{和夫}

リビングの空気が、張り裂けそうだ。絵梨奈が、目の前に立っている。その顔は、わたしから見ても、感情の読めない、硬い表情をしている。娘の口元が、僅かに引き結ばれているのが見える。わたしは、ソファに深く沈み込み、テーブルの上の空になった缶ビールをじっと見つめていた。もう、何本目になるのか、数える気力もない。

突然、絵梨奈が、手に持っていたスーパーの袋を、ガサリと大きな音を立てて床に置いた。その音に、わたしの肩が、びくりと跳ねる。袋の中に入っていたペットボトルが、ゴトリと音を立てた。その音が、何故か、心臓に直接響いてくる。


「ねえ、いつまでそうしてるつもり?」


絵梨奈の声が、低く、わたしの耳に突き刺さる。声は、感情を押し殺したように、いやに冷たい。


わたしは、何も言わない。


返すべき言葉が見つからない。


言ったところで、何かが変わるわけでもない。

絵梨奈の足音が、わたしの周りを、取り囲むように回っている。その足音が、わたしの内側を抉るように、じくじくと響く。わたしは、ただ、頭を垂れて、視線を足元に固定する。


「わたしだって、毎日、買い物して、ご飯作って、お金のことだって考えてるのに」


絵梨奈の声が、少しだけ高くなった。その声に、僅かな苛立ちが混ざっているのが分かる。しかし、わたしには、その苛立ちを受け止める余地がない。わたしの内側は、もう、空白同然なのだ。

突然、テーブルの上の空き缶が、ガシャンと大きな音を立てた。絵梨奈が、それを蹴飛ばしたのだ。缶が、床を転がり、壁にぶつかり、カンカンと甲高い音を立てた。わたしの耳には、彼女が起てた音が雷鳴のように響く。心臓が、大きく跳ねる。


「なんとかしようと、少しは思わないの?」



絵梨奈の声が、さらに高くなる。その声は、悲鳴のように、わたしの内側を突き破ろうとする。だが、わたしには、その声に応えることができない。どうすればよいのか。何をすればよいのか。もう、わたしには、何一つ、分からないのだ。


絵梨奈の足音が、わたしの目の前で、ピタリと止まった。その気配が、わたしの全身を覆う。顔を上げることができない。上げれば、絵梨奈の、冷たい視線とぶつかるだろう。それが、怖い。

「パパ…」

絵梨奈の声が、震えている。その声に、初めて、感情が混じった。それは、悲しみなのか。怒りなのか。失望なのか。わたしには、区別がつかない。ただ、その響きが、わたしの胸の奥を、ひどく締め付ける。

わたしは、震える手で、ばっともう一本、缶ビールを掴んだ。プルタブを引く音が、カシュッと、やけに大きく響く。わたしが起てた音に絵梨奈の体が、びくりと反応したのが分かった。


「まだ飲むの!?」


絵梨奈の声が、金切り声のように、わたしの耳に突き刺さり、わたしの内側の、何かを叩き起こした。顔を上げると、絵梨奈の顔が、わたしの目の前に迫っている。その表情が、怒りや失望に歪んでいるのがはっきりと見えた。


「うるさい!」


わたしの口から、荒々しい声が飛び出した。自分でも驚くほどの、低い、濁った声だった。絵梨奈の顔が、さらに強張る。

「お前に、俺の何が分かる!」

わたしは、掴んだ缶ビールを、テーブルに、ドンと音を立てて置いた。缶が、ガタンと揺れる。まるで、わたしの内側の怒りが、外に爆発した音のようだ。


「毎日、毎日、こんな生活で、まともでいられるとでも思ってるのか!」


わたしの声が、リビングに響き渡る。自分でも制御できないほどの、荒々しい感情が、内側から噴き出している。絵梨奈は、その場で、一歩も動かない。ただ、その表情が、みるみるうちに凍り付いてゆく。


「何が、わたしがやってる、だ。お前が、何をしたっていうんだ! この家は、もう、終わりなんだよ!」


わたしは、ソファから、大きく立ち上がった。その勢いで、ソファが、ガタッと音を立て、絵梨奈の体が、微かに震える。その怯えが、わたしをさらに、冷酷にさせてゆく。



「お前は、この家から逃げたいだけだろ! 勝手にしろ!」

わたしは、そう言うと、絵梨奈に背を向けた。もう、絵梨奈の顔を見る必要はない。その存在が、わたしの心を、さらに苦しめるだけだ。

リビングから、一歩、また一歩と離れてゆく。地面を強く踏みつけるたびに、ドスドスと言う音が響く。絵梨奈は、まだ、そこに立ち尽くしている。その気配が、わたしの背中に突き刺さるが構わずに、部屋のドアを、バタンと、大きな音を立て閉めた。ドアが閉まる音は、まるで、わたしたちの関係が、完全に断ち切られた音のようだった。



部屋の壁に、背中を預ける。心臓が、まだ激しく脈打っている。息が苦しい。全身が、熱い鉄で焼かれているかのようだ。

この部屋の中で、わたしは、ただ、じっと立っている。外は、もう完全に暗くなっている。窓の外は、何も見えない。この家も、もう、光が失われた深い闇の中にいる。

わたしは、何をしてしまったのだろう。一番近くにいるはずの絵梨奈を、あんなにも傷つけてしまった。その事実が、わたしの心を、じわじわと蝕む。けれど、後悔は、もう、どうしようもない。

この孤独は、どこまで深まるのだろう。この闇は、どこまで広がって行くのだろう。わたしには、分からない。ただ、この冷たい空気が、わたしの全身を包み込み、呼吸をすることも苦しい。

わたしは、この部屋で、これからどうすれば良いのだろう。絵梨奈と、もう、何も話すことはできないのだろうか。その問いが、わたしの頭の中で、何度も繰り返される。答えは、どこにもないのかもしれない。

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