第9話論理的な疑念と、加速する日常

静との会話は、俺の心に見えない楔(くさび)を打ち込んだかのように、重く、そして鈍い痛みを伴ってのしかかっていた。彼女の言葉は、まるで鋭利なメスのように、俺が必死に築き上げてきた秘密の壁を、いとも簡単に切り裂いていく。莉奈の心配そうな視線、静の全てを見透かすような眼差し、そして、蓮の執拗なまでの探求心。俺の日常は、ダンジョンという非日常の侵食によって、確実に、そして急速に、その均衡を失いつつあった。まるで、丁寧に組み上げられたジェンガのピースが、一本、また一本と、気づかれないように抜き取られていくような、そんな静かで、しかし確実な崩壊の予兆が満ちていた。


その日の講義が終わった後、俺は重い足取りで教室を出た。一刻も早く一人になりたかった。しかし、そんな俺のささやかな願いは、無情にも打ち砕かれる。


「航、待てよ。ちょっと話がある」


背後から声をかけてきたのは、やはりというべきか、橘蓮だった。その隣には、心配そうにこちらをうかがう莉奈と、感情の読めない表情でたたずむ静がいる。どうやら、俺に逃げるという選択肢は与えられていないらしい。俺たちは、自然な流れで、いつもの大学のカフェへと向かうことになった。窓際の、一番奥のテーブル。そこは、まるで尋問のために用意された、逃げ場のない舞台のようだった。


席に着くなり、蓮はテーブルにスマホを置くと、単刀直入に切り込んできた。その目は、獲物を見つけた狩人のように、冷たく、そして鋭く光っている。


「まず、莉奈の時計だ。あれが直ったのは、どう考えてもおかしい。俺も気になって、莉奈から時計屋の親父さんの話を聞いた。親父さんは、『あんな精密なアンティーク、部品がなけりゃ絶対に無理だ』って断言してたそうだ。お前が連れて行ったっていう、そのゴッドハンドの職人、名前と連絡先を教えろ」


いきなりのジャブ、いや、ストレートだった。俺の心臓が、ドクンと嫌な音を立てて跳ねる。


「そ、そりゃあ、教えたいのはやまやまだけど…その人、極端な人間嫌いでさ。連絡先とか、絶対に教えるなって、きつく口止めされてるんだよ」

「都合のいい設定だな」


蓮は鼻で笑うと、スマホの画面をタップし、俺の目の前に突きつけた。そこに映し出されていたのは、この前の体育の授業で撮られた、50メートル走の動画だった。スローモーションで再生される、俺の走り。


「次に、お前の身体能力だ。この前の体育の授業、50メートル走のタイムが、去年の記録からいきなり1秒も縮まった。7秒8から6秒8。常識的に考えてありえない伸びだ。動画を解析したが、お前の走り方、特に地面を蹴る瞬間の足首の角度と、そこから生まれる推進力が、物理的に異常な数値を叩き出している。まるで、足の裏に強力なバネでも仕込んでいるみたいだ。これはどう説明する?」


蓮の追及は、容赦を知らない。彼は、ただの憶測で話しているのではない。データと分析に基づいた、論理的な弾丸を、次々と俺の心のど真ん中に撃ち込んでくる。


「そ、それは、たまたまだよ! その日、すげぇ体調が良かっただけだ! なあ、莉奈もそう思うだろ!?」


俺は助けを求めるように、隣の莉奈に視線を送った。莉奈は、困ったように眉を寄せながらも、必死に俺を庇おうとしてくれる。


「そうだよ、蓮! 航、最近、力仕事のバイト頑張ってるって言ってたし、それで足腰が鍛えられただけかもしれないじゃない! そんな、動画まで撮って分析するなんて、やりすぎだよ!」

「これは感情論じゃない。事実の確認だ」


蓮は、莉奈の反論を冷たく一蹴した。その言葉に、莉奈は悔しそうに唇を噛む。彼女の優しさが、今の俺にはひどく申し訳なく、そして痛かった。


蓮の追及は、まだ終わらない。


「極めつけは、先日のゼミだ。テーマは『古代文明の未解読文字とオーパーツ』。教授が、まだ学会でも仮説段階の『デロス海底遺跡から発見された、未知の金属製の歯車』について触れた時、お前、こう言ったよな。『その歯車の合金比率は、オリハルコンというより、ミスリルに近い特性を持っているはずだ』と。まるで、実際にその金属に触れたことがあるかのような口ぶりだった。ミスリル? オリハルコン? お前はいつから、ファンタジー小説家になったんだ?」


まずい。完全に、やらかしていた。ダンジョン内の古い石板に刻まれていた金属の精錬法に関する記述を、俺は、現実世界の知識であるかのように、無意識のうちに口走ってしまっていたのだ。ダンジョンでの経験が、俺の知識や思考を、確実に、そして着実に、常人のそれとは異質なものへと変えつつあった。


「な、何もないって! それは、ほら、最近読んだラノベの受け売りだよ! つい、口が滑っただけだって!」


俺は、引きつった笑みを浮かべながら、必死に言葉を絞り出した。だが、俺の拙い言い訳は、もはや焼け石に水だった。蓮の目は、俺の嘘を全て見透かし、その奥にある真実を探ろうとするかのように、鋭さを増していく。


その時だった。それまで黙ってコーヒーカップに口をつけていた静が、ふっと顔を上げて、静かに口を開いた。


「橘くんの言うことも、一理あるわね」


その一言は、静寂の中に投じられた小さな石のように、しかし確かな波紋を広げた。


「相田くんの世界は、時々、私たちの世界の物理法則から、ほんの少しだけ、逸脱しているように見える。まるで、彼だけが、違う次元の法則が適用される場所に、片足を突っ込んでいるみたいに」


静の言葉は、蓮の論理的な追及とはまた違う、本質を抉るような鋭さを持っていた。彼女の比喩は、もはや比喩ではなく、真実そのものを的確に言い当てている。俺は、背筋が凍るような感覚に襲われた。


蓮は、静の言葉に同意するかのように、深く頷いた。


「そうだ。相田、お前、何か隠してるだろ。俺たちに、言えないデカい秘密が」


蓮の言葉が、重い最後通牒のように、テーブルの上に落ちた。莉奈は、俺と蓮の顔を交互に見ながら、どうすればいいのかわからずに、ただオロオロとしている。静は、興味深そうに、この緊迫した状況を静かに観察している。


孤立無援。四面楚歌。俺の頭に、そんな言葉が浮かんだ。俺は、彼らに、そして莉奈や静に、嘘をつき続けていることに、もはや耐えられないほどの罪悪感を感じていた。


だが、言えない。ダンジョンのことなど、打ち明けられるはずがない。もし、彼らが俺の秘密を知ってしまったら? 俺を、異物として、気味悪がって、恐れるようになるかもしれない。あるいは、蓮のことだ、科学的な好奇心から、ダンジョンに足を踏み入れようとするかもしれない。莉奈だって、俺を心配するあまり、ついてこようとするかもしれない。それは、絶対に避けなければならない最悪のシナリオだった。


俺は、彼らを危険に晒すわけにはいかない。この秘密は、俺一人で抱え込み、俺一人の力で、彼らを守らなければならないのだ。そうだ、これは、彼らを守るための嘘なんだ。俺は、そう自分に強く、強く言い聞かせた。


「…考えすぎだって。じゃあな」


俺は、それだけを吐き捨てると、椅子を蹴立てるようにして、逃げるようにカフェを後にした。背中に突き刺さる三対の視線を感じながらも、俺は一度も振り返らなかった。


その夜、俺はいつものようにコインランドリーへと向かった。蓮たちの言葉が、頭の中で何度も、何度も反響している。彼らの疑念から逃れるように、俺はダンジョンの奥深くへと潜っていく。マモノを倒し、魔石を集め、新しいアイテムを探す。その行為だけが、今の俺にとって、唯一の現実であり、心を無にできる救いの時間だった。


その日、俺は第二階層の森林エリアで、狡猾なゴブリンの集団を相手に、激しい戦闘を繰り広げた。鉄パイプを振るい、敵の棍棒を弾き、急所を的確に叩き潰していく。レベルが上がったおかげで、以前のような苦戦はしない。だが、敵を倒せば倒すほど、俺の心は不思議と静まり、そして冷えていった。


ゴブリンたちが消えた後、ドロップアイテムの光が、湿った地面に落ちていた。それは、銀色の包装紙に包まれた、手のひらサイズの、小さなガムのパッケージだった。


【アイテム『思考が高速化するガム』を手に入れた】


俺はそれを拾い上げ、自嘲気味に呟いた。


「思考が高速化するガム、か。これで、蓮の追及も、もっと上手くかわせるようになるかな」


そのガムが、俺の日常を、そして友人たちとの関係を、もはや後戻りできないほどに加速させてしまう、新たな引き金になることなど、この時の俺は、まだ知る由もなかった。


家に帰り着き、自室のベッドに倒れ込む。今日のカフェでの出来事が、何度も頭の中で再生される。蓮の鋭い指摘、莉奈の悲しそうな顔、静の底の知れない微笑み。罪悪感と孤独感が、泥のように心にまとわりついて、息苦しい。


俺は、ポケットから取り出した『思考が高速化するガム』を、ぼんやりと見つめた。銀色のパッケージを開くと、中には、何の変哲もない、ミント味の板ガムが三枚入っていた。本当に、こんなものが?


好奇心に負け、俺は一枚、口に放り込んだ。爽やかなミントの香りが、口の中に広がる。そして、次の瞬間。


世界が、変わった。


頭の中で、カチリ、と何かのスイッチが入る音がした。今まで靄(もや)がかかっていた思考が、一瞬にしてクリアになる。脳細胞の一つ一つが、フルスロットルで活動を始めるような、圧倒的な覚醒感。机の上に散らかったままだった、難解な哲学のレポート課題が目に入る。普段なら、参考文献を何冊も読み込み、うんうん唸りながら数日かけて書くような代物だ。それが、今なら書ける。いや、書けるというレベルではない。完璧な構成、論理的な展開、適切な引用、そして教授を唸らせるほどの独自の考察。その全てが、脳内で瞬時に、そして完璧に組み上がっていく。


俺は、何かに憑かれたようにパソコンに向かい、キーボードを叩き始めた。指が、俺の思考速度に追いつかないのがもどかしい。脳内では、すでに論文が完成しているのに、それをアウトプットする指の動きが、ひどく鈍重に感じられる。わずか五分後。俺の目の前には、数千字に及ぶ、完璧なレポートが完成していた。


「…マジかよ」


呆然と呟く。ガムの効果は、まだ続いている。頭は冴えわたり、世界の全てが、スローモーションのように見えた。蓮の追及。莉奈の言葉の裏にある本当の気持ち。静の視線の意味。それら全てが、パズルのピースがはまるように、手に取るように理解できる。


これを使えば、蓮のどんな質問にも、矛盾のない完璧な嘘を、瞬時に組み立てることができるだろう。だが、それは、本当に俺が望むことなのか? その嘘で固めた俺は、もはや「相田航」ではない、別の誰かだ。


ガムを噛み始めて、ちょうど五分が経った。その瞬間、脳のスイッチが、プツリと切れる感覚があった。加速していた思考が、急ブレーキをかけられたように停止し、猛烈な疲労感と、頭を締め付けるような激しい頭痛が襲ってきた。


「ぐっ…! あ、たま…!」


俺は机に突っ伏し、痛みに耐えた。これが、副作用か。このガムは、思考を加速させる代償として、脳に凄まじい負荷をかけるのだ。


頭痛が少し和らいだ頃、俺は、このガムの本当の恐ろしさを理解していた。この力は、友人たちとの溝を埋めるどころか、俺という人間を、彼らとは全く違う思考速度で生きる、孤独な異次元の存在へと変えてしまう、危険な劇薬だ。


加速していく日常の歪み。蓮の論理的な疑念、莉奈の拭えない不安、静の静かなる観察眼。その全てが、これから、より一層、俺を追い詰めていくことになるだろう。


俺は、もう、ただの大学生ではいられない。後戻りはできないのだ。その残酷な事実を、俺は、この得体の知れないガムの味と共に、嫌というほど噛み締めていた。

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