怠惰な俺の無実証明ーハッカーの知識を使って俺を犯人にしたやつを追い詰めるー

2N番目の雪だるま

第1話 告発(インシデント)

神谷朔は、眠っていた。


午後の授業が終わった直後の図書室。まばらな光がブラインドの隙間から差し込んでいる。机にうつ伏せた顔の横には開きかけた参考書があり、蛍光ペンは持ち主の指から滑り落ちたままだった。


「……また寝てるのかよ、神谷」


クラスメイトが呆れた声を投げかけたが、朔はかすかに片目を開けただけで、体を起こす気配すらない。


「わかってるって。今起きる」


ようやく顔を上げると、無精ひげが生えかけた顎をかきながら、大きく背伸びをした。白シャツの裾がだらしなくズボンからはみ出している。都立東桜高校、二年生。神谷朔、十七歳。かつて“神童”と呼ばれた男の今の姿は、完全に“ただの高校生”だった。


いや、“堕ちた神童”と言ったほうが正しいかもしれない。


中学生の頃、朔は日本が主導するホワイトハッカー育成プロジェクト「C-Hub」の特待生として選抜された。国際大会にも出場し、CTF──Capture The Flagというサイバー競技で国内無敗。暗号解読、マルウェア解析、逆アセンブル、Web脆弱性の特定……並みの高校生が一生かけても到達しないレベルのスキルを、朔は13歳で持っていた。


CTFとは、仮想的なネットワーク空間を舞台に、サーバに仕掛けられた「フラグ(旗)」を奪取・守備する実戦型のハッキング競技。セキュリティ研究者の登竜門とも呼ばれる。


朔はその頂点に、手をかけていた。


だが──世界大会での敗北。それも“3位”という、悪くはないが決して世界一ではないという結果が、すべてを変えた。


優勝したのは、AYAとMINA。年齢もほぼ同じ、双子の姉妹。彼女たちのコードは完璧で、最終ステージでは朔のコードを1秒足らずで突破してきた。


コードは嘘をつかない。タイムも順位も、すべてが実力を証明していた。


──自分は、世界一にはなれない。


その夜、朔はC-Hubから退所願を出し、自作したすべてのハッキングツールと端末を破壊した。そして、普通の高校に進学し、普通の生徒になった。授業中に寝ていてもテストは常に満点。教師からも「もっと努力しろ」と逆に説教される。朔はただ、無感動にそれらをやり過ごしていた。


だが、その日──全ては再び動き出す。


夕方、自宅。母親と夕食の支度をしていた時、玄関のチャイムが鳴った。


「はーい」と母が出ると、妙に低い声が響いた。「警視庁です。神谷朔さんの件で」


玄関に出ると、スーツ姿の男女が立っていた。バッジを提示しながら、男が静かに言う。


「神谷朔さんですね。2億円のサイバー窃盗事件に関する参考人として、任意同行をお願いします」


「……は?」


数秒、何を言われたのか理解できなかった。


「それ、何かの間違いじゃ──」


「間違いかどうかは、事情を聞かせていただいてから判断します。ご協力をお願いします」


両親の顔が強張る。朔は無言のまま靴を履き、制服のままパトカーの後部座席に乗り込んだ。


警視庁本部。地下の取り調べ室。無機質な机と椅子、そして目の前にはノートPCの画面。男の刑事がキーボードを叩くと、画面に表示されたのは犯行ログだった。


「これは、KDSマネーサービス社のサーバに侵入した際のアクセスログです」


画面には“Specter”という文字列が表示されていた。


その名前を見た瞬間、朔の中で何かが軋んだ。


「……それ、俺のハンドルだ。昔、使ってた」


「つまり、心当たりがある?」


「いや、あるけど。俺じゃない。使われたんだよ。なりすましだ。スプーフィングってやつ」


刑事の眉がぴくりと動く。


「スプーフィング?」


「他人のハンドルネームやIPを偽装して、本人になりすます技術。レベルの高いハッカーなら簡単にできる。IPアドレスもプロキシやVPNで多段偽装できる。たぶんこれ、TorかC2サーバ経由でやられてる」


「ちょっと待って、トーア? シーツー?」


「Torは匿名通信ネットワーク。“The Onion Router”。アクセス経路を何重にも中継することで、発信元を隠せる。C2は“Command & Control”サーバ。マルウェアやリモートアクセスツールの司令塔みたいなもん。普通は見つけられないようにステルス化されてる」


「……まるで犯人のように詳しいな」


「俺が教えたんじゃないか?」


皮肉を言ってみせたが、刑事の表情は変わらなかった。


「とにかく、俺じゃない。ていうか、コードの書き方が違う」


朔はモニターを覗き込む。関数名の癖、コメントの入れ方、ループ処理の書き方──たしかに違う。だが、妙な既視感があった。


(このスタイル……どこかで……)


画面の片隅に、見覚えのある変数名を見つけた瞬間、背中に冷たいものが走った。


「これ……見たことある。大会で、俺を倒したあいつらのコードと似てる。あの、双子の」


口にした瞬間、自分でも驚いた。封印していた記憶が、鮮やかに蘇る。AYAとMINA。完璧なコンビネーション、そして完璧な“勝利”。


彼女たちの正体は、まだ誰にも知られていなかった。ただ、海外のハッカー掲示板では、数年前から「TwinsHell」という正体不明の天才コンビが、政府機関のサーバを攻撃しているという噂があった。


その“TwinsHell”が、もし彼女たちだとしたら──。


帰宅を許された朔は、押し入れの奥から古いラップトップを引っ張り出した。ホコリを払い、電源を入れる。冷却ファンの音とともに、OSがゆっくりと立ち上がる。


指は、覚えていた。


コマンドラインを開き、キーボードを叩く。検索スクリプトを走らせ、過去のSpecterアカウントの活動ログを洗い出す。VPNの出口ノード、Torルートのトレース結果、ドメイン登録者のメタデータ──断片的な痕跡を拾い集める。


出てきたのは、大阪にある中堅企業の中継サーバを経由したアクセスログ。そこから仮想通貨ウォレットが香港を経由し、最終的にセブ島の仮想通貨取引所に送られていた。


「2億円、か。──やっぱ、面白ぇじゃん」


誰にも聞こえないように、笑った。

失っていた火が、再び灯る音がした。


「ゲーム、再開だな」

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