第3話
「これが、純文学の中の純文学」と、銘打った短編を書いたことがあります。
→https://kakuyomu.jp/works/16817330654349626127/episodes/16817330654351548834
この中で、主人公が述懐している、「本や読書がなければ、自分は人間にもことばにも最初から絶望しきって、一片のよい価値を見出せなかっただろう」というのは、まったく僕の本音だ。
最初の時点で、家族との暖かいコミュニケーションがあって、そうして本やら読書で、言葉や人間への、性善説というか肯定的な第一印象を刷り込まれていて、で、だからいろいろとおかしな理不尽な出来事があっても絶望せずに前向きでいられる…ちょうど「アンネの日記」の著者の迫害されていたユダヤ人の少女のスタンスに似ているかもしれない。
アンネは、追われ、怯えながらも、明るいユーモアを忘れない。 それは、人類の良い面、善良でいつも明日を信じて明るい希望を持っているという、そういう本来の在り方を読書で培ってきていたからだ。
読書のみでないにしても、「ことば」というものの本来の効用、意思疎通して互いに寄り添い庇いあい慰安を与えあい、癒し合う。
そこのところを最初のところでちゃんと学習していたからこそ、人々の胸を打つような、素晴らしい唯一無二の魂の記録を遺せた。
読書の、だからポジティヴシンキングと同一のそうした効用は、人類への絶望とか、そうした「死に至る病」への適切な、唯一の処方箋となりうる。
それがアンネや、またオレとかの場合かも。
閑話休題。
読書というのはだいたいが孤独な営みで、孤独でないとできない作業でもある。
雑踏の中でも、読書やら俳句をひねったりはできるが、苦手な人はやりにくくなる。 オレは完全に一人でないと、読書や執筆やそういう精神集中がしにくい性質ですが、最近はだいぶ訓練というかいやおうなしに適応させられて? そういう弊も矯正されてきた感じもある。
で、そういうパラノイドぽいヒトは、孤独に筋トレしたり、一人の女性との恋愛遊戯で、自己確立とか矜持を保つ工夫をしたりする…せざるをえない。 冒頭の引用した短編の趣旨は、そういう孤独の極致の、孤高の生き方を”かっこよく”描くことであって、それがだから私小説とかの神髄と考える、そういう意味なのです。
孤独であるのはマイナスであろうか? そういう問題提起をしていない本やら発想やら、そういうものはマスゴミであって、活字にする値打ちのない頽落しきった幼児のたわごとで、そういうものを捨象しきって、そこから読書とか思想とかそういう人類のみの高尚な精神世界の話になるのだと思います。
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