5.2 主の老後設計

 翌日、堀川邸に参じた兼好には、あの仕事が控えていた。新年最初の代筆である。


 例の離れ舎で、具守が見守る中、下書きに目を通す。そこには、御年六十二歳を迎えた男の愛の魂がほとばしっていた。




 一条よ。私はそなたのすべてを愛している。頭のてっぺんから、足のつま先まで、そなたのすべてが愛しくてたまらない。




 思いに耽ってきた女をついに抱きしめ、その体を我がものにした男の偽らざる叫びである。念願を果たした男は、みなこんな感想を抱くものなのだろう。


 九月十五日の最初の逢瀬から、十月、十二月と、すでに二人は二度夜を重ねている。




 私の六十余年は、一条と出会うためにあったと言ってよい。そなたと結ばれるために、私は幾多の艱難辛苦に耐えてきたのだ。




 あなたと会うために生まれてきた。これもまた、男の常套文句なのかもしれない。何人もの妻を抱え、浮き名を流してきたこの男は、何度生まれかわってきたのだろう。


 だが、最後のあたりの一文で、兼好ははっとさせられた。




 一条に見つめられたら、私はすべてが報われる気がする。そなたの愛を感じるとき、私は今日まで生きてきてよかったと、心の底から思える。そなたと会えぬ日々は、どれほど心細いか。いつもそばにいてほしいと願わずにはいられない。もはやそなたのいない人生など考えられない。




 兼好は不思議な感覚がした。あれほど高い地位に上った人物が、たった一人の女性から愛を捧げられると、こうも弱々しさを露わにしてしまうのか。しかし、心の奥底で、共感できるものがある。


(私でも、同じことを書くかもしれない)


 男は、愛する女に愛されないと、心細くなり威勢はしぼみ自尊心を喪失してしまうのか。富や地位や名誉なんぞより、女を失うことの恐怖感はそれらを遥かに凌駕するのか。女に心を閉ざされたら、男はただ頼りなく、行き場のない迷える小鳥のように浮世をさまよい続けるほかない生き物なのか。


(男は、みな同じだ)


 青い海のように澄んで広い女の偉大さの前に、男はひざまづくのみなのだろう。


 具守の繊細な愛欲に力を注ぐべく、兼好は今回は男くさい豪勢な筆致で丁寧に清書した。


 今回も、ふたりの共同作品は上出来だ。


 普段は完成した清書を素早く受け取る具守だが、今回は違っていた。


「兼好よ、今日はお前が届けてくれんか」


「なんですと?」


「いつも唐橋家に届けている下男が、熱を出して休んでおるのだ。お前しかいない。どうか頼む」


 いつもの配達役が欠席のため、兼好に役目が回ってきた。文を届けることは、咲子に会えるということである。兼好にとっては願ってもないことだ。とはいえ、これは業務だ。手紙を渡せばすぐに帰らねばならないのだが。


「わかりました。至急発ちます」


「ありがたい。心からお礼を言おう。ところで、そんなお前だけに話しておきたいことがある」


「何でしょうか?」


 具守はきりっと兼好を見つめ、表情を引き締めた。


「私は今年限りをもって、全ての官職を辞するつもりでいる。まつりごとから手を退くこととする」


 それは思いがけない意思表明だった。口を丸くして驚く兼好をよそに、具守は決意を固めたことを示すかのように声の調子を上げた。


「政治の世界は勝ち馬に乗れないと地獄だ。時流に乗れず、反体制側に甘んじれば、心身を蝕まれ疲弊するのみである。私は四月ごろに左大将を、そして年末までには大納言の辞表を出す。持明院統の治世が続く限り、もはや私は政権内に居場所はないからな」


 具守は前年に右近衛大将から左近衛大将に任じられたが、あくまで慣例による形式的な栄進である。兼任する大納言の地位は維持しているが、大覚寺統に属するゆえに意思決定の場からははじかれ、宮中に出仕しても何もすることがなく時間を浪費するほかない始末である。廊議(びょうぎ)と呼ばれる公卿会議には出席するが、何の発言権もなく、過半数を占める持明院統の連中に議決権は牛耳られている。その廊議も形骸化しており、実質的な政治権力は院政を敷く伏見院が握っている。この状況下で具守は政治家であり続けることに潮時を感じているのだろう。


「朝廷から身を引いてからは、どうなさいます?」


「政治のことなど忘れ、悠々自適に暮らす。岩倉の別荘でのんびり過ごすであろう」


 ここで兼好は直感した。


(別荘に咲子さんを呼び寄せ、ともに過ごすおつもりか)


 広々とした岩倉の別邸で、咲子を横に従わせながら池泉庭園をのんびりと眺める。そんな近未来の主人の姿が兼好の目に浮かぶ。


「お前も察しておろう。そうじゃ、わしは一条とともに余生を過ごしたいのじゃ」


 兼好は何も言葉を返すことができずにいる。だが、生きがいを見出し希望の光を瞳にたたえている具守を見ていると、なんとか彼をさらに満足させる言葉を捻りださねばいけないと思った。そして、


「大納言様の未来が幸多からんことを願い、私も粉骨砕身いたします」


 と、当たり障りのない表現で、主人の夢見る咲子との美しい未来のため、誠心誠意尽くすことを誓った。


(つづく)

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