犬聞書

軒下犬

〇、序

○本文

 名なき犬にてありつき侍りたる露霜改まりて、ものもおぼえ侍らぬままに、毛の色もいみじう褪せにけり。昼にて吠えに吠え侍りて、夜に人見知りてまた返す返す吠え侍りしかば、日々に憎まれ打たれつつ過ごし侍りつるを、さも悲しうおぼえぬこそをこがましう侍りけめ。かくて狩りもせで、食ひ物も懇ろに漁り侍らずして、友具せぬまま所々に流離ひ侍りにけるを、かつがつ生きたりしこそ、天つ神の恵みなりけめ、まことに、人とて生まれせば、また思ひわづらはむも更に侍らざらまし。さこそいへ、犬とて生まれにしかば、さるべき心よさも侍るべしとて、今日までぞ悔ゆる心侍らずして明かし暮らし侍りつ。かかる中々なる心持ちて、ここかしこ生き廻りたりしに、幾何も侍るまじき末になりにたる身を、なほ世のあはれなると思ひ侍りたれば、人々のうち語らひ給へるあるかなきかの、はかなき御物語など試みむとて聞き侍りて、哀しき心地など紛らはし侍りつつ、うちなるを、すごき怖ろしき、またむくつけきむつかしきやうに選り出で侍りて、とかうして集めて、おのおのの、つれづれを慰め侍らむものとて奉らむ。

 また、世にかかる類の文、げに多く侍りて、優れて他に勝りたるも少なからずぞ侍りたるを、犬にて侍れば、人言にいみじう付きなかりけるに、ただ音の似たるを聞き侍りて、それと思しきを斜めに書き流しけるのみ多ければ、誤りも同じくぞ侍らむ。かばかりあへなき反古だに取り給ひて御覧ぜむ御方々こそ、かたじけなく思ひ奉りたれ。罪深きことなれば、あなかしこ、あなかしこ。


○現代語訳(あくまで参考に)

 名もなき犬としてこの世に生まれ、霜や露が変わってゆく年月のうちに、心も確かではなく、ぼんやりとして過ごしているまま、毛の色さえひどく褪せてしまいました。昼間はただ吠え続け、夜には(密かに通ってきた)人を見知ってまたしきりに吠えるばかりだったので、日々人に疎まれ、打たれながら暮らしてきたことを、それほど悲しいとも思わなかったのは、今となっては愚かなことだったのでしょう。そうして狩りをするでもなく、食べ物を熱心に探すこともせず、友もいないまま、あちこちをさまよい歩いてきましたが、それでも何とか生き延びてこられたのは、まさしく天の神の恵みのでしょう。本当に、もし人間として生まれていたならば、こんあ悩みもないでしょうに。まぁ、そうは言うけど、犬としてこの世に生まれたからには、それなりの楽しいこともあるはずだと思い、今日に至るまで後悔することもなく、日々を送り続けてきたのです。そんな、中途半端な心持ちで、あちらこちらを生き歩いてきたうちに、もう長くもないであろう(もうすぐ死ぬだろう)我が身となった今も、やはり(こんな運命は)この世においても悲しい物であると思ったので、人々が語り合っているとりとめもなく定かでもないような、はかない物語の数々を、試しに聞きながら、わが哀しき心を紛らわせつつ、その中にある(物語り)から、ぞっとさせるような、恐ろしい話や、気持ち悪くてうっとうしいはなっしなどを選び出して、あれこれと集め、みなそれぞれの退屈を慰めるためのものとして、お届けいたしたく存じます。(まぁここは要は変な話を見て暇つぶしにしようねという意味で、あまりにも普通な話だったら面白くはない、というつもりで書いています。)

 また、この世にはこのような類の文章が実に多くあり、優れているものや秀でたものも少なからずあるのですが、私が犬であるがゆえに、人間の言葉に詳しくはありません、ただ音が似ているというだけでそれらしいと感じたものいい加減にを書き写したようなものが多いので、当然ながら誤りも多くあることでしょう。それほどに稚拙な反古さえお手に取ってご覧になってくださるような方々には、ただただありがたく、かたじけなく存じております。このような罪深いことゆえ、ああ、恐ろしい、恐ろしい。

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