山の郵便受け
山猫家店主
山の郵便受け
北村悠馬がこの村にやって来たのは、春の雪がようやく消えかけた四月の終わりだった。
峠道を越えた先に広がる、小さな谷間の集落。県道から分かれた一本道は、川沿いにゆるやかにうねり、両側にはまだ色づかぬ田畑と、くすんだ瓦屋根がぽつぽつと見える。
地図で見れば、点のような村だった。名前も地味で、地元の役場ですら「忘れかけられた」と言っていたほどだ。
そんな村に、悠馬は一台の軽バンで配達にやってくる。
役所から請け負った「臨時郵便配達員」の仕事。週に一度だけ、書留や荷物、手紙などを持って回る。
村の戸数は十七軒。回るのに三時間もかからない。
「じゃあ、あとは……っと」
十六軒目の配達を終えたとき、悠馬は助手席のカゴに残された一通の封筒を手に取った。
白地に、淡い青の花が描かれた便箋封筒。ペン字の、少し震えるような文字で宛名が書かれている。
「『おかあさんへ』
『山の郵便受け』行」
最初にこれを見たとき、悠馬は思わず声を出して笑った。
郵便番号も住所もない。ただ、“山の郵便受け”。
「これは……どこ宛だよ」
しかし、配達元の指示にはこう記されていた。「宛先不明でも、山奥の木造家屋前のポストへ投函のこと(年配者により依頼。毎週同じように投函を希望)」
不思議な依頼だった。
だが、何度か回るうちに、悠馬はもうそれに慣れていた。
村はずれの坂道を上る。途中、舗装もまばらになり、雑木林の奥へ進むと、小さな空き家が見えてくる。
草に埋もれた縁側。くたびれた雨戸。
そして、軒下には、錆びた鉄の郵便受けがぽつんとぶら下がっていた。
悠馬はその前に立つと、そっと手紙を差し入れた。
カラン、と音を立てて中に落ちる。
それで配達は終わりだ。
けれど、その日。
ふと帰り際、彼は家の玄関先に目を留めた。
扉は閉まっている。人の気配はない。
それでもなぜか、空気のなかに、誰かがついさっきまでいたような、妙なあたたかさが残っていた。
「……いるわけ、ないよな」
ひとりごちて、悠馬は軽バンへと戻った。
エンジンをかけながらも、心のどこかで、こう思っていた。
——この手紙、本当に届いてるのかもしれない。
配達の合間に、悠馬は軽バンの助手席で缶コーヒーを開けた。
ふと脳裏をよぎったのは、かつて東京で働いていた頃の記憶だった。
同僚だった柿沼——週刊誌の編集部にいた男が、酔った勢いで話していた出来事があった。
それは、どこかの山村に住む若い女性が、亡くなった母親に向けて、毎週手紙を送り続けているという話だった。
「宛先がね、“山の郵便受け”ってだけなんだって」
「本当に届くのかよ」
「さあな。でも、そのポスト、空き家の軒先で、風が吹くたびに揺れてるんだってさ。まるで誰かを待ってるみたいに」
そのときは、都市伝説のように聞き流した。
けれど今、あの話がやけに現実味を帯びて胸に残っている。
「……まさか、同じじゃないよな」
そう呟いて、悠馬はエンジンをかけた。
その日の午後、配達の途中で立ち寄った村の集会所では、地元の年配者たちが縁側に集まってお茶を飲んでいた。
悠馬が声をかけると、皆おおらかに迎え入れてくれた。
「すみません、あの……村はずれの古い家、今は誰も住んでいないんですよね?」
その問いかけに、おばあさんの一人が茶碗を持ったまま頷いた。
「ええ、もう何年も前にね。あそこには、昔、お母さんと娘さんが住んでいたんですよ。二人きりで」
「娘さんは……?」
「若いときに町に出て、それっきり戻らなかったみたい。お母さんは、だいぶ前に亡くなられたの」
「……それでも、誰かが手紙を送ってるみたいなんです。毎週、同じ封筒で」
悠馬がそう言うと、集まっていた人々が静かになった。
その中で、一人の老人がぽつりとつぶやいた。
「戻れなかったんでしょうね、気持ちが」
「……気持ちが?」
「誰かに会えないまま、時間が過ぎてしまったとき、人は手紙に託すんです。そこに相手がいなくても、思いだけはどこかに残しておきたくて」
その言葉に、悠馬は胸の奥がざわつくのを感じた。
ふと、ポケットの中の小さなメモ帳に目をやる。
——「北村咲子」
その名前だけが、そこに走り書きされていた。
それは、かつて自分が東京で失った、たった一人の家族。
もう何年も音信不通のまま、どこにいるのかさえわからない妹の名前だった。
その日、配達を終えて帰る道すがら、悠馬は静かな夕暮れの坂道をゆっくりと下った。
空は茜色に染まり、山あいの家々に明かりが灯り始めていた。
あの古びた郵便受けが、誰かの思いを今も受け止めているのなら——
自分もまた、何かを届けに来ているのかもしれない。
そんな気がしていた。
翌週、配達の日。
空は薄曇りで、谷間の村に白い靄がゆっくりと降りていた。
木々の葉も、田んぼの水面も、どこかじっとりと湿り気を帯びている。
悠馬は、いつものように村をまわった。
郵便物は少ない。広告も、町の便りも、どれも似たようなものばかり。
だが、助手席のカゴには、またあの手紙があった。
「『おかあさんへ』……か」
手にとったとき、ふと封筒の裏に目が留まった。
そこには、うっすらと消えかけた差出人の名が書かれていた。
「……沢村……」
かすれて読み取りにくいが、「沢村」という姓だけははっきり残っていた。
(沢村……この村にそんな名前の人、いたっけ)
悠馬はそのまま軽バンを山道へ走らせる。
雑木林の奥へ進むと、いつものあの家が現れる。
変わらず、古びた郵便受けが、風に揺れている。
手紙を差し入れると、カラン、と金属音が響いた。
しかしその日は、ふと気配を感じて顔を上げた。
家の裏手、木の陰に、誰かが立っていたように思えた。
「……こんにちは」
声をかけてみる。だが返事はない。
見間違いだったのかもしれない。
ただ、そこにいた“気配”だけが、妙にリアルだった。
その晩、悠馬は村の役場の片隅にある資料室に立ち寄った。
閲覧可能な住民台帳の旧帳をめくりながら、「沢村」の名を探す。
「あった……」
そこには、十数年前に“転出扱い”となった一家の記録が残っていた。
——沢村初枝(さわむら はつえ)
——娘:沢村茜(さわむら あかね)
(茜……)
その名を見た瞬間、胸の奥がなぜかきゅうっと締めつけられるような感覚に襲われた。
理由はわからない。ただ、どこかで聞いたことがあるような……そんな気がした。
同時に、記憶の奥でひとつの場面が蘇る。
かつて東京で働いていたとき、ある施設で見た写真展のこと。
そこに、遠く山里を見下ろす少女のモノクロ写真があった。
背中越しの姿。
だがその目線の先には、確かに、あの“郵便受けの家”が映っていた。
沢村茜という名前を知ってからというもの、悠馬の中で、あの手紙が持つ意味が少しずつ変わっていくのを感じていた。
単なる配達物ではない。
それは、遠くにいる誰かが、長いあいだ胸にしまい込んできた思いのかけらだった。
翌週の配達日。
助手席のカゴに置かれた、いつもの淡い青の封筒。
手に取った悠馬は、封の裏にうっすらと残る文字に目を留めた。
「……沢村」
かすれた筆跡の中に、その姓だけがはっきりと残っていた。
あの家へ向かう途中、ふと、東京時代のことを思い出す。
酔った夜、柿沼が話していた“山の郵便受け”の話。
それが本当だとしたら——いや、もしかしたら、自分の知るこの村のことだったのではないか。
配達を終えた帰り道、悠馬は迷わず携帯を取り出した。
柿沼に、久しぶりにメッセージを送る。
「なあ、前に言ってた“亡くなった母に手紙を出し続けてる子”の話、まだ覚えてるか? あれ、本当に実在したのか?」
返事はすぐに届いた。
「……沢村茜のことか?」
その一文を見た瞬間、悠馬は息を飲んだ。
やはり、あれは実話だった。
しかも、名前まで一致している。
あの家。あのポスト。そして、宛先だけの手紙。
すべてが一つの線となって、胸の奥で静かに結びついていく。
夜になり、悠馬は町の図書館へ向かった。
端末で旧新聞のデータを検索し、「沢村茜」の名前を打ち込む。
──だが、何も出てこない。
しばらくして、ようやく一件だけ、小さな地方紙の記事がヒットした。
山村から消えた少女。十年前、東京へ向かったまま消息不明。沢村茜さん(当時十七)は都会での就職を夢見て上京したが、その後、家族との連絡は途絶えたまま。母・初枝さんは村で独り暮らしを続けていたが、数年前に病気で亡くなったという。
記事を読み終えたとき、胸の奥に重いものが残った。
この手紙は、もう届かない相手に向けて綴られている。
けれど、彼女はそれをやめなかった。いや、やめられなかったのだろう。
(じゃあ……茜は、今もどこかで生きている)
名前も、写真も、居場所もわからない。
でも、封筒のぬくもりは、確かに生きた人間の手から差し出されていた。
悠馬はその日、夜風に吹かれながら軽バンの中でじっと封筒を見つめていた。
いつか、この手紙がほんとうに届く日が来るのだろうか。
それとも——
眠れない夜だった。
沢村茜の手紙を読み解こうとするほどに、自分の中に沈んでいた記憶が、じわじわと浮かび上がってくる。
手紙を差し出す誰かと、それを受け取れない誰か。
そして、自分自身もまた——そうだったのかもしれない。
悠馬には、妹がいた。
五つ年下の咲子。
母を早くに亡くし、二人で祖母に育てられた。
小さな頃から体が弱く、どこか影のある子だった。
——兄ちゃん、東京に行くんだよね。
高校を出てすぐ、悠馬は家を離れた。
小さな町でくすぶっているのが嫌だった。
けれど、咲子がそう言って笑ったあの日の顔が、今でもふとしたときに浮かぶ。
——あたしね、書くことが好きなの。
便箋に何かを書いては、そっと机の引き出しにしまっていたあの子。
けれど、悠馬はその思いを、最後まで知らなかった。
大学進学、就職、東京の喧騒——
気がつけば、連絡はどんどん減っていった。
あるとき祖母から電話で、「咲子が家を出た」と聞かされた。
それっきり、戻らなかった。
「会いたいって、言われてたのに……」
あのとき一度でも、咲子のもとへ帰っていれば。
今もどこかで、生きているのだろうか。
あるいは、どこかの街角で、ひとり郵便受けに向かって手紙を出しているのかもしれない。
受け取る人のいない、手紙を。
山の郵便受け——
あの家の軒先で風に揺れるポストが、咲子の影と重なって見えた。
きっと、あの中にも、届かなかった声が詰まっている。
茜が出した手紙。咲子が書いたはずの言葉。
そして、自分が口にできなかった謝罪や願いも。
悠馬は、車の中で静かに目を閉じた。
もう一度だけ、咲子に会いたい。
たとえどんな姿でも。
たとえ、もう声を交わせなくても——
週に一度の配達が、もう習慣のようになっていた。
助手席のカゴに、いつもの淡い青の封筒。
「おかあさんへ」「山の郵便受け」行。
いつもと変わらぬ手書きの文字が、変わらぬ想いを静かに運んでいた。
その日、村を回り終えた午後の遅い時間。
悠馬は軽バンを、山の奥のあの道へとゆっくり走らせていた。
舗装が途切れた先に、いつもの家が見える。
しかし——どこかが違っていた。
雑草が生い茂る小道に、誰かの足跡が残っていた。
昨夜の雨でぬかるんだ土に、靴の裏がはっきりと刻まれている。
「……誰か、来た?」
悠馬はエンジンを切って、慎重に車を降りた。
長靴のまま草をかき分け、家の軒下にあるあの郵便受けへ向かう。
すると——
ポストの口が、わずかに開いていた。
これまで、何度手紙を入れても、必ず「カラン」と音を立てて閉まっていたそれが、今日は途中で止まっていた。
まるで、誰かが途中で手を引いたような、不自然な開き方だった。
恐る恐る中を覗き込む。
薄暗い鉄の内壁に、手紙が一通、奥へ滑り込んでいた。
けれど、その封筒は——
「……これ、前のやつじゃない……」
それは、今日投函したものではなかった。
封の角がわずかに折れ、紙がわずかに湿気を帯びている。
悠馬の手から離れた、以前の週の手紙が、なぜか戻されるようにポストの中に残っていた。
(誰かが……手を伸ばしたのか?)
周囲に人の気配はない。
けれど、森の奥からは鳥の羽ばたきでもない、何かが草を擦るような小さな音が聞こえていた。
誰かが、すぐそこまで来ていた。
あるいは——今も、どこかにいるのかもしれない。
悠馬は足元に視線を落とした。
郵便受けの下、崩れかけたブロック塀の隙間に、小さな紙片が挟まっている。
風で飛んだのだろうか。
拾い上げてみると、それは切り取られたノートの一部だった。
そして、そこには鉛筆で震える文字が、かすかに残されていた。
「……おかあさん、ゆるして」
声が出なかった。
ただ、その場に立ち尽くすしかなかった。
誰かが——この家を訪れていた。
そして、まだ、届いていない声が、そこに
あった。
「……おかあさん、ゆるして」
その紙片を拾ってからというもの、悠馬の頭から、あの震える文字が離れなかった。
たったひと言。けれど、それはきっと、長い時間をかけてようやく書かれた言葉だった。
口にできなかった想い。伝えるあてのない後悔。
その全てが、あの短い文に凝縮されていた。
悠馬は、再び自分の中の誰かを思い出していた。
咲子にも、ああやって書きたい言葉があったのだろうか。
帰れなかったのではなく、帰らなかった。
そう思い込もうとしていた自分の言い訳が、ふと揺らいでいく。
週明け、悠馬は町の図書館へと足を運んだ。
古い端末に向かいながら、「沢村茜」「無縁の手紙」「宛先不明」などの語句を、何度も入力し直した。
画面に何も表示されないまま、次のページへ、また次へとスクロールを繰り返す。
そして、ようやく見つけた。
あるNPO団体が公開していた公式ブログ。
活動記録のひとつとして紹介されていたのは、「届けられなかった手紙展」という小さな展覧会だった。
地方の画廊で、数年前に開催されたその展示は、ささやかで、けれど静かな反響を呼んだらしい。
記録の中に、こう記されていた。
差出人・不明。宛先「おかあさんへ」。届けられない手紙として、匿名寄託。
添えられた画像に写っていたのは、白地に青い花模様の封筒。
控えめな罫線に、少しだけ震えたペン字の宛名。
それは、悠馬が毎週届けていた手紙と、寸分違わぬものだった。
胸の内に、冷たい水がすっと流れ込むような感覚が広がった。
茜は、確かに今もこの世界のどこかで、生きている。
そして、届かぬ言葉を、まだ書き続けている。
悠馬は展示を主催した団体を調べ、連絡用に記載されていた古いメールアドレスへと、慎重にメッセージを送った。
「差し支えなければ、この手紙を寄託された方に、伝言を届けていただけませんか」
「お母さんの家は、今もあのまま、風の中で待っています、と」
返信があったのは三日後の午後だった。
短い文面には、こう記されていた。
差出人の方は現在、都内某所でひっそりと暮らしておられます。ご希望があれば、本人にご連絡内容をお伝えしますが、直接のやりとりを望んでおられるかどうかは不明です。ただ、こう伝えておきます——「郵便受けの家は、今も風の中で、待っています」と。
悠馬は、その最後の一文を何度も読み返した。
言葉の主は、誰なのか。それすらも分からない。
だが、その文面には、たしかに静かな手ざわりがあった。
——彼女はまだ、遠くにいる。
でも、完全に離れてしまったわけではない。
記憶の片隅に、今もあの家の姿を、風の音とともに思い浮かべている。
軒先の郵便受け。
風に揺れるたび、誰かを待ち続けるように鳴る、あの鉄の音。
それは、彼女の心が、まだ閉じきっていない証のようにも思えた。
悠馬は静かに目を閉じた。
咲子に届かなかった言葉。茜が出し続ける手紙。
そして、自分がこの村に来た理由——
風がまた、郵便受けを揺らしていた。
その日は朝から雨が降っていた。
山あいの空は重く垂れこめ、谷を流れる川音も、普段より低く響いていた。
雨脚は強くないが、止む気配はなかった。
悠馬は、配達の軽バンのワイパーを最速にして、村へと向かっていた。
助手席のカゴには、いつもと同じ青い花模様の封筒が置かれている。
けれど、その重さは、以前とは違って感じられた。
——あの手紙は、まだ届いていない。
伝言を託したあの日から、一週間が経った。
彼女からの返事はない。メールも、手紙も、何も届かない。
けれど悠馬は、なぜか確信していた。
彼女は、もう一度あの場所を訪れる。
言葉ではなく、足で。記憶ではなく、目で確かめに——
村の配達を終え、山道へ入ったころ、雨はわずかに細くなった。
舗装の切れた先を進むと、あの家が姿を現す。
雨に濡れ、瓦は鈍く光り、軒先からは雫がぽつりぽつりと落ちていた。
郵便受けは、風もないのにわずかに揺れていた。
悠馬はそれを見て、ハンドルを切った。
家の手前、草の中に一本の細い踏み跡があった。
——誰か、来ている。
エンジンを切り、ドアを静かに閉め、長靴を履いたまま草を踏んだ。
冷たい雨が肩を濡らす。けれど、歩みは止まらなかった。
家の前まで来たとき、ふいに、気配を感じた。
誰かが、すぐそばにいる。そう思った。
「……すみません」
声をかけたが、返事はない。
だがそのとき、軒下の隅に、一つの影がうずくまっているのに気づいた。
薄いレインコートを羽織った女性が、膝を抱えて座っていた。
髪は濡れ、顔はうつむいて見えない。
だが、悠馬はすぐに分かった。
この人が、沢村茜だ。
「……あの……」
声をかけると、女性はびくりと肩を震わせた。
だが顔は上げない。
長い沈黙のあと、かすれた声が雨音にまぎれて聞こえた。
「……もう、誰もいないと思ってたんです」
「この家に、ですか?」
「いいえ……わたしのことを、誰も知らないと思ってた。もう、全部……なくなってるって……」
悠馬はそっと、彼女の隣に腰を下ろした。
湿った土の匂いと、木の腐りかけた匂いが鼻をつく。
だが、その場に流れていたのは、不思議な静けさだった。
「届いてましたよ。ずっと、手紙」
茜はゆっくりと顔を上げた。
目は赤く、涙の跡が雨に濡れていた。
「……嘘。誰も……見てないと思ってた」
「でも、届いてた。あのポストに、ちゃんと。毎週、投函されてました。風の中で、静かに待ってましたよ」
茜は、何も言わずに黙ったまま、手に握っていた小さな封筒を差し出した。
それは、いつもの便箋と同じものだった。
けれど、宛名は書かれていなかった。
「……今日は、書けなかったんです」
「それでもいいと思いますよ。書かなくても、来たこと自体が……届けたことになるんじゃないですか」
その言葉に、茜はようやく、小さく頷いた。
そして、ポストの前まで歩いていき、ゆっくりと封筒を差し込んだ。
カラン、と音が響く。
それは、雨にぬれた静かな山のなかで、たしかに届いたことを告げる音だった。
雨は、午後になってようやく上がった。
山肌の樹々からは、しずくがぽとりぽとりと落ちていた。
空気はまだ湿っていたが、風は穏やかだった。
沢村茜は、軒先の木椅子に腰を下ろしていた。
古びた縁側の板は、ところどころ軋んでいたが、彼女はそこにゆっくりと体を預けていた。
悠馬は少し離れたところに腰を下ろし、二人のあいだには、しばらくのあいだ静かな沈黙があった。
「……この家、変わってないですね」
先に口を開いたのは茜だった。
彼女の視線は、雨に濡れた庭先に向いていた。
草の伸びた地面、錆びた竿掛け、割れたままの踏み石。
すべてが、時間に置き去りにされたままだった。
「ええ、ずっとそのままです」
悠馬はそう答えた。
それは、彼自身にも向けられた言葉のようだった。
「……何年も来なかったのに、来てみたら、やっぱり分かるんですね。ここが、帰る場所だったんだって」
「帰る場所は、なくなることはないと思いますよ。たとえ誰もいなくなっても」
茜はふっと笑った。
その笑いには、どこか傷を隠すような薄さがあった。
「でも、いないんですよ。もう、誰も」
「手紙には、まだ宛先があったじゃないですか」
茜は顔を伏せた。
長い睫毛の先から、ひと粒のしずくが落ちた。
「……届いてたんですね、本当に」
「ええ、毎週、ちゃんと。僕が届けてました」
彼女はゆっくりと顔を上げた。
その目には、少しだけ光が宿っていた。
「あなた、郵便屋さんじゃないですよね」
「今は、そういう仕事です。でも……もともとは、ただの逃げた人間でした。東京から、仕事から、家族から」
「……誰かを、置いてきたんですか?」
悠馬は少しだけ息を詰めて、頷いた。
「妹がいました。咲子っていいます。……もう、どこにいるのかも、分かりません」
「探してるんですか?」
「いいえ。たぶん、会うのが怖いんです。会って、何を言えばいいのか、自分でも分からなくて」
茜は、ゆっくりと視線を庭に戻した。
風が、どこからか草の匂いを運んできた。
「……じゃあ、わたしたち、ちょっと似てるのかもしれませんね」
その言葉に、悠馬は何も返さなかった。
ただ、黙って頷いた。
二人のあいだには、まだ名前にならない思いが、そっと漂っていた。
けれど、それは確かに、同じ方向を向いていた。
誰かに、もう会えないかもしれない。
でも、それでも言葉を届けようとしたこと。
それだけは、確かに共有できる何かだった。
陽はまだ傾くには早い時刻だったが、山あいの午後はすでに影が長かった。
濡れた草木が陽を受けて、淡く光っている。
静かな風が吹き抜け、軒先の郵便受けが、ふたたび小さく揺れていた。
沢村茜は、立ち上がった。
レインコートの裾に付いた泥を、手で軽く払う。
表情は穏やかだった。けれどその目には、朝ここへ来たときにはなかった、かすかな輪郭が浮かんでいた。
「……そろそろ、戻ります」
「駅まで送りますよ。歩くには、遠いですし」
「……いいえ、大丈夫です」
茜はかぶりを振った。
その動作は、ごく小さく、それでいてはっきりとした意志を含んでいた。
「ひとりで帰ります。……きっと、そのほうがいい」
悠馬は、それ以上何も言わなかった。
ただ、うなずいた。
茜は郵便受けの前で足を止め、しばらく見つめていた。
手を伸ばしかけて、そして何もせず、静かに手を引いた。
もう、投函する手紙は持っていなかった。
「……母が、ほんとうにあの世で見てるのか、わかりません。
でも……わたしがここに来たことくらいは、知っていてくれたらいいなって、思ってます」
悠馬は、小さく答えた。
「きっと、届いてますよ」
茜は微笑んだ。
それは、わずかにかすれた、けれどたしかに“笑み”と呼べるものだった。
彼女は小道を戻りはじめた。
伸びた草のあいだを踏み分けて、ぬかるんだ道を、ゆっくりと。
その背中は、決して大きくはなかった。
でも、もううつむいてはいなかった。
肩をすくめることもなく、姿勢はまっすぐだった。
悠馬は、その後ろ姿を見送りながら、ふと気づいた。
彼女の歩いたあとの地面には、細く確かな足跡が、真っ直ぐに続いていた。
それはまるで、この場所から“何か”が旅立った証のようだった。
風が吹いた。
郵便受けが、小さく揺れた。
でもその音は、もうどこか、寂しさだけではなかった。
茜の背中が木々の間に見えなくなっても、悠馬はしばらくその場から動けなかった。
風が山の稜線を越えて吹き抜ける。
雨上がりの空気は澄んでいて、木の匂いと、土の匂いが混ざっていた。
ふと視線を下ろすと、縁側の板の上に、封筒が一通置かれていた。
雨には濡れていない。おそらく、彼女が帰る直前にそっと置いたのだろう。
白地に、丁寧な文字で、こう書かれていた。
「読んでください」
宛名も、差出人の名もなかった。
でも、それはもう十分だった。
これは、彼女が今、自分の中でようやく綴ることができた、誰にも見せられなかった手紙。
そして、その受け取り手に、ようやく“誰か”を選ぶことができたということだった。
悠馬は封筒を手に取り、軽バンの助手席へ戻った。
エンジンはかけず、静かな車内に座って、封を切る。
中には、一枚の便箋が入っていた。
便箋の文字は、ところどころ滲んでいた。
けれど、それでも一字ずつ、きちんと読めた。
——おかあさんへ
あの日、言えなかったことを、いま書いています。
ごめんなさい。ずっと、謝りたかったのに、わたしは怖くて、それができません でした。
母のことを想うたび、言葉がつかえて、何も言えなくなってしまいました。
でも、手紙だけは書けました。
声ではなく、文字でなら、伝えられる気がしました。
だからわたしは、ずっと、手紙を書き続けていました。
今日、はじめて、あの場所に戻りました。
家はそのままでした。ポストも、風も、全部、昔のままでした。
そして、あなたがもうそこにいないことも、ちゃんと感じることができました。
それでも——
やっと言えます。
おかあさん、ごめんなさい。そして、ありがとう。
もう、帰る場所がないとしても、
わたしは、これからの場所をつくります。
手紙は、そこで終わっていた。
署名もなかった。
けれど、悠馬にはそれが誰のものか、疑う余地もなかった。
窓の外では、夕暮れがはじまっていた。
空が少しずつ茜色に染まり、山の稜線がくっきりと浮かび上がる。
遠くで鳥が一羽、鳴いた。
悠馬は、便箋をそっとたたみ、封筒に戻した。
そして静かに胸に抱いた。
その手紙は、自分に宛てられたものではなかった。
けれどそれは、たしかに“誰かに読まれること”を望んで、風のなかに残されたものだった。
そして今、それはようやく届いたのだ。
届くべき、場所に。
風が吹いていた。
秋が近づいていた。
遠くの山がうっすらと色づきはじめていて、朝晩の空気は少しだけ冷たくなっていた。
沢村茜が最後に姿を見せてから、もう二か月が経っていた。
それ以来、あのポストには一通の手紙も届いていない。
封筒の重さも、かすかな筆跡も、今はもうそこにはない。
それでも——悠馬は、毎週その家へ足を運び続けていた。
道に新しく倒れた枝を払い、雑草を刈り、落ち葉を掃く。
誰に頼まれたわけでもない。
けれど、それをしないと、何かが止まってしまう気がしていた。
今日は郵便物はなかった。
けれど、いつものように車を降り、郵便受けの前に立った。
ポストは少し錆が増えていたが、まだ健気に揺れていた。
ふと、足元に何かが落ちているのに気づいた。
小さな折り鶴だった。
雨に濡れてもいない。風に飛ばされてもいない。
まるで、そっと誰かが置いていったような、そんな鶴だった。
手に取ると、折り目が丁寧で、翼がすこしだけ開いていた。
中に文字があるわけでもない。ただ、静かな紙の存在だけがあった。
悠馬はそっと、鶴をポストの上に戻した。
それはきっと、手紙のかわりに残された“あいさつ”だったのだろう。
「もう、書かなくてもいい」と伝えるような。
風が、山をわたる。
郵便受けが、またカラン、と鳴る。
でもその音は、もう寂しさだけを運んではいなかった。
それは、誰かがちゃんと“この場所を出発した音”だった。
悠馬は、少しだけ微笑んだ。
ポケットから、折りたたんだ手帳を取り出し、一行だけ書き込む。
——今日も、風は届いていた。
軽バンのエンジンをかけると、静かなエンジン音が山に響いた。
バックミラーに揺れるポストを、しばらく見つめたあと、
悠馬はゆっくりと車を走らせた。
谷の下には、色づきはじめた稲の穂が揺れていた。
その向こうに、ひっそりと暮らす誰かの新しい生活が、きっと始まっている。
——手紙は、届いたのだ。
了
山の郵便受け 山猫家店主 @YAMANEKOYA
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