第4話 君は私、私は君
染まっていく僕。
怒りを、こんなにはっきりと感じたのは初めてだった。
扉に浮かぶ美しいシミを、吸い寄せられるように指先でなぞる。冷たいはずの表面に、なぜか体温の残り香があるような気がした。
抑えきれない衝動に突き動かされ、僕は右手でノックをする。
そのビートは、僕の胸の奥で鳴る心臓の音と重なっていた。
──応答はない。
それでも、部屋の奥から、彼女のほのかな「色気」のような気配が漂ってくる。
ドアノブに手をかけると、その端から生ぬるく湿った空気が頬を撫でた。鍵は、かかっていなかった。
その事実に、思わず息を吐く。そして、耐えきれず僕は扉を押し開けた。
足元で、空き缶がコロリと転がる。
某牛丼チェーン店の空き容器が詰まったゴミ袋に、虫が群がっていた。
部屋全体に、生乾きと生ゴミの混じった臭気、そして名前のつけられない悍ましい香りが漂っている。
ペットボトル、空き缶、袋の山。足の踏み場もない。
その混沌の中で、彼女を見つけた。彼女は、四畳半の天井に足をつけて、逆さにぶら下がっていた。
四肢は不自然なまでに折れ曲がり、骨の構造を無視したようなその姿に、目が離せなかった。
「……」
──彼女は、間違いなく、僕を惹きつける“法師”だった。
なぜ、人はこんなにも醜く、美しいのだろう。
彼女と出会ってからというもの、僕の頭の中では、問いが止まらない。
秩序だった人間の像とはかけ離れたその姿は、まるで社会の合わせ鏡のようだ──。
侵略思考が、僕の思考をじわじわと支配していく。
どこか、僕の体もおかしい。
彼女の、あの虚ろな瞳に吸い寄せられていく。
少しずつ、だが確実に、僕は“周囲”とズレはじめていた。
彼女の目に映る僕は、ひどく悍ましい、異物のようだった。
僕が、差別の対象として見ていたその彼女に、どうしようもなく惹かれてしまうのは、きっと僕も同族だったからだ。
彼女への気持ちは、膨張していく。
近づくたびに、身体がゾワッと総毛立ち、ここだけ異界のように感じられる。
思わず、彼女の肌に、そっと触れてみた。
──人間じゃない。そう、感じた。
ぬめるような質感。
肌にまとわりつく嫌悪感。
人間であって、人間でないもの。
その瞬間、子どもの頃に観たホラー映画のことを思い出す。
あの頃は、「こんなこと、現実にあるわけない」と、鼻で笑っていた。
けれど、ホンモノの“異物”と接触を繰り返していくうちに、
僕は、“僕”であることの境界さえ、分からなくなっていった。
演じているだけなんじゃないか。
僕は、ただ社会が望む役割をなぞっていただけじゃないか。
そんなふうに、自分の輪郭がぼやけていく。
──僕が、ホラー映画に出てくる“怪物”なのかもしれない。
そんな恐怖に飲み込まれそうになったとき、彼女が歯を剥き出しにして、笑った。
彼女の狂気じみた笑いに、僕も同調してしまった。
彼女は、僕を本当の意味で受け入れてくれる気がする。
彼女が与えてくれたこの感覚を大切にしたい。
次の瞬間、彼女はギチギチと歯軋りしながら僕に噛みついた。
僕の生き血を吸うかのように、現実から切り離していく。
吐き気とともに、それが快感へ変わっていく――僕はもう手遅れなのだろう。
部屋にこびりついた匂いと汚れが、むしろ興奮をかき立てた。
彼女は僕の皮膚を噛みちぎり、奇声をあげる。
そして、意識が闇に沈んだ。
* * *
目を開けると、四畳半の床で寝ていた。
彼女は元の姿に戻り、伏し目がちに言った。
「大丈夫。この世界はモトニモドルハズダナラ。
君の大学のみんなが見ている世界は別。
この毒電波を君は否定しなきゃいけないの」
吐き出すように溜息をつく。明らかに可笑しい。気味が悪い。
けれど、その声色は確かに僕を満たしていた。
体感では一日が過ぎている。時計は止まったまま。
慌てて自室へ戻ると、空の色さえ変わっていなかった。
少し疲れているだけ――そう思うことにした。
* * *
僕の部屋の扉や壁に、彼女の部屋と同じ形の汚れが浮かぶ。
嫌悪するはずなのに、鼓動が高鳴った。
僕は彼女との思い出を、フィギュアでも管理するかのように大切に飾った。
* * *
数週間後――大学へは行かなくなった。
彼女が呼ぶからだ。隣室だし、これはご近所付き合い。
決して僕の意志ではない。倫理観は、まだ保っている……はずだ。
布団に沈む。体が重い。頭がぎんぎんする。耳鳴り。
彼女を捕食したい。醜く、愛おしい彼女を。
最近の一日は、彼女を観察するだけ。
彼女はいつも裸足で赤いワンピースだ。
裸足をやめない理由が知りたくて、僕も真似を始めた。
裸足で歩くと、彼女が褒めてくれる――僕は完全に彼女を好きになった。
二つの部屋の壁に小さな穴を開け、そこから漏れる嫌悪の匂いが、僕を落ち着かせる。
汚れを汚れで洗う感覚に、虜となった。
* * *
午前七時、携帯が鳴る。母親だ。
大学をサボっていることがバレたらしい。叱責。
仕方なく大学へ向かうことにする。
扉を開けると、そこは大学だった。
何かがおかしい。恐怖と、彼女の狂気。
誰もいない教室。ロック画面の時計は朝七時――動いていない。
彼女の声が耳元で笑う。
「これが現実よ。あなたの世界が正しいの。
かわいそう。キャハハ……大丈夫、世界は虚像で満ちているから」
寒気。嫌悪。
ドンッ。
──振り返ると、そこは自分の部屋。
段ボールの山。彼女の笑い声。布団に潜り込む。
匂いが恋しい。興奮が抑えきれない。
数分後、ゴミ置き場へ。彼女のゴミを探し、撫でる。
通行人の視線。嫌悪。焦って部屋へ逃げ帰る。
過呼吸。心臓の鼓動が僕を締め付ける。
トイレで彼女を思い浮かべ、憎悪を吐き出す。苦しい。
しかし、助けに来たのは彼女だった。
震える声で尋ねる。
「僕は……誰だ?」
彼女は囁く。
「君は私。私は君。」
それを聞いた僕は、
「そんなこと、あるわけがない!」
と怒鳴りつけた。
もう、どうでもよくなってしまった。
彼女が僕なら──僕は、何を愛せばいいのだろうか。
僕は、絶望した。
* * *
それから、数時間が経った気がする。
僕はなぜか、また彼女の部屋にいた。
灰色の世界は、もはや色を持たなくなり、僕の視界に映るものすべてが空虚に感じられた。
僕が本当にここに「いる」のか、わからない。
彼女を探した。けれど、この部屋にはいないようだった。
不安が襲ってきた──けれど、それ以上に先ほどの出来事が何度も頭の中で再生され、まともに考えることができなかった。
僕が彼女なわけがない。
彼女は、僕の目の前にいたはずだし、その証拠に──僕たちは、会話を交わしたのだから。
そんな時、僕の携帯が鳴った。
発信元は、彼女だった。
息を吸って、呼吸を整える。
電話に出ると、彼女の声は、聞こえなかった。
「……もしもし?」
……
「もしもし?」
……
わざと無視しているんだろう。
君は、よく僕をいじめる。わかってる。……だから、早く応答してよ。
何度も確認したが、彼女の声は一向に聞こえない。
不思議だった。
彼女に電話をしているはずなのに、相手側からは──僕の部屋の音が聞こえた。
これは、現実なのか? 虚像なのか?
イライラが収まらない。呼吸が苦しい。
……すべて、終わってしまえばいい。
そんなことを、考えるようになった。
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