だって俺たちトモダチじゃんか

柏望

再会

 駅前ロータリーに吹く風は熱を溜め込んだまま、アスファルトを撫でるだけで少しも涼しくない。信号待ちのタクシーの排気が肌に貼りつき、立っているだけでTシャツが背中に張り付く。

 その熱気の向こうで、俺は見覚えのある横顔を捕まえた。


 ずっと会いたかったぜ、大也だいや


「おう、久しぶり。せっかくの夏休みだし、肝試しでも行こうぜ」


 声をかけると、大也は細い肩をビクッと震わせ、ゆっくりと俺の方へ振り返った。


「……菱岡ひしおかくん? えっちょっと。いま何時」

「まだ日付は変わってねぇよ。塾終わりか? 受験生は大変だな」

 会話の途中で、大也の手首にかかる汗の粒が街灯に光る。こいつのこんな姿を見逃すほど俺は出来た人間じゃない。汗を吸った制服の袖をつかむと、思ったよりあっさりと引き寄せられた。


「ちょ、ちょっと! 僕、明日も」

「だからこそ息抜きだって。昔、夜に抜け出して花火に行ったの覚えてるだろ? 久々に青春しようぜ」


 半ば強引に連れて行くと決めたのは俺だが、目的地まで歩かせるのも芸がない。

 駅前コインパーキングに突っ込んである、知り合いから借りたボロ車へ押し込む。助手席のドアは内側の取っ手が折れていて、開閉は外からしかできない。大也が乗り込む瞬間、その事実は黙っておいた。


 キーを捻ると、エンジンと一緒にカーラジオが潰れたノイズを吐いた。


『──本日、熱帯夜となります。水分をこまめに──』


 喋る気のないアナウンサーの声を指でひねって黙らせる。エアコンは壊れている。窓を全開にしても、吹きこむのは温風と排気ガスだけ。ハンドルが熱で柔らかくなったみたいに指が沈み、掌に汗がにじむ。


「あの。僕たちの歳じゃ免許って取れないよね……」

「細けえことは気にすんな。警察が出る頃には、幽霊の方が先に出迎えてくれるって」


 シートベルトを引き出していた大也の指が止まる。大船の船に乗ったつもりでいろって。すぐ安心させてやるからよ。


 アクセルを踏み込むと、エンジンは抗議するように咳き込み、車体が震えた。大也の身体も同じリズムで小刻みに揺れる。ミラー越しに見える駅前の灯りが遠ざかり、住宅街を抜けるころには街灯がまばらになった。


「でさ、聞いた話だと今日行く廃ホテル、十年前に火事になったってさ。オーナーが逃げ遅れた客の数に耐えかねて、その跡地で首吊ったらしい」

「やめようよ、そういう趣味が悪いの」

「それが事実だから面白いんじゃん。……ってかさ、お前昔からビビりだったよな」


 助手席のシートがきしむ音が返事の代わりらしい。癖っ毛の前髪を無意識に指で捻る癖は中学のころと同じ。俺は笑いを噛み殺し、さらに話を続ける。


「幽霊が出るのも、ちょうど今くらいの季節なんだと。死んだ人間が焼け残った壁をさまようらしいぜ。燃え残った影みたいのがうじゃうじゃ出てくるらしい。マジで笑えるよな」

「……本気で行くの」

「当たり前。お前、夏の思い出ゼロで受験突入すんのか? 俺が補習授業してやるって」


 大也は窓の外に目をそらす。流れる家並みの硝子窓にはエアコンの冷気が白く浮かび、俺たちの車内との温度差を見せつけるように結露していた。


 山裾の旧ホテルは、国道から一本入っただけの場所にある。枝分かれの場所だって歩いていけるくらいなのに、車のヘッドライトを落とした瞬間、まるで別世界のような異様な空間に変わった。蝉の大合唱が途切れ、風のない暗闇が一気に肌へ張りつく。コンクリ壁に残る火災の煤が月明かりを呑み込んで、廃墟全体がひと塊りの影になっていた。


「うおー……雰囲気あるじゃん。最高だな」


 汗で背中に貼りつくTシャツを引きはがしながら俺が笑うと、大也は顔を引きつらせた。

「やめようよ、菱岡くん。ここ、立入禁止だし危ないって」

「じゃあ足元はお前に任せるわ。ライト持って、しっかり足もと照らせよ。俺は前でヤバいの蹴散らしてやるから」


 大也が照らす懐中電灯の光は頼りなく、コンクリの床に揺れる影の方が濃い。ライトが左右に泳ぐたび、割れた窓の枠や焼け落ちた手すりが一瞬だけ浮かび上がり、すぐ闇に沈んだ。


 内部は想像以上に蒸し暑い。かび臭い空気と埃が喉を刺し、息を吸うたび肺がざらつく。壁という壁はスプレーの落書きばかりで、天井には火災で剥がれた配線が黒いツタのようにダラリと垂れていた。


「昼間ならまだアートスポットって感じだろうが、やっぱ夜はヤベえな」


 冗談半分に呟いた瞬間、背後で甲高い悲鳴が弾けた。


 ──大也。


 振り向くと、ライトを取り落とした大也が、その場にへたり込んで震えている。床に転がった光源の外側、闇の中に人影──いや、真っ黒い『何か』が立っていた。

 考えるより先に体が動く。俺は足元に転がっていた鉄パイプを掴み、勢いのまま影めがけて振り抜いた。鈍い衝撃と同時に骨の軋む感触が手首に伝わる。さらにもう一撃、三撃目。

 そういえばおかしい。幽霊ならなんで手応えなんか──そう思った瞬間、影はぐにゃりと崩れ、床に転がった。


 転がるライトを拾い上げ、光を当てる。浮かび上がったのは黒ずんだ髭と絡まった髪、埃で灰色になったジャンパー。どこにでもいそうなホームレス風のおっさんがいた。頭部が不自然な角度で折れ、喉からは泡立った血が少しだけ滲んでいる。ピクリとも動かない。どうも死んでいるらしい。


「……ウソだろ」


 背後で大也が嗚咽を漏らし、俺の裾を掴んだ。

 思わず舌打ちが漏れた。脅かしてきたのは床に転がっているおっさんなのに、結果だけ見れば俺が加害者だ。


「ったく、胸糞悪ぃ。大也をビビらせた罰だっつーの。おい平気か。チビってないよな?」

 冗談めかして言ったものの、大也の震えは止まらない。吐き気を堪えているのがわかる。


 次の瞬間、建物の奥でコンクリ片が崩れ落ちるような乾いた音が響いた。反射的に構えたが、何も現れない。ただ、埃が舞い上がり、古いロビーに灰色の雪が降る。


 沈黙の中で、大也の荒い呼吸だけがやけに大きく聞こえた。


「……僕のせいで、人が死んだ」

「お前のせいじゃねえ。あいつが勝手に出てきたんだ」

「でも、止められなかった……」


 大也は拳を握りしめたまま、男の動かない胸を見下ろす。汗なのか涙なのか、細い滴が大也の顎を伝い落ちていく。


 ポケットをまさぐり始めた大也はこのまま警察を呼ぶだろうが、待っているのは事情聴取だ。俺の無免許運転もバレるし、何より大也は来年受験を控えている。──そんな未来はごめんだ。


「……考え直せ、大也。お前、大学行くんだろ」

「でも……死体を放っておくなんて……」


 半分泣き声の抗議を、俺は静かに遮った。


「だったら埋めちまえばいいじゃん」


 口にした瞬間、自分でも背筋がひやりとした。

 大也は、俺の顔色を確かめるように目を見開くだけで、否定も肯定もしなかった。床にこぼれたライトの光が、ホコリの粒をきらめかせながら揺れている。


「……冗談、だろ?」

「マジだよ。ここ山ん中だし、裏手は土手になってる。誰にも見つからねぇ」


 俺はポケットからハンカチを取り出し、男の血が跳ねた頬を乱暴に拭った。乾いた血が擦れて焦げ茶色の筋が残る。大也はその様子に吐き気をこらえるように唇を噛み、肩がさらに震えた。


「でも──」

「警察に通報したら、状況証拠的にお前が疑われるぜ? さっき大声で叫んでたし、一番近くにいたのもお前だろ」

「そんな……」

「埋めれば全部リセットだ。受験も将来も守れる」


 それ以上の反論は大也からはなかった。

 言いながら、自分でも『守る』という言葉に小さく笑ってしまう。この期に及んで正義を装う必要はないはずなのに、大也の動揺を一瞬で抑え込むには、それがいちばん効くと思った適当がここまで効くとは。


 ──ギシッ。


 視線を向けると、ロビー隅の非常扉が少し歪んで開いている。中は薄闇だが、ほこりを被った清掃用具が立てかけられているのが見えた。


「お。スコップあるじゃん」


 俺は足音を立てないように近づき、錆びた柄を掴んで引きずり出す。金属同士が擦れ合う不快な悲鳴が静けさを裂いた。続けて、古いホウキやら朽ちたモップやらに混ざって、もう一本、さっきより年季の入ったスコップが見つかった。 


「ほら、ちょうど二本。運命ってやつだな」


 死体を隠すと腹を括ったら、手を動かすのは早かった。

 俺たちはおっさんの死体を、ロビー脇になんでか転がっていた毛布でくるんで、ボロ車のトランクへ放り込む。おっさんの死体を運んだ大也がその辺で吐いている間に、裏手の物置から脚立もパクってきた。人気のない林道をさらに奥へ──車のライトを消すと、助手席にいる相手の顔すらわからないほど暗い場所へひたすら進む。


 到着した場所は、月明かりすら届かないほど鬱蒼と木が生えていた。俺のスマホライトと、大也の懐中電灯で地面を照らしながら、茂みの切れ目にちょうどいい空き地を見つけた。靴裏を沈めるたびに湿った土の匂いが立ち上る。いい感じにふかふかの土だった。


「ここなら、掘りやすいはずだ」


 俺が言うと、大也は小さく頷き、シャベルを胸の前で握り直した。


「……犬とかに掘り返されないくらい深くないとダメらしい」

「犬はいねえだろ。熊はいるかもだが、背丈より深いくらい掘りゃ十分だろ」


 蚊取り線香に火を点け、足元へ置く。ひと息だけ林の匂いが薄まり、すぐに土と汗と線香の煙が入り混じった。


 俺が最初にスコップを差し込むと、僅かに乾いた上層が砕け、その下の黒土が現れた。スコップを抜いて投げる。ぽとりと湿った音がした。二人で上層を砕いて、本格的な作業が始まる。


 ザク──

 ザク──


 四方から聞こえる虫の声の隙間に、俺たちの掘削音が交互に落ちる。三回、五回と繰り返すたびに土は冷たさを増し、膝あたりまで柔らかな呼気が漂った。


 想像より重い作業だ。掘る深さが増すほど、腕の筋が悲鳴を上げ、掌のマメが膨らんでいく。だが、大也の動きは止まらない。月明かりに濡れた頬を輝かせ、歯を食いしばって刃を振り下ろしている。こんなに必死な姿を見るのは初めてで、スコップを握る手にも力が入った。


「ちくしょう……ちくしょう……」


 泣きそうな顔のまま、スコップを突き立てるたびに細い肩が弾む。ライトを向けると、額から顎まで滝のように汗が滴っていた。穴を掘るのは俺より熱心だったが、体力の差は埋められない。


「おい、少し休め。スポドリあるぞ」


 大也が大きくよろけた辺りで、作業の分担を止めて、大也を地上に戻した。

 九十分ほどで、ようやく自分の背丈を超える穴ができた。ライトを落とし込むと、底の土が黒光りし、断面から水気がじわりと滲んでいる。これ以上掘っても、水を掻き出す作業が必要になりそうだ。


「ま、これで十分だろ」


 光量が落ちてきたスマホライトを胸元に伏せると、闇の中心に星空だけが浮かび上がる。思いがけず静かで、地面の中から見ているとは思えないほど、どっかの高台で見たときよりもひどく綺麗だった。朝までには大也を家へ帰す。そう思って背伸びをして、声を張り上げる。

「おーい、大也。もう埋められるぞ」


 穴の縁から顔を出した大也が眉をひそめながら、小声で返す。


「だから大きな声出すなって言ってるでしょ。ほら、死体を入れるから手伝って」

「はいはい」


 残った土を平らにして、地上に上がる。

 毛布に包んだおっさんの足首を大也が、俺が腕側を持ち、ふたりでゆっくり運ぶ。死後硬直の解けかけた肉の重さが掌にねっとり貼りつく。穴の縁へ来たところで、俺は冗談半分に軽く死体を揺らした。


「な……にすんだよ!」

「重いし、放れば一発だろ」

「音出すなって言ったでしょ! さっきも!」


 確かに、大也が怒ってしたいから手を離しただけで鈍い音が林に弾けた。穴はこの何倍も深い。無造作に投げたら、あの音が誰かの耳に届くかもしれない。


「わかったわかった。じゃあお前が頭側をそっと降ろせ。俺が下で受ける」


 俺が脚立を使って下へ降りると、大也は震える腕でおっさんを少しずつ滑らせる。闇に沈むおっさんの顔がどこからか入ってきた光を反射し、白濁した眼球がぬら、と光った。一瞬、喉が凍ったが、声は飲み込んだ。


 おっさんを寝かせて雑に土をかける。あとは脚立で上に上がるだけなのだが動けない。

 脚立がなくなっている。さっきまで縁に立てかけていたはずのものが影も形もなく、かわりにぽっかりと空の星が瞬いている。


「おい、大也。脚立は?」


 穴の向こう側から大也が見えた。ちょっとカッコ悪いけど手伝って貰おう。と思って、手を伸ばした瞬間、顔面に衝撃が走った。

 鼻の穴から洪水のように生暖かい水が吹き出してきて、折れた前歯を思わず飲み込んだ。視界の端に、真っ二つに割れたスコップの柄が刺さっていた。


「……だい、や……?」


 血にまみれた声が土壁に吸い込まれる。

 穴の向こう――夜の縁に立つ大也のシルエットは、星空を背負って動かない。


「もう……付き合いきれないよ……」


 なんだよ、俺たち共犯トモダチだろ?

 

 と叫ぼうとしたが、舌が血で貼りついて動かない。

 短い沈黙のあと、白い塊が弧を描いて落ちてきた。氷をたっぷり詰めたクーラーボックス。まともに顎へ当たって、折れた歯と氷水が一緒に喉へ雪崩れ込む。


 視界がちかちかと点滅し、星とスコップとクーラーボックスが回転しながら重なった。


「受験さえ終われば離れられると思ったのにさ……! なんでお前、また僕の前に来るんだよ!」


 大也の叫びが夜を裂く。怒号とも嗚咽ともつかない声──すぐ頭上で震えているのに、闇と土埃で表情は見えない。

 ザラッ。

 冷えた土が脛に当たる。続けざまに、拳ほどの塊が胸を打った。肺の奥まで砂が入り、咳と血が絡んで喉を焦がす。


「僕は悪くない……全部、お前のせいだ!」


 喉が裂けるような裏返った声。鬼ごっこで声がこんな風になるまで追いかけ回してやったときあったっけ。


 俺は伸ばした腕を土壁に突き立て、必死に身体を引き上げようとする。けれど、肩口に落ちた一撃で肘が折れ曲がり、土塊に埋もれた掌が空を切った。


 ドサ。

 さらに重い一揃いが腰を叩き、足が泥へ沈んでいく。視界の端で、星がふたつ、みっつ──穴口の縁に沿って瞬く。


「……だい……や……」


 掠れきった声が砂をかき混ぜるだけで届かない。


 ドサッ。

 今度は肩から頬へかけて土が降り、左目の光が塞がれた。残る右目で見上げると、大也の腕がシャベル替わりに土を抱え、次の一撃を構えている。


 ドサッ。

 土塊が顔面に直撃し、残っていた右目も闇に塗りつぶされる。肺へと入り込んだ湿った砂が喉の奥を塞ぎ、吸い込む息さえ土の匂いでざらつく。胸が上下するたび、外側の圧がじわじわと骨を締めつけ、体温を吸い取っていく。


 ゴッ、ザラッ。

 鼓膜が土の重みを測るように音を拾い、やがて何も聞こえなくなる。世界に残る感覚は、四方八方から押し寄せる冷えた圧力と、胸の奥で遅れがちに跳ねる鼓動だけ。


 ドサ。

 最後の一撃が口元を覆い、舌の先に湿った土の味が広がる。微かな月明かりも、星の瞬きも、すべてが閉じた。

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だって俺たちトモダチじゃんか 柏望 @motimotikasiwa

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