安楽椅子探偵・瓶覗 操の判断推理

火之元 ノヒト

プロローグ 安楽椅子探偵

 ​俺、井戸口 繰いとぐち たぐる、二十歳。しがない大学生にして、未来の名探偵を夢見る男。のはずが、現実はどうだ。


​「繰。紅茶」


「へいへい」


「茶葉が古い。三日前の雨の匂いがする。淹れ直せ」


「……へい」


 ​俺の目の前、アンティークの車椅子にふんぞり返って座る少女、瓶覗 操かめのぞき みさお。それが俺の現在のご主人様であり、自称「安楽椅子探偵」だ。


 安楽椅子探偵。聞こえはいいが、要するに超絶ワガママな引きこもりである。齢十七にして、この広大な洋館から一歩も出ず、俺をコキ使うことだけを生き甲斐にしているとしか思えない。


 ​この屋敷がまた、無駄にデカい。天井は遥か彼方、廊下はどこまでも続き、メイドさんどころか執事までいる。どうしてこんなブルジョワの巣窟で、俺がパシリをやらされているのか。話は数ヶ月前に遡る。


 ​探偵に憧れる俺は、ひょんなことから「どんな謎でも解く少女がいる」という噂を耳にした。藁にもすがる思いでこの洋館の門を叩いた俺を待っていたのは、このふてぶてしい態度の車椅子の少女だった。


 彼女は俺の顔を見るなり、言い放った。


「君、昨日カツ丼食べたろ。それから、左の靴紐の結び方が甘い。探偵志望にしては脇が甘すぎる。不合格だ」


 ……いや、なんでわかるんだよ。カツ丼食ったことも、靴紐のことも。


 この時、俺は悟った。この少女は、本物だ。そして、俺が名探偵になるには、この悪魔……いや、天才の「手足」になるのが一番の近道だと。我ながら、素晴らしい判断力だったと思う。今のところは。


​「繰、暇か?」


「お嬢様の紅茶を淹れ直す準備をしてるんで、暇ではないですね」


「そうか。なら、ついでに書斎のC-4の棚、下から三段目の左から五番目の本を取ってこい。背表紙の革の匂いが薄れてきた。保湿クリームを塗る」


「……それ、今やらないとダメです?」


「ダメだ。本の機嫌を損ねたら、世界の真理が一つ失われる」


 ​そんなわけあるか。


 だが、俺は逆らえない。それが「手足」の宿命だ。俺はため息一つ、書斎へと向かう。


 ​彼女はいつもそうだ。自らは動かず、俺という駒を動かして情報を集め、事件を解決する。その推理力は本物で、警察がお手上げの難事件を、この部屋から一歩も出ずに解決したことだってある。


 その時、彼女は決まって膝の上の小さな瓶を覗き込む。中にはキラキラ光るガラス片が入っているらしいが、俺にはただのガラスにしか見えない。あれを覗き込む時の彼女は、いつものふてぶてしさが嘘のように、静かで、どこか遠くを見ているような、そんな顔をする。


 ​まあ、なんだかんだ言っても、彼女の隣は退屈しない。彼女の無茶振りに応えているうちに、俺の記憶力や観察眼も鍛えられている……ような気がしないでもない。


 ​書斎から戻ると、操は窓の外をじっと見つめていた。


「繰」


「はいよ。ご指定の本です。革の保湿クリームもご一緒に」


「そんなものはどうでもいい」


 え、どうでもいいの? 俺の労力は?


「面白いことが始まりそうだ」


 ​彼女が振り向く。その瞳は、退屈な日常を打ち破る「謎」の匂いを嗅ぎつけた、獰猛な肉食獣のそれだった。


 どうやら「安楽椅子探偵」様は、新たなオモチャを見つけたらしい。


 そして、そのオモチャで遊ぶための「手足」は、ここに一人しかいない。


​「行くぞ、繰。最初のゲームの時間だ」


 ​ああ、クソ。


 どうやら俺の平穏な大学生活は、このご主人様によって、またしても遠くに放り投げられる運命らしい。

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