第1話


 ルールブックと書かれたファイルを放り投げると、円形の小型テーブルの上を舐めるように滑って、結局床に落下した。

 無理だ。普段から説明書は読まないタイプだけれど、まさか1ページ目で早くもをあげるとは。自分でも驚きである。

 床に転がるルールブックに再び目をとめる。表紙に『恋愛リアリティショー:ラブスリラー』と題されていた。無意識に鼻から嘲りの息が漏れた。

 見知らぬベッド、見知らぬ部屋で目覚めたかと思えば、いきなり恋愛リアリティショーだと? ドッキリにしてもセンスのかけらもないな。


 ベッドに腰掛けながら、ぼんやりと淡く光るスタンドライトを見つめた。なんだか無性に不安を掻き立てられる。

 僕は頭に手を当てて記憶を探ってみた。

 そもそも僕はいつ眠りにつき、いつここに運ばれたのか。

 ダメだ。全く覚えていない。

 だからこそ不自然なのだ。

 全く記憶を残さず人を移動させることなど可能なのだろうか。意識を失わせて移動したにしても、少なくとも襲われたときの記憶くらいは残っていてもいいものだが。

 腰掛けたベッドから立ち上がる。キィと軋む音が鳴った。

 このボロいベッドもそうだが、床の血の跡のような古い染みも一層僕の心を萎えさせた。見ていると薄らと鉄の匂いが漂っているような気さえしてくる。

 ルールブックを拾い上げ、円形の小型テーブルの上に戻した。僕が起きたときからルールブックはそこに置いてあったのだ。訳の分からぬ状況を脱する手がかりになるかもと開いてみたが、余計に訳がわからなくなっただけだった。

 テーブルにあったもう一つのアイテム——少し錆びたアンティークの鍵——をポケットにしまった。おそらくこの部屋の鍵だろう。後で試してみよう。

 それから部屋をさっと見回す。6帖程の部屋にベッドとサイドテーブル、スタンドライト。窓はないが、扉は1つ。ベッドヘッドの反対側の壁にあった。

 扉に歩み寄る。

 なんとなく例の染みは避けて歩いた。

 扉にはフロアマップと書かれた紙が貼り付けてある。ところどころ破け、破けたところが湿気で少し丸まっていた。

 もし本当にこのセンスのない恋愛リアリティショーを誰かが主催しようとしているのなら、僕以外にも同じ状況の者がいるはずだ。ルールブックによればあと7人。

 だが、外に出られるのであれば、他の参加者に会う必要もない。そのまま、タクシーにでも乗って帰宅すればいい。問題はここが海外だった場合だ。言語とかパスポートとか、ちょっと面倒だ。


 僕はフロアマップに目を走らせ、出口を探した。マップには居住プラントと書かれていた。個室、ホール、浴場、調理場などの設備が細かく記載されている。生活に必要な設備は一通り用意されているようだった。

 出口は上、か。と、そうするとここは地下なのだろう。


 おそるおそるドアノブに手を伸ばす。

 ドアノブは冷たく、まるで扉の向こう側の張り詰めた空気が伝わってくるようだった。汗で湿った手でゆっくりとノブを回す。

 個室の外は大きく湾曲した廊下だった。右が若干の上り、左が若干の下りになっている。マップによるとらせん状の造りのようだ。

 壁を這うように弓形ゆみなりの照明が等間隔に据え付けられ、十分な明るさを保っている。床も壁も素材は定かではないが、明らかに人工物だ。

 ここが異世界——ルールブックにはそう書いてあった——だという設定で統一しているらしい。センスがないクセに妙に凝っている。

 僕は左右を見回したが、大きく曲がった廊下は先まで見渡すことはできない。


(今、その殺人鬼とやらに急襲されたらひとたまりもないな)


 人間とは愚かな生き物だ。いかにセンスがない設定であろうとも、信じてしまう奴がいないとは限らない。殺人鬼役だと信じ込んだ馬鹿に殺害されるのはごめんこうむりたい。


 僕はチェック柄の制服ズボンに無造作に手を突っ込み、何かないかとまさぐってみたが、出て来たのは黒飴2つとママチャリのカギだけだった。あとは先ほど手に入れたアンティークのカギ。

 つまり丸腰である。武器の一つもなく、この廊下で殺人鬼にエンカウントしたらゲームオーバーだ。テレビゲームなら、クソゲーと笑えるかもしれないがこれは現実。笑い事では済まない。

 

 聴覚を研ぎ澄ませながら、なるべく足音を立てずにまずは右側に登っていく。

 少し進むと、『4』と掘られたプレートのついた扉が現れた。多分この部屋の中には僕と同じくゲームの参加者がいるのだろう。そう思うと、急激に手が汗ばみはじめた。僕は殊更慎重に歩を進めた。

 先ほどは確認しなかったが、もしかしたら僕の部屋には『3』あるいは『5』のプレートがついていたのかもしれない。

 更に進むと、次の部屋『3』が現れた。

 と、すると僕の部屋は『5』ということか。

 『2』『1』の部屋の前も何事もなく通り抜けると、やがてハッチのようなバルブ式の円形出入口にたどり着いた。

 バルブを捻ってみるがびくともしない。念の為、反対回りにも捻ったが結果は同じだった。

 予想はしていたが、やっぱり外には出られそうもないな。これだけ手の込んだドッキリを仕掛けるのだから、監禁にも抜かりはない、と。

 

 仕方がないので『5』の自室前まで戻った。そして今度は、左側の下り方面に進む。

 行き先は『ホール』だ。リビングのように参加者がくつろぐ場所のようである。監禁されている以上、一度他のメンバーと合流した方が良い。

 しん、とした空気の中だといくら忍ばせても足音が目立った。上へ行くときは誰にも遭遇しなかった。まだ僕以外だれも目覚めていないのだろうか。

 できれば廊下での遭遇は避けたかった。だが、避けたいと思えばそれは実現する。こういうのなんて言うんだっけ? マーフィーの法則だったか。

 

 丁度『6』の扉の正面に到達したときだった。唐突に扉が開いた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る