第2話

三田が飯場の暖簾を片付けていると、少し呂律の怪しい明るい声が呼びかけてきた。


「よぉ兄ちゃん、また会ったな!」


目元の柔らかな大きな目にくしゃくしゃの短髪には覚えがあった。先日、閉店間際に味噌汁を食べていった変な客だ。サーカスで働いているくせに、自分のことを「観客」だと名乗った妙な男。店主の芳子は「ああいうのには気をつけな」と言っていた。


「......もう閉店ですけど」

警戒しながら告げると


「あぁ、飯はいいんだよ。ちょっと他で飲み食いしたし、ここの店主には毒入りの味噌汁出されるらしいからね」


と返ってきた。特に怒っている様子はなく赤ら顔でニコニコしている。


「俺が用があるのはあんただ。仕事終わったんだろ?一杯つきあってくれよ。仲間が潰れちゃってね。一人じゃつまんないから誰かいないかなって探してたのさ。俺がおごるよ」


うさんくさい相手だが、実家への仕送りで切り詰めていて、近頃全く酒を飲んでいない三田は、これもいいきっかけかもしれないと思い、承諾した。


「すぐ片付けるんで、ちょっと待っててください」


「おっ、そうこなくっちゃ。じゃあ、三丁目の角の酒津屋ってわかるか?あそこに入って待ってるよ。あとから連れが来るって言っとくから。必ず来いよ!」


そう言って遠藤は少しふらつきながら雑踏へ消えた。


「三田君、早く暖簾しまっちゃって!」


中から店主の芳子の声がして、三田は慌てて暖簾を持って飯場に戻った。


「誰かと話してたのかい?話し声がしたけど」


芳子の質問に一瞬どう返すか悩み、咄嗟に誤魔化すことにした。


「酔っ払いが道がわからないって声かけてきたんです。道を教えてやってたら遅くなっちゃいました。すいません」


「それならいいけど。変なやつもいるから気をつけるんだよ?この前の客とかさ」


芳子の言葉は、さきほど声をかけてきた男の影を追っているようだった。


「……昔、うちで働いてた子が変な男に唆されて、借金背負って夜逃げしたことがあったのさ。あんたは、あんなふうにはならないでね」


芳子は一瞬だけ遠くを見るような目をしたが、すぐにいつもの調子に戻った。

やはり誤魔化してよかった。三田の中ではうさんくさい男への警戒心よりも久しぶりに酒が飲めることのほうが重要だった。


酒津屋に行くと「お連れさんがお待ちですよ」と2人がけのテーブル席に通された。男はすでに徳利を2本空け、追加で注文しようとしていたところだった。


「おっ来たか。丁度なにか頼もうと思ってたんだよ。なんにする?なんでもいいぜ」


なんでもいいと聞いて一番いい酒を頼むほど厚かましくできていない三田は、男が飲んでいたのと同じ酒を頼んだ。


「じゃあ俺は焼酎を。……そういえば名乗ってなかったな。俺は遠藤平吉。あんたは?」


「三田です。三田寛」


「へぇ、三田、三田ちゃんね。三田ちゃん、この辺に来て長いの?」


「3年になりますけど……どうして東京の人間じゃないってわかったんですか?言葉の訛はないはずですけど」


遠藤は悪戯っぽく笑った


「ひっかかったな!カマかけたのさ。なんとなく、余所者じゃないかと思ってな。俺も同じだ。あちこち巡って今ここにいる」


人好きのする笑顔を見て、そんなに悪い人じゃないかもしれないと三田は思った。遠藤の飲んでいた酒は上等なもので、三田は久しぶりに上級酒にありついていた。


「サーカスで働いてるって言ってましたね」


もう少し遠藤のことを知りたいと思い、そっと聞いてみた。


「ああ、よく覚えてるね。今この近くに来てるだろ?柿野サーカス。そこで手伝ってる」


「手伝いって、何してるんですか?」


焼酎を飲んだ遠藤が上の方に目をやりながら答えた。


「色々だよ……仮装して客寄せのビラ配ったり、機材の片付けしたり。曲芸もするけどな。正直言って日本のサーカスは面白くねえんだ。今はよくてもじきに飽きられて衰退するよ。だから俺は他に面白いことはないかって探してるわけさ」


店員を呼んで追加で焼酎と上級酒を頼んだ遠藤が、仕切り直しといわんばかりにパンと手を叩いて三田に問いかけた


「そういう三田ちゃんは毎日あの店で何してるんだ?なにかおもしろい事件でもないの?」


「特になにもないですよ……毎日同じことの繰り返しで。おもしろい事件っていったら、それこそ遠藤さんが来たことぐらいかな」


「なんだ、つまんないの。なんかあると思ったんだけどなぁ。例えばあの女将さん。きれいな人だろ?あんなきれいな人と一緒に働いて、なにかないわけないだろ。言っちゃえよ、酒はまだあるんだから」


あけすけな物言いに三田はタジタジになって言った


「本当になにもないんですよ……芳子さんのことはそりゃ、いいなとは思うけど……」


遠藤は片方の唇の端を上げてニヤッと笑った


「ほらな、あるじゃねえかそういうの。俺の勘は当たるんだ。ついでにいうと悩める三田君はなにか葛藤を抱えている。人間関係……実家絡みかな?あんまりうるさくは聞かねえけど、話したくなったら聞かせてくれよ。またこうして奢るからさ」


軽薄だが不思議な温かさのある声だった。ほとんど初対面のようなものなのに、もう話してもいいかと思えるような懐の深さを感じた。


「俺、あんたみたいな人、嫌いじゃねえな」


遠藤はグラスを軽く回しながら言葉を継いだ。


「人間、壊れかけてるときの方が、自由に見える。おかしい話だけど、苦しんでる人の目のほうが、ちゃんと生きてる気がする。……三田ちゃん、そういう目をしてた」


一瞬、胸の奥がひくりと動いた。三田はうまく笑えなかった。



閉店の時間になったので残った酒を飲み、お開きとなった。その日以降、遠藤は度々閉店作業をする三田のもとに現れ、三田も柿野サーカスのテントで遠藤と話をするようになった。


いつもの酒津屋で飲みながら、三田は遠藤に打ち明け話をした。


「実は俺、実家から逃げてきたんです。親父が嫌で。なんでも自分の言う通りにならないと気がすまない人で、包丁で脅してでも言うことを聞かせるんです。嫌になっちゃって、隣町の友達に会いに行くって言って、東京まで出てきちゃって」


「へぇ、いいことじゃん。嫌な家から解放されて」


「それがそうもいかなくて。親父は大酒飲みで稼いだ金を家に入れないんです。実家を出る前は俺が稼いだ金で家計を回してたから、いまお袋も妹も貧乏してるみたいで、せっかく東京でてきたのに、こっちで稼いだ金をほとんど仕送りしてるんです」


遠藤の目が奇妙に輝いた。

大きな目でじっと三田の顔を覗き込み、真剣な顔で言った。


「そいつはまずい。東京に出てきても家に縛られてるってわけだ。三田ちゃんは家族のことが好きか?」


三田は口ごもって、逡巡した後に答えた


「……正直、好きじゃありません。暴君の父親も、無力な母親も、泣いてばかりで働こうともしない妹も、みんな嫌いです」


遠藤は上を向いてしばらく考え、おもむろにこう言った


「これはあくまで俺の話なんだけどな、俺の親父も酒に溺れてろくに仕事しない奴だった。お袋は体が弱くて何もできなくて細々と内職をしてやっとで食べていた。俺は家族が大嫌いだったよ。毎日同じ貧乏でみじめな日々。こんなに退屈なら死んだほうがマシだと思った。でもな、ある日崩壊したんだ。」


タバコに火をつけ、一口吸って続けた


「お袋の帰りが遅いんで迎えに行った時、お袋は薬局の薬剤師と抱き合っていた。俺は声をかけずに家に帰った。親父が「母さんはどうした」って聞くから見てきた通りに答えた「薬剤師の田原さんと抱き合ってたよ」ってな。するとどうだ!親父、顔真っ赤にしてドスを持って駆け出していった。慌てて追いかけて薬局についた頃には喉から血を出して倒れてるお袋と、田原さんに馬乗りになって滅多刺しにしてる親父と、ハラワタが飛び出てる田原さんがいたわけだ」


灰が落ちるのもそのままに遠藤は喋り続けた


「俺の一言が3人の人間の運命を変えたわけよ。最高に面白かったね。俺は思ったんだ。壊すって、案外簡単だな、ってね。」


あまりの話に呆然としている三田に、遠藤は畳み掛けた


「何が言いたいかっていうと、三田ちゃん、あんたもひび割れの前にいるってこと。押して壊すのも、そのままそっとしとくのもあんたの自由だ。でもな、そのままでいればあんたは苦しむ。ひと思いに押しちまえば、視界は開けるってわけよ」


「......遠藤さんなら、どうするんですか」


聞きたくない、聞けば何かが変わってしまう。そう思いながらも、三田は聞かずにはいられなかった


「俺だったら包丁で脅してくる親父なんて包丁で刺し殺して、残りの家族は家ごと焼いちまうね。火葬の手間が省けてちょうどいいんじゃねえか?」


なんでもないことのように答え、遠藤はタバコの火をもみ消した。


その日から7日間、三田は考え続けた。遠藤の言葉が頭から離れなかった。ひび割れを、押す。砕けた先には何が見えるのか、無性に気になった。

8日目に三田は飯場の仕事を休み、実家に帰った。突然「実家に帰る」と言い出した三田を芳子は止めようとした。

「なにかあったのかい?あんたの目、変わってるよ」


芳子はただ事ではないと感じていた。あのうさんくさい男と関わるようになってから、三田の顔つきが日々変わっていくのを、ずっと見ていたのだ。


「やめときな。今帰ったって、何も変わりゃしないよ」


「家族に不幸があったから」の一点張りの三田をついに止められず、芳子は三田をやむを得ず送り出した。


三田が帰ってくることは、二度となかった。


新聞には栃木の田舎で帰省した息子が父親を包丁で刺殺し、家に火をつけて母親と妹が焼け死んだというニュースが載っていた。


飯場で一人で働く芳子にそのニュースを知らせてきたのは遠藤だった。


「女将さん久しぶり。あんたんとこの若いの、派手にやったね!」


ニヤニヤ笑う遠藤を芳子は睨み、低い声で言った


「三田君に何か吹き込んだんじゃないだろうね」


遠藤は神妙な顔で返した


「別に何も。あいつの家庭の話を聞いて、感想を言ったまでさ。俺ならこうするってね」


静かに包丁に手をかける芳子の目には、怒りと、深い悲しみが混じっていた。遠藤は嬉しそうに続けた


「いやー、まさか本当にやるとはね!あいつもやるじゃん。見たかったなぁ、殺人現場と家が燃えるとこ!」


芳子が包丁を構えて怒鳴った


「出ていきな!」


遠藤はこれ以上の長居は無用と飯場の扉を開け、笑いながら肩越しに言い捨てた


「芳子さん、残念だったね!あいつ、あんたのこと好きだったってよ!満更でもなかったんだろ?その新聞、記念にやるよ。じゃあな!」


足早に飯場を去ってサーカスのテントに戻る。

今回はなかなか楽しめた。眼の前で崩壊が見れなかったのは惜しいが、きれいに思惑通りに動いて壊れてくれた。


そういえば昔、俺と似たようなやつがいたな、と遠藤はふと思い出していた。他人が壊れるのを見届け、破片を集めて遊ぶような悪趣味な男が。




「どこ行ってたんだ遠藤!お前に会いたいって人が来てるぜ」


来客は背が高く、痩せ型で猫背の同年代の男。見覚えのない顔だが、どこか既視感がある。


「久しぶりだな、遠藤。俺がわかるか?」


聞き覚えのある声。フランスで何度も喧嘩し、助け合った声。

武居丈吉。遠藤の過去を知る、ただ一人の来訪者だった。

なぜ顔貌が違うのか、なぜここにいるのかわからないが、なにかが起きそうな予感に遠藤は震えた。

今立っているのは、ひび割れの前か、上か。

一歩踏み出せば足元が砕けるかもしれないスリルに、退屈しない日々が来ることを直感し、遠藤はかつての旧友を迎い入れた。

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ひび割れ 久保ほのか @honokakubo

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