第2話### 物語「約束」
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### 第2話 物語「約束」
結婚式を三日後に控えた、月のきれいな夜でした。
真新しい婚姻届を、二人で買ったばかりの小さなテーブルに広げて。私たちは、くすぐったいような、夢みたいな気持ちで、じゃれ合う子猫のように笑っていました。朱肉の赤が、未来を灯すちいさなランプの光に見えました。
「ねえ、和也。ここに、魔法のおまじない、書かない?」
「おまじない?」
「うん、最高の戒め。もし私が、和也以外の人を好きになるなんて悪い子になったら……えっとね、『和也は私を海につれていって、お魚さんのごはんにしてもいい』って!」
美咲はことりと首をかしげて、いたずらっぽく笑いました。その笑顔が、咲き始めの小さな花みたいで大好きで。僕は少し呆れながらも、彼女の無邪気な空想に付き合うことにしたのです。
「ばかだなぁ、縁起でもないこと言うなよ。美咲がそんなこと、するわけないじゃないか」
「いいの、いいの!そのくらい本気なんだよって、神様に誓うの。ほら、書いて?」
美咲にふわふわのボールペンを握らされて、僕は彼女が白い指で示した、証人欄のちいさな余白に、言われるがままの言葉を綴りました。
『もしも、妻の美咲が、愛の約束を破ることがあったなら、夫の和也は、美咲を静かな海へ還し、その身を美しいお魚たちの糧とすることを、ここに誓います』
「…書けたよ」
「うん!これで私も、悪い魔法にかかったりしないね!」
美咲は、心の底から嬉しそうに微笑みました。
「…もし約束を破ったら、ほんとうにお魚さんのごはん、だからな」
僕も冗談めかして、彼女のやわらかな頬をつつきました。
「だいじょうぶよ。破らなければ、ずっと和也のお姫様でいられるんでしょ?」
「…うん、そうだね」
あの時の私たちは、たしかに、物語の挿絵みたいに幸せでした。
◇
結婚して、わずか二日。
あの子は、大学時代の思い出の中の王子様、翔太くんと、きらきら光る街のホテルへ消えていきました。
結婚式の甘い喧騒が、嘘みたいに静まり返った部屋。テーブルには、美咲の好きなものばかり並べた手料理が、少しずつ、かなしい温度になっていくのを、僕はただ見つめていました。「大学のお友達と、久しぶりのお茶会なの。すぐに帰るから、いい子で待っててね」とキスをして出かけた美咲は、夜が更けても帰ってきません。
胸が、きゅう、と小さな音を立てて軋み始めたその時。美咲が充電したまま忘れていったスマートフォンの画面に、ふわり、と優しい光が灯りました。表示されたのは、翔太くんからのメッセージ。
『美咲、最高だった。ご主人より、俺のほうが気持ちよかったでしょ?』
息が、止まりました。
世界から、色が、音が、ぜんぶ消えてなくなりました。
悲しい、という気持ちより先に、どうして?という疑問符が、頭の中で壊れたオルゴールみたいに鳴り響くだけ。涙も出ないまま、僕は戸棚の奥から、婚姻届のコピーを取り出しました。そこには、インクの匂いも新しい文字で書かれた、あのふざけた「約束」が、静かに微笑んでいます。
ほんの数日前の、幸せだった自分が、なんて愚かで、滑稽な生き物だったのでしょう。
僕はパソコンの前に座りました。美咲のSNSのパスワードは、二人で決めた記念日。鍵を開けるのは、とても簡単でした。
彼女のページのいちばん上には、タキシード姿の僕と、ウェディングドレス姿の彼女が、世界でいちばん幸せそうに微笑む写真。
それを見た瞬間、心の奥で凍りついていた何かが、ぷつり、と音を立てて切れました。
洗面所の鏡に映った自分の顔は、ひどく疲れているのに、瞳だけが、見たこともないくらい静かに、澄みきっていました。
「…そっか。僕はもう、あの頃の僕じゃないんだ」
僕は、たしかにそう呟きました。約束は、ちゃんと守らなくちゃ、ね。
**【第一段階:水面に小石を投げる】**
まず、美咲のきらきらした世界(SNS)の鍵を、そっと開けました。
彼女のお友達、会社のひと、そして私たちの結婚を祝ってくれた優しい親戚たち。みんなが見ている、その澄んだ水面へ、僕は最初の言葉を、小さな小石のように、ぽちゃん、と落としました。
『妻の美咲は、結婚式の次の日に、思い出の中の王子様とホテルへお出かけしました』。
この一文から始めて、僕は集めた証拠——翔太くんとの甘いメッセージのスクリーンショット、ホテルの予約画面、彼女のスマートフォンから復元した、寄り添う二人の写真——を、一枚ずつ、丁寧に並べていきました。
波紋を広げるなら、彼女がいちばん心地よく泳いでいる、このデジタルの水面でなくては。
僕は、まるで詩を紡ぐみたいに、『#幸せのお裾分け』『#新しい生活』『#花嫁の秘密』なんて、可愛らしいハッシュタグを添えました。そして、お友達だけに開かれていたその世界を、誰でも覗けるようにしてあげたのです。同情と、好奇心と、ほんの少しの悪意が渦を巻いて、僕が投げた小さな小石は、あっという間に大きな波紋を描き始めました。
**【第二段階:お魚たちを呼ぶ】**
彼女の社会的生命を、きれいさっぱり食べてもらう。それが、現代のお魚さん。
波紋は数日で大きな波になり、当然、美咲の会社の岸辺にも届きました。会社の評判という綺麗な砂浜を汚してしまった、と。彼女はそこに居場所をなくし、自分から去っていくことになりました。お友達だったはずの人たちは、まるで驚いたお魚の群れみたいに、さあっと散っていきました。怒った彼女のご両親からは、もううちの子ではありません、と告げられました。彼女がこつこつと築き上げてきた、きらきら光る可愛いお城は、僕が集めたお魚さんたちによって、静かに、跡形もなく食べられていきました。
**【最終段階:美しいごはん】**
すべてを失った美咲が、僕の前に、泣きながらひざまずきました。
「和也、ごめんなさい…!マリッジブルーで、ちょっとだけ、昔に戻りたかっただけなの…!一度きりの間違いだから、お願い、消してちょうだい…!」
僕は静かに、冷めてしまったハーブティーを彼女の前に置きました。
「一度きり? 結婚式の前から、会っていたみたいだけど」
「そ、それは…!」
見苦しい言い訳に、僕は天使みたいに、にっこりと微笑みました。
「美咲。僕たちが書いた、あの『おまじない』、覚えてる?」
「あんなの、ただの冗談じゃない…!」
「僕は、本気だったんだよ。だから、約束通りにしただけ」
僕はリビングの隅に置かれた、真新しい大きな水槽を、そっと指さしました。結婚祝いに二人で選んだ、虹色の熱帯魚たちが、優雅にひらひらと泳いでいます。
「君の社会的な命は、もう、あのお魚さんたちが、みんな美味しく食べてくれたよ。君のお友達も、お仕事も、家族からの愛も、ぜんぶね」
美咲は、絶望に顔を歪め、言葉を失いました。
僕は、あの幸せな夜のように、優しく笑ってみせました。ただ、その笑顔に、もう心は宿っていませんでした。
おもむろに、左手の薬指から、お揃いの結婚指輪を外しました。そして、それを水槽の中へ、そっと、静かに落としました。プラチナの輪が、きらり、と最後の光を放ち、真っ白な砂の底へと沈んでいきます。
「君という存在は、僕の中で、完全に死んでしまったんだ。そして、僕たちの愛の亡骸は、このお魚さんたちの美しい思い出を彩る『ごはん』になる。…それが、君がたどり着いた場所だよ」
「わかったでしょう? 約束はね、破っちゃいけないんだ。…僕が、ちゃんと教えてあげたからね」
◇
美咲が去った後、がらん、とした部屋に一人きりになりました。
部屋には、まだリボンも解いていない引き出物や、買ったばかりの可愛い家具が、まるで持ち主を失ったみたいに佇んでいます。これから始まるはずだった、幸せな生活の抜け殻。
僕は棚に飾ってあった結婚式の写真立てを、静かに手に取りました。そこには、世界でいちばん幸せそうに笑っている、ほんの数日前の僕がいます。
復讐は、終わりました。でも、胸に満ちるのは達成感ではなく、ただ広くて、静かな、海の底みたいな虚しさだけでした。
水槽の中では、沈んだ指輪の周りを、熱帯魚たちが、何も知らずに、美しく泳ぎ続けています。
僕はその写真立てを、パタン、と伏せました。
「…これで、よかったんだよね」
誰にともなく問いかけた声は、しん、とした静寂に溶けて、消えていきました。窓の外には、残酷なくらい、きれいな青空が広がっていました。
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