第9―侵入者の声、裂ける静寂―

翌朝、空は珍しく曇っていた。

 森の葉は濡れたように暗く、風はどこか湿っている。


 僕は朝の薪を組みながら、何度も空を見上げていた。

 昨夜のソフィアの言葉が、ずっと胸の奥に残っていたからだ。


 “ずっと昔に守れなかった誰か”――

 それが誰なのかは分からない。でも、それが彼女の中に深く刻まれていることは感じた。

 だからこそ、僕は彼女のそばにいたいと、強く思うようになっていた。


 ……ただ、そう思うだけでは守れない現実もある。



 ソフィアはその日も森へ出て、結界の調整に出ていた。

 僕は小屋の掃除を終え、昼食の準備をしていた。

 外は静かだった。風の音と鳥の声しか聞こえない。


 けれど、何かがおかしいと思ったのは――そのあとすぐだった。


 “コン、コン”

 と、小屋の扉が――ノックされた。


 ……誰かが、扉の前にいる。

 あり得ない。ここは森の奥。

 昨日ソフィアが結界を強化したばかり。結界が“反応しなかった”ということは――


 「……ッ」


 胸の奥が、冷たくなる。

 扉の向こうから、声がした。


「こんにちは。レイくん……だよね?」


 男の声だった。落ち着いていて、少しだけ笑みを帯びている。

 けれど、それは“自然な親しみ”ではなく、明らかに“下調べを済ませた者”の声だった。


「会いたくて来たんだ。怖がらなくていいよ。少し話すだけ。ね?」


 僕は動けなかった。

 声は扉越しに続く。


「魔女に保護されてるって聞いたよ。すごい運がいいよね。

 でもさ、魔女って気まぐれでしょ? 本当に君のこと、最後まで守ってくれるのかな?」


 扉を叩く音が止み、静寂が広がる。

 そのとき、扉の隙間から、薄く黒い煙のようなものがスッと滑り込んできた。


「っ……!」


 魔術だ。

 知らないけど、直感で分かった。

 この“侵入者”は、外から結界を避けてここまで来た。

 魔女の領域に、直接干渉しようとしている。


 僕の背筋がぞっとしたその瞬間――


 風が、爆ぜた。


 玄関が軋む音とともに、黒煙が一瞬で霧散し、

 僕の目の前にソフィアが現れていた。


「……甘く見られたものね」


 その声は、凍りつくように低かった。

 僕は、ただその背中を見つめるしかなかった。



「“誰でもない者”を名乗る者が、私の結界をすり抜けるとはね。なるほど、よく訓練されてる」


 扉の向こうには、ローブ姿の男が立っていた。

 フードで顔は見えなかったが、その身にまとう魔力の揺らぎが尋常ではないことは分かる。


「これは失礼。挨拶だけのつもりだったんですが、どうも歓迎されていないようで」


「当然でしょ。無断で他人の結界を破るのが、あなたの“流儀”なのかしら?」


 ソフィアの足元に風の魔法陣が現れる。

 対して男は一歩も引かず、口元だけで笑うように声を漏らす。


「我々の“主”が、彼を気に入っただけです。

 生きた“純黒種”なんて、伝説の中の存在だと思っていたのに……まさか本当に現れるとは」


「……彼に触れたら、あなたの“主”とやらの名もろとも、私は風の中に消す」


「怖いですね。だから、今日のところは引き下がります」


 男はふわりと身体を後ろへ滑らせる。

 魔力の気配がすうっと森の奥へ引いていく。


「でも、その子は知っておいた方がいい。

 “黒”は、時に祝福であり――同時に呪いでもあるということを」


 そして、姿が消えた。



 扉が閉じられると、ソフィアはゆっくりと息を吐き、こちらを見た。


「怪我は?」


「……ない、です。けど……怖かった」


 その言葉が出たとたん、緊張が崩れたのか、身体が震え始めた。

 足元から力が抜けて、その場にへたり込む。


「……ッ、ごめんなさい……僕、何もできなくて……」


 情けなかった。

 自分がただの荷物のようで、何一つ守れなくて、何一つ返せなくて。


 でも、そのとき。


 ソフィアは、僕の肩にそっと手を置いた。

 温かくて、細くて――でも、確かに包むような力があった。


「怯える必要はない。私は、君を守る。

 “誰か”が君を求めていようと――私は、君を選んでここに置いている」


 その言葉に、僕の胸の奥が熱くなった。


 選ばれた。

 奪われるのではなく、“ここにいていい”と誰かに言われた――その事実が、

 こんなにも救いになるなんて、僕は知らなかった。

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