{絵梨奈}

廊下の闇が、わたしの全身を飲み込む。

足元から、ひんやりとした空気が、じっとりと肌に這い上がってくる。


ドス、ドス、ドス


素足が床を叩く音が、やけに大きく、湿った音で響く。心臓が、激しく、不規則に、耳の奥で、不快なほど大きく脈打っている。


その音が、全身の血管を震わせる。


ふと、闇の奥から、ギイ、ギイ、という軋み音が、わたしの耳を突き刺した。

それはまるで、古びた錆びついた扉が、ゆっくりと、不気味なほど粘ばり着きながら開閉するような音である。

しかし、この家には、そんな音を立てるような扉はない。

何かが異質だ。

恐怖が、わたしの内側を、一瞬にして、氷の膜で覆い尽くした。

軋み音は、ある程度の間隔を開けて、しつこく、闇の中から響いてくる。



ギイ、ギイ


その音は、まるで、何かが、微かな重さで、宙を揺らされているようだ。


何が、そこにいるのだろうか。


考える思考が、完全に停止する。

ただ、この耳に届く、不気味な音の源を、わたしの身体は、勝手に、猛烈な速度で追いかけていた。


ドスッ!ドスッ!ドスッ!ドタっ!


廊下を駆け抜ける足音が、さらに速くなる。床板が、わたしの体重を受け止めきれず、ミシミシと軋む音がする。

廊下の軋みが、どこからか聞こえる軋みと共鳴し、わたしの耳元で音を刻む。


心臓の鼓動が、頭蓋骨の内部で、激しく暴れ回る。

肺が、焼け付くように、内側から熱を帯び、酸素を求めてひくひくと痙攣する。

全身は、冷たい脂汗でべとついている。

軋み音が、さらに、容赦なく大きくなる。


ギイイイイッ、ギイイイイッ


その音のする方へと、闇の中に視線を凝らす。


何かの影がある。ぼんやりとそこに存在する、巨大で、歪んだ影だ。


その影が、ギイギイという音に合わせて、不気味に遅い速度で、不規則に揺れている。


何が、そこに揺れているのだろうか。


理解を拒むような、どこか既視感のあるその影の形に、わたしの脳は、激しい警鐘を鳴らし続ける。

思考回路が、完全に停止し、ただ、目の前の、この不穏な光景を、五感の全てで受け止めろと叫んでいる。


恐怖が、荒波のように、わたしの全身を支配する。一歩、また一歩と、その影に、半狂乱で近づいてゆく。

足元が、ぐにゃりと歪む。


床板が、足の裏から、まるで粘土のように形を変えるような錯覚がする。バランスを失い、体が、何度も大きく揺らぐ。視界が、ぐにゃりと歪み、目の前の闇が、螺旋状にねじれる。

それでも、何故か立ち止まることができない。


立ち止まれば、その影が、その軋み音が、わたしを、完全に飲み込んでしまう。そんな予感がわたしに付き纏う。


影は、天井から吊るされているように見えた。

その影が、ギイギイと音を立てながら、不気味なほど不規則に揺れている。

その揺れが、まるで、生きているかのように、不気味な律動を刻む。


一体何が、そこに吊るされているのだろうか。思考が、完全に停止したまま、わたしの目は、その影の正体を、無理やり探ろうとする。

息が、完全に止まった。


喉の奥が、乾ききって、ヒュッと乾いた音が鳴る。肺が、ひくひくと細い音を立てる。


その影の正体を、わたしの脳が、必死で拒否しているようだ。


認識することを、拒んでいる。



あと、数歩だ。たった数歩である。


その影のすぐそばまで、わたしの体は、何故か高速に重く進んでゆく。その間に、時間は、まるで無限に引き伸ばされたかのように、ゆっくりと、じっとりと流れてゆく。


一秒が、一分にも、一時間にも感じられる。


その瞬間。


雲の隙間から、冷たい月明かりが、一瞬だけ、狭い廊下の闇に、一条の線を引いた。その白々しく、無機質な光が、闇の中に不気味に揺れる影を、一瞬にして、はっきりと、容赦なく照らし出した。


そこに、あったのは――。




父だ。



父が、そこに、吊るされている。


わたしの全身が、一瞬にして、氷のように冷え切った。心臓が、大きく、ドクンッドクンっと、不規則に跳ね上がる。その鼓動は、もう、耳の奥で響くどころではない。わたしの頭蓋骨を、内側から激しく叩きつけるような、鈍い衝撃波となって、全身の細胞を揺さぶる。


目の前の光景が、信じられない。

脳が、その情報を処理することを、断固として拒否しているようだ。視界が、ぐにゃりと歪み、父の体が、まるでゴムのように伸び縮みして見える。

父の体が、ゆっくりと、ギイ、ギイ、という軋み音を立てながら、揺れている。その揺れは、まるで、生きているかのような、粘つく動きだ。

父の顔は、闇の中に深く沈み、その表情は読み取れない。ただ、その存在だけが、目の前で、不気味に、じっとりと揺れている。



「ァ……ぁあああ……」



喉の奥から、軋んだような、乾いた悲鳴が、わたしの意思とは関係なく漏れ出した。それは、声ではなかった。ただ、わたしの内側が、完全に砕け散り、その破片が、喉を突き破って外に出ようとしているような、ひどく不快な音であった。

足元が、再びぐにゃりと歪む。今度は床ではない。わたしが歪んだ。


足の裏から、重い鉛が流れ込むように、地面に縫い付けられる。その場で、わたしの体は、大きくバランスを崩し、ドスンっと、大きな音を立てて床に倒れ込んだ。全身に、鈍い痛みが走る。腕を、廊下の木材に強く打ち付けたのだろう。


ジクジクと、熱い痛みが、骨の髄まで染み渡る。頭も、床に激しく叩きつけられたようだ。ガンガンと、耳鳴りがする。それでも、その痛みは、父の姿を見た衝撃の前では、何の意味も持たない。


這いずり、這いずり、後ずさる。


板張りの冷たい感触が、わたしの指先に、生々しく、しつこく伝わる。壁に、背中が、ドンッと、激しい音を立ててぶつかった。もう、逃げ場がない。背後の壁が、わたしの全身を、冷たく押し付ける。

目の前に、父が、ギイ、ギイと音を立てて揺れている。その軋み音が、まるで、わたしの内側を、じっとりと、じわじわと削り取っているかのようだ。


父の顔は、まだ闇の中に沈んでいる。


それでも、その存在が、わたしを、じりじりと、容赦なく追い詰めてくる。父の体が揺れるたびに、空気が僅かに動く。


その空気の動きが、まるで、父の体が、わたしに、何かを語りかけているかのように感じられた。

呼吸が、さらに、さらに荒くなる。肺や胸の奥が、冷たいかたまりになったように締め付けられる。この恐怖の中で、わたしの意識は、遠のいてゆく。


視界が、ちらつき始める。闇と光が、激しく点滅する。


わたしは、ただ、床に倒れ込んだまま、震えることしかできない。全身の筋肉が、勝手に痙攣する。歯の根が、カチカチと音を立てて鳴り響く。恐怖の中で、わたしは、ただ、じっと、この瞬間が過ぎ去るのを待つしかないのだろうか。それとも、この闇の奥には、もっと恐ろしい何かが、わたしを待ち構えているのだろうか。

月明かりが、再び、完全に雲に隠れた。闇が再び、父の姿を完全に深く覆い隠す。ギイ、ギイという軋み音だけが、闇の中から、しつこく、不気味に、永遠に響き渡っていた。


その音は、まるで、この家や、わたしの世界の、終わりを告げる音のようだった。

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