第7話―気配の裂け目、風のゆらぎ―

朝、いつものように小鳥のさえずりと木漏れ日で目を覚ましたレイは、最初にソフィアの姿を探した。

 小屋の中は静かで、彼女の気配はない。


 薪の火はすでに整えられ、朝食用のハーブティーの香りが残っていた。


「……また森へ?」


 ソフィアはときどき、一人で森へ入っていく。

 薬草採取や結界の点検、時にはただ“静かな場所”を求めているだけのこともあるらしい。


 レイは窓辺に腰を下ろし、差し込む光をぼんやり眺めた。


 この小屋での生活にも、少しずつ慣れてきた。

 ソフィアの無口な優しさにも、彼女なりの秩序があることが分かってきた。

 そして何より、ここには“あの日の街のような視線”がない。

 誰かの手が伸びてくることも、好奇心に押し潰されそうになることもない。


 この場所が、ようやく自分にとっての「日常」になってきたのだと――そう思っていた。


 ……その朝までは。



 昼前、レイは外に出て、近くの泉へ水を汲みに出かけた。

 空は晴れ渡り、鳥が枝の上でさえずっていた。

 小屋から泉までは歩いて十数分ほどの距離。何度も通っている安全な道だった。


 けれど、その途中――違和感があった。


「……ん?」


 道端の草が、踏まれている。

 レイの足跡ではない。サイズも違うし、踏みつけ方も不自然だった。


 さらに進んだ先、木の根元に引っ掻いたような跡。

 木の皮が薄く裂け、まるで爪か刃物で擦ったような線が斜めに走っている。


 レイは思わず息を呑んだ。


「……ソフィアさん、じゃないよね……?」


 この森は静かだったはずだ。

 人が来る気配もなかった。

 それなのに、何かが“ここにいた”痕跡がある。


 水を汲むのを忘れたまま、レイは急いで小屋へ戻った。



「……誰かが近づいた跡があった?」


 ソフィアは、戻ったレイの報告を聞くとすぐに小屋を出た。

 手には風の魔力を帯びた杖。表情は変わらず冷静だが、歩調は明らかに速い。


 現場に着くと、彼女はしゃがみ込み、木の裂け目をじっと見つめた。

 指先が空気をなぞり、わずかに風の流れが変わる。


「……斥候ね。風の乱れが残ってる。間違いない。昨日か、今朝か」


「斥候って……誰の?」


「さあ。けれど、明確にこの小屋に向かって足を進めている。興味の対象は、私じゃない」


「じゃあ……」


「――君よ、レイ」


 ソフィアの目が鋭くなった。

 だがその視線には、怒りや恐怖ではなく、分析者としての警戒心が宿っていた。


「この森は外れにある。わざわざここを通る者は稀。

 なのに“君のいる位置”を狙うように、接近していた……。可能性は二つ。

 一つは、あの街で見た者たちの誰かが動いた。

 もう一つは――もっと“外”から、君の存在を追ってきた者」


「……そんな……」


 思い返す。あの街。

 ソフィアの横にいながらも、隙をついて近づこうとした者がいた。

 もし、彼らの中に「男を手に入れようとする意志の強い貴族」がいたなら……。


 ぞわりと、背中が冷えた。


「僕は……どうすれば……?」


「今は何も変えなくていい。私の結界がある限り、この小屋には誰も入れない。

 でも、これが“探り”であるならば、次は“攫い”か“接触”がくる」


「…………」


 レイは、拳を握った。


 怖かった。

 再び誰かに囲まれ、モノのように扱われるかもしれない未来が。

 でも同時に、それを目の前で静かに“事実”として告げるソフィアの存在が――どこか、救いでもあった。


 彼女は怯えず、焦らず、ただそこに立っていた。

 すべてを受け止める魔女として。



 その夜、ふたりは早めに灯りを落とした。

 外の気配はなく、森はいつも通り静かだった。


 けれど、レイは目を閉じながらずっと考えていた。


 なぜ、自分は狙われるのか。

 なぜ、ソフィアはここまでして自分を守ってくれるのか。

 “観察対象”という言葉ではもう納得できないような、そんな違和感が、少しずつ胸の奥で広がっていた。



 そして、森のずっと奥。


 黒いマントの人物が一人、木々の間を抜けて進んでいた。

 その手には、レイの姿を写した絵画のような魔具が握られている。


「……見つけた。黒髪黒目の“あれ”……確かに、この森にいる」


 唇が歪んだ笑みを刻む。


「魔女が相手でも構わない。いずれ、我が主のものとなる」


 冷たい風が森を吹き抜け、静けさに影を落とした。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る