第6話「天使の笑顔、血塗られたナイフ――「人でなし」に捧ぐ、残虐な終幕』
「信じていた恋人の『また、来るね』が、俺の人生が終わる合図だった。その純粋な瞳の奥に潜む、残虐非道な『人でなし』への静かなる復讐劇。日常に潜む狂気ほど、恐ろしいものはない
**『「また、来るね」――悪魔の約束、そして凍てつく復讐』**
俺の名前は健一。仕事に追われる日々で、俺の心は乾ききっていた。隣にいるのは、恋人のななみ。彼女は天使のように優しく、純粋だった。だが、それ故に俺の深い部分を満たすことはなかった。だから、たまに、こうして「刺激」を求める。自宅にデリバリーヘルスを呼ぶのだ。バレなければ、これは「浮気」ではない。俺の歪んだ倫理観は、いつも俺を正当化した。
今頃、ななみは友人との食事会で、無邪気に笑っている頃だろう。俺がこの部屋で、俗な欲望を満たしているとは、夢にも思わないはずだ。
まさに、快楽の頂点へ達しようとした、その時。
カチャリ。
玄関のドアが開錠される、あの忌まわしい音がした。嘘だろ? なんで…なんで今、ななみが帰ってくる?
脳髄を焼くような焦燥感に駆られる俺と、状況を理解できず凍りつくデリバリーヘルスの嬢。やがてリビングのドアが軋み、ゆっくりと開いた。そこに立っていたのは、紛れもない、ななみだった。
終わった。本能が警鐘を鳴らす。怒鳴られるか? 泣き喚かれるか? どちらにしても、俺の日常は崩壊する。
しかし、ななみは数秒、部屋の惨状――俺と、裸の女――を静かに見渡すと、ふわりと、まるで嘲笑うかのように、歪んだ花が綻ぶような、不気味な笑みを浮かべた。
「あら? お友達、いらっしゃってたのね」
その声は、澄んだ鈴の音色とは程遠く、氷のように冷たく響いた。
「ごめんね、ちょうどお邪魔しちゃったみたい。じゃあ…私、またあとで来るね」
困ったように僅かに眉を下げ、彼女はひらひらと手を振ると、音もなくドアを閉めて出て行った。嵐のような静寂。怒声も嗚咽もなかった。だが、その異常なまでの静けさが、俺の背筋を凍てつかせた。
…いや、待てよ? あのななみが、状況を誤解しているんじゃないのか? そうだ、きっとそうだ。俺の友人が来ていて、少し…はしゃぎすぎている、くらいにしか思っていないんだ。あの純粋すぎる、世間知らずななみなら、それも有り得る。
俺はまだベッドにいるデリバリーヘルスの嬢に向かって、虚勢を張った。「ほらな? 大丈夫だって言っただろ?」
すると彼女は、憐れむような、いや、恐怖におののくような目で俺を一瞥し、素早く服を身につけながら吐き捨てるように言った。
「……あんた、あの女に絶対、殺されるよ」
言うが早いか、彼女は文字通り逃げるように部屋を飛び出していった。まったく、縁起でもないことを言うものだ。あの女は、恐怖に歪んだ顔をしていた。
数日後。俺たちは、いつもの馴染みのイタリアンレストランで、向かい合って食事をしていた。
あの日の出来事を、ななみは一切口にしなかった。やはり、俺の読み通り、彼女は何も気づいていなかったのだ。俺は内心、ほっと胸をなでおろし、罪悪感など一片も感じることなく、最高級のコースを彼女に奢った。これは、俺という「人でなし」の、ただの気まぐれな「必要経費」だ。
「健一のおごり、美味しいね」と微笑むななみは、いつも通り無邪気で、天使のように可愛らしかった。俺は、そんな彼女の完璧な演技に、完全に油断しきっていた。
食事が終わり、ドルチェ(デザート)が運ばれてきたタイミングで、ななみが「ごめん、ちょっとお手洗い」と席を立った。
俺はスマホをいじりながら、彼女が戻ってくるのを気ままに待つ。
その時だった。彼女が、俺の席の真横を通り過ぎた、まさにその瞬間。
腹部に、激しく、熱い衝撃。
何かが、深く、肉を抉るように突き刺さる鈍い痛み。
「え……?」
声にならない声が、喉の奥から漏れた。咄嗟に視線を落とす。テーブルクロスの上に置かれていた純白のナプキンが、中心からじわりと、瞬く間に鮮血で真っ赤に染まっていく。腹の奥が、まるで溶けた鉄のように燃えるように熱い。
ゆっくりと顔を上げる。そこには、ななみが、ディナー用の重厚なステーキナイフを、まるで愛おしむかのように、しっかりと握りしめて立っていた。その鈍く光る切っ先は、紛れもなく、俺の腹に深く、深くめり込んでいる。彼女はそれを、まるで血を払うかのように、ゆっくりと、しかし力強く引き抜いた。その動作に、一切の躊躇はない。ナイフを軽く揺らし、血を滴らせる。そして、何事もなかったかのように、冷ややかに俺を見下ろしながら、歩き出した。
呆然と立ち尽くし、彼女の背中を見送る俺の耳に、彼女の、あまりにも小さな、しかし悪魔のように響く呟きが届いた。
「言ったでしょう? 『また、来るね』って」
ななみは、一度として振り返らない。その背中からは、一切の感情が剥ぎ取られていた。
取り残された俺の周りで、ようやく、遅れてきた悲鳴が、世界を揺るがした。
「きゃあああああ!」
「血が! お客様、血が!」「誰か! 救急車を呼んで!!」
遠のいていく意識の淵で、俺はようやく、全てを理解した。
ああ、そうか。そういうことだったのか。
『また来る』というのは、そういう意味だったのだ。
あの夜、俺の犯した罪を目撃した時から、彼女はずっと、この時を、この瞬間を、悪魔のように計算し、待ち続けていたのだ。
俺の、あの無邪気で、天使のような笑顔で。彼女の瞳に宿っていたのは、もはや天使の輝きではなかった。それは、底なしの闇と、絶対的な冷酷さだった。俺は、人間ではない、悪意そのものに、食い物にされたのだ。
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