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 沙那がうんざりして顔をそむけたとき、牛飼いわらわの声が遠く聞こえた。この屋敷の主人が帰宅したのだ。


「お帰りなさいませ、お父さま!」


 乳母の説教からのがれられるという打算と、大好きな父が帰宅したというじゅんすいな喜びから、沙那は勢いよく立ち上がった。

 父のむかえのために駆け寄ると、起こった風で御簾がふわりと巻き上がる。さえぎるものもなく姿をあらわにした沙那に、目を丸くしてあわてている父がくっきりと見えた。


「これ、沙那! そなたもとしごろなのだから、はしぢかに出てはならぬと言っただろう! 誰ぞに垣間見られたらどうする!」

「あら。ばあやはその方がうれしいみたいよ。お金持ちの方にめていただければ、お父さまの老後の心配もないし。お父さまったら、算術はお得意なのに、お金のかんじょうはいつまでっても上手うまくならないんですもの」

「こやつめ!」


 父の則実は今でこそ公卿の端くれ、参議の職にいているが、元々、学問と家族にしか興味が無く、出世には向かない人だ。

 彼の最愛の妻は、沙那の弟を産むときに、腹の子もろとも亡くなってしまったけれど、それ以後も、父が他の女人の元に通うことは無かった。父にとってゆいいつの家族である沙那が嫁げば、もう心残りはないと、あっさり出家してしまうかもしれない。

 そんな父は、母の忘れ形見である沙那のことを、他人に話すのもずかしいほどできあいしている。だんの父なら、沙那が駆け寄って出迎えれば、口では苦言をていしつつも、大喜びしたはずだが、今日ばかりは珍しく本気でたしなめているように見えた。


「相変わらず、殿でんむすめと仲がいいな」

「失礼いたしました! ついうっかり!」


 その場によく通る声に、沙那は慌てて引き下ろした御簾のかげに身をかくした。

 なんだ、来客がいるなら先に言ってほしいものだ。父だって自分だって、来客相手にはそれ用の姿を見せているのだから。


(……というか、お父さまったら、客人の前で、私の名前を口にしていなかった?)


 女人の名前は、生家の親兄弟のほかは、夫となる相手にしか教えないものである。

 じゅなど良からぬ目的に使われないように、人前で不用意に口にしてはならないというのに、父もよほど慌てていたのだろう。

 あとでお父さまには文句を言わなくちゃ、と頭のかたすみに書き留めて、沙那は、こほん、と小さくせきばらいをした。のどを整え、つんとました声を出す。


「お客さまはどなたですの?」

「私のことなど忘れてしまったかな。東のちいひめは」


 その声には聞き覚えがあった。

 それに『東の小姫』という呼び名は、母の家で暮らしていたときに、屋敷の東のたいの屋に住んでいた沙那を指す呼び名で――。


「……まあ! もちづきさま?」

「望月?」

「紗子のお父さまは月に一度しか紗子に会いに来ないから、『望月と同じひんでしか見られないわね』って、紗子と考えてあだ名をつけたの」

「これ、左大臣様に何を言うのだ!」


 しに見る紗子の父である左大臣は、最後に会ってから十年近く経つというのに、としの割には若々しく、たんせいおもちを保っていた。最近『あごに肉がついた』と落ち込んでいた沙那の父とは大違いである。

 この容姿に高い地位まであれば、それは若い頃から女泣かせだっただろうな、と思うと、すずやかな容姿までにくにくしく感じられるのだけれど。


「ごですわね。私の方こそ、小父さまには忘れられたと思っていましたわ」

「忘れるものか。小姫のことは、私のもう一人の娘のように思っているよ」


 とろけるように甘い声かけも、彼にとっては武器の一つなのだろうが、そんな小細工にはだまされない。

 沙那はじろりと左大臣のかげにらみつけた。


「小父さまには実の娘も実のむすも、たっくさん、いらっしゃるでしょう? 血の繫がらない『もう一人の娘』まで気にかける暇があるなら、その時間で紗子に会いに来てほしかったわ」


 左大臣には、方々の女に産ませた子どもが、両手の指では数えきれないほどいるはずだ。その子らにさびしい思いをさせておきながら、他人の子に言うべきことではないだろう。

 当然のことながら、かつて紗子と考えた『望月の小父さま』は『月に一度しか顔を見せないなんて、父親としてあり得ない』という強い非難をめた悪口だった。

 数年しのうらみを込めて、沙那がふてぶてしくなじると、左大臣は可笑おかしそうに喉を鳴らした。


「くくっ、手厳しいな」

「娘が大変失礼いたしましたっ!」

「いやいや、なかなか気がいたやりとりじゃないか。……これなら、ちょうどいい」

「はい?」

「実は、今日、私がここを訪れたのには訳がある。小姫に、承香殿の女御様のことで相談があってね」

「紗子がどうかしたんですか!?」


 『承香殿の女御』という従妹を意味する名を聞いて、思わず御簾際ににじり寄る沙那に、左大臣は世間話でもするかのように、ひょうひょうと言った。

「ああ、実に困ったことになった。……消えてしまったのだよ、あの子は。宮中のおくふかくから、こつぜんとね」


 実の娘のしっそうを告げているとは思えないほど、へいたんで軽い、底知れない口調だった。


「このことは限られた者しか知らない」

「どうしてっ!?」


 紗子が事件に巻き込まれたのなら、早急に大がかりなそうさくをするべきだろう。

 食ってかかる沙那に、左大臣は肩をすくめて答えた。


「我が娘ながら、今や承香殿の女御様は主上おかみちょうだ。その女御様がいなくなったと分かれば、今はおとなしくしている者どもも、自分の娘を入内させようと動くだろう」

「そんなことっ、言ってる場合じゃないでしょう!」

「大事なことだ。あの子の戻る場所をなくしてしまうことにもなる」

「何ですって」

「主上もそれをうれいて『承香殿の女御の居場所を失わせたくない』と仰っている。今のうちは、『女御様は病を得て里下がりをしている』とごまかしているが、言い訳も長くはもたない。そこで、女手を借りたいと思ってね」


 だからこそ、今日、ここに来たのだ、と。

 左大臣は、するどい目をして『本題』を告げた。


「――小姫、女御様の身代わりを務めてくれないか」


 その言葉は、あまりにとっぴょうもなくて、沙那はまぶたをぱちぱちとまたたかせた。

 帝のちょうあいを一身に集めている女御は、この国一番の女人と言っても過言ではない。

 その女人の、身代わり。そんな大役は、誰にも務まらないだろう。ましてや、世間並みの女らしさすら足りないらしい沙那には荷が重すぎて、果たせるはずがない。


「身代わりって、何を……?」


 どんな無茶難題を言い出す気かとおそるおそる確かめれば、左大臣はひらりと手を振り『簡単なことだよ』とほほんだ。


「小姫には、女御様のふりをしてだいもどり、内裏で事情を知るにょうぼうたちと力を合わせて、女御様が健在であるように見せかける。もし空いた時間があれば、女御様のゆくさぐってほしい」

「そんなことでいいの? それくらいならできるけれど……」

「引き受けてくれるね?」


 いっしゅんだけ考えて、沙那は深々とうなずいていた。


「ええ。、私に任せてちょうだい、小父さま!」


 不安が無いと言えばうそになるけれど、このまま何もできずに、ここでまんじりともせず紗子の帰りを待つだけよりも、ずっといい。

 そくしょうだくの言葉を返した沙那に、左大臣は『たのもしいな』と目を細めていた。



*****



「……どういうおつもりですか」

「何がだい?」


 これは、沙那の知らない一幕。

 目当ての娘と身代わりの約束を取りつけて、足早に立ち去ろうとする左大臣を、則実は車止めで呼び止めた。

 振り返った左大臣は、ちんつうな表情で――否、その表情をわざとらしく作って、言った。


「我がまなむすめが行方知れずになったんだ、親として取れる手を全て尽くそうとしているだけだよ」

「違うでしょう」


 則実がぴしゃりと切り捨ててやると、左大臣はにやりと笑う。

 過去を振り返ってみれば、そもそも有力なえんじゃを持たない則実は、どれだけ熱心に働いたとしても、未来えいごう出世など果たせるはずがなかった。それが仮にも参議の地位にまで上りつめたのは、相婿だったこの男にみょうに気に入られたことが大きい。

 彼が何を気に入ったのかは、何年経っても理解できないけれど。


「『何を考えているのか分からん、気味が悪い』という顔だな。貴殿は分かりやすい」


 ついに声を立てて笑い出した左大臣を、その通り、則実はうすわるく思って見た。


「あなたは、承香殿の女御様が……自分の娘御が見つからなかったときに備えて、早くも『娘の代わり』を用意しようとしている」

「うーん、正確に言えば『娘の代わり』ではないのだけれどね。小姫には是非『本物』になってもらいたい。亡くした愛する女と似たおもしの女がそばにいれば、気持ちが移るのが人情だろう?」

「……承香殿の女御様が、すでに亡くなっているとお思いなのですか」

「『亡くなっていてもおかしくないな』と思っているだけだよ」


 ぺろりと吐かれたのは、則実の想定よりもさらにひどいおもわくだった。

 左大臣は『自分の娘のことはさっさと諦めて、空いた女御の席には沙那をえる』と悪びれもせずに認めたのだから。


「主上が『承香殿の女御の居場所を失わせたくない』と仰ったのは、あなたのそういうやり口にくぎを刺すおつもりではないですか! 『承香殿の女御以外を愛するつもりはない』と。私も同感だ、人の心とはたやすく変わるようなものではない。そんなくわだてに、うちの娘を巻き込むなんて――」

「橘さいしょう。貴殿は、学識は確かだが、おろかだな」


 則実の非難をうるさげに遮った左大臣のひとみには、不思議な熱が宿っていた。

 思えば、左大臣は自分の子に愛情こそ注いではいなかったかもしれないが、それなりの手間暇はかけてきたはずだ。その『投資』をしむことすらしないのは――。


(もっと、大きなものを見ているからか? あなたは何を望んでいる?)


 もしかしたら、その熱を『野心』と呼ぶのかもしれない、と。益体もないことを考えた。


「承香殿の女御がこのまま見つからなければ、私は、いずれにしても『次のこま』を後宮に送り込まねばならない。私だって人の子だ、送り込んだ娘が愛されずに一生を終えることは気の毒に思うさ」

「は……」


 しゅうれいな面差しを憂いの形にゆがめてみせた男に、則実は『噓つき』という言葉を送りたいしょうどうこらえねばならなかった。

「『主上に愛される見込みが高い者は誰だろう』と考えたら、承香殿の女御と疎遠で似たところもない異母妹よりも、女御と仲が良く、ともに育ち、面差しも似通った従姉いとこの方が、勝算があると考えた。幸いなことに、その従姉の父親は左大臣派だから、私に逆らうはずもないしね。……なあに、貴殿の娘御も乗り気なのだからいいじゃないか。内裏ではばんぜんの手伝いをしよう」


 じょうげんうそぶく左大臣から、それ以上に逆らう言葉は与えられていなかった。

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