第3話―男と知られてはいけない日―

その日は、ソフィアが朝からいなかった。

 「少し出かけてくる」とだけ言い残して、軽装のまま森の奥へ消えていった。


 レイは一人、留守番を任された。

 小屋の掃除をして、パンを焼いて、近くの泉まで水を汲みに行く――それが今日の予定だった。


 ようやく少し慣れてきたとはいえ、この世界での生活にはまだぎこちない部分もある。

 特に水汲みは大変だった。桶は重いし、途中でこぼれそうになるし――


「っ……よいしょ……」


 やっとのことで戻ってくると、小屋の前に見知らぬ人影が立っていた。


「……あれ?」


 女だった。

 上品な刺繍入りの服を着た、長い髪の整った女性。年のころは二十代後半。

 眉をひそめながら、ドアをノックしていた。


「……どなたですか?」


 レイが声をかけると、その女性はくるりと振り返る。

 その目が、レイを見た瞬間――一瞬、空気が止まった。


「……あなた、誰?」


「あっ、えっと……ソフィアさんに保護されている者です。レイって言います」


「保護……? ソフィアが?」


 女性は明らかに困惑していた。

 それもそのはずだ。魔女は気まぐれだが、**“誰かを家に住まわせる”**ようなことはまずしない。


「すみません、今ソフィアさんは出かけてて……何か伝言があれば……」


 レイがそう言いかけたときだった。

 女性がふと、レイの髪を見て、目を見て、そして――ふわりと鼻を鳴らした。


「……その髪と目……それに、この香り……あなた、もしかして“男”じゃない?」


「……っ!」


 一瞬で、レイの背中に冷たい汗が伝った。

 この世界では、男は希少種。それも黒髪黒目となれば、“伝説級”の希少性。

 それを知った瞬間、相手の態度が変わることも、何度も見てきた。


「まさか、ソフィアが男を……!?」


 女性の目がぎらついた。ぐっと一歩、詰め寄ってくる。


「ねえ、ちょっと近くで顔を――」


「下がりなさい」


 低い声が風とともに響いた。


 次の瞬間、女性は目の前で風に押され、数歩後ろへ飛ばされた。

 振り返ると、そこにソフィアが立っていた。表情は、冷たい。


「……ああ、ソフィア。まさか本当に男を匿ってたなんて」


「彼は“客”よ。私がそう決めた。それ以上は踏み込まないで」


「でもあなた、魔女でしょ?男なんて……」


「関係ない」


 ソフィアの声は鋼のようだった。

 彼女はレイの肩を抱き、軽く背中に手を添えて言った。


「戻るわ。レイ、無理に話さなくていい」


「……はい」


 ソフィアと共に小屋の中へ戻ると、彼女は扉を閉めてから息を吐いた。

 いつもと変わらぬ表情。けれど、レイには分かった。


 ほんの少しだけ、怒っていた。



「……ごめんなさい。僕が勝手に外に出たから……」


「違うわ。あれは彼女の勝手。あなたは何も悪くない」


 ソフィアはそう言って、座ったままレイの髪を軽く撫でた。

 その動きは、まるで羽のように優しく――けれど、ほんの少しだけ、指先に余分な力が入っているように感じた。


「……見つかったら、どうなるんですか?」


「都市に連れて行かれて、貴族たちが取り合う。お飾りとして、あるいは繁殖用として、囲われるかもしれない。

 でも、私は誰にも渡さない。あなたを、そんな場所に置かない」


「……ありがとうございます」


「礼はいらない。私は、ただ……」


 そこで言葉を切り、ソフィアは目を伏せた。


「……観察対象として興味があるだけよ。あなたがこの世界でどう生きるのかを見たいだけ」


 その言葉には、まだ“感情”の色は見えなかった。

 だが確かに、それは初めてソフィアが自分から理由を語った瞬間だった。


 そしてレイは――

 “ただ守られている”だけではない何かが、少しずつ生まれているのを感じていた。

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