則実は
「あなたは、承香殿の女御様が……自分の娘御が見つからなかったときに備えて、早くも『娘の代わり』を用意しようとしている」
「うーん、正確に言えば『娘の代わり』ではないのだけれどね。小姫には是非『本物』になってもらいたい。亡くした愛する女と似た
「……承香殿の女御様が、
「『亡くなっていてもおかしくないな』と思っているだけだよ」
ぺろりと吐かれたのは、則実の想定よりもさらにひどい
左大臣は『自分の娘のことはさっさと諦めて、空いた女御の席には沙那を
「主上が『承香殿の女御の居場所を失わせたくない』と仰ったのは、あなたのそういうやり口に
「橘
則実の非難を
思えば、左大臣は自分の子に愛情こそ注いではいなかったかもしれないが、それなりの手間暇はかけてきたはずだ。その『投資』を
(もっと、大きなものを見ているからか? あなたは何を望んでいる?)
もしかしたら、その熱を『野心』と呼ぶのかもしれない、と。益体もないことを考えた。
「承香殿の女御がこのまま見つからなければ、私は、いずれにしても『次の
「は……」
「『主上に愛される見込みが高い者は誰だろう』と考えたら、承香殿の女御と疎遠で似たところもない異母妹よりも、女御と仲が良く、ともに育ち、面差しも似通った
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