エピソード2
{絵梨奈}
わたしは急に不安になり、リビングに通じる壁に、耳をつけてみた。
かさりとも、音がしない。
やはり静寂が支配し、二人共が、口を開かない。
しかし、張りつめた空気だけはピリピリと伝ってくる。
どんな内容でも会話をして欲しい。
和解をして欲しい。
この張りつめた空気の中で生活をするのはもう限界だ。
数週間が、永遠のように感じられていた。
突然、父が低い声で何かを言う。
その声は、わたしの耳には届かないほど小さかったが、その響きには、明らかに苛立ちが込められていた。
やはり、すぐに和解には至らないかもしれない。
母の体が、微かに震えているのが、想像出来る。
母はふるえ、父の怒りが伝染したのが手に取るようにわかる。
暫く経つと、母も、父に向けて、低い声で何かを返した。
感情を押し殺したような、硬苦しい声である。二人の声を聞いただけで、体が重くなった。
二人は喧嘩を始めそうだ。
自分でも、どんなものでも両親の会話を望んでいたはずなのに、なぜ、いざ始まると変わるのだろう。わたしの言動に責任の持てない性格が、友人ができない理由なのだろうか、わ
友人関係にまで考えが及び、息苦しくなる。
そこから、二人の声が、少しずつ大きくなってゆく。
言葉の応酬は、会話というよりも、互いの感情をぶつけ合う、鈍い音の衝突になっている。
内容は、わたしには分からない。
いや、聞きたくなかった。聞けば、まだこの家を覆うかもしれない薄い膜のような脆い平穏が、完全に破れてしまうような気がした。
父の声が、さらに高くなる。その声には、怒りにも似た、荒々しい響きが混ざっている。
母は、それに対して、震える声で何かを訴えている。
キッチンのカウンターに置かれた皿が、ガタッと音を立てた。
何かが、ぶつかったのだろうか。その音に、わたしの心臓が飛び跳ねる。
わたしは、ただ、壁に近い椅子に座ったまま、身動きが取れない。
反対側にゆけは、会話は聞こえなくなるかもしれない。
だが、体はビクとも動かない。
この状況から逃げ出したい。しかし、どこにも逃げ場がない。
この家の中で、わたしは、ただ、この感情の嵐が過ぎ去るのを待つしかないのだ。
母の声が、突然、途切れた。そして、聞こえてきたのは、重い足音だ。階段を上ってゆく音のようだ。
その音は、まるで、わたしの心臓を直接踏みつけているかのように、鈍く響く。
父は、リビングで、まだ何かを呟いているようだったけれど、その声は、すぐに聞こえなくなった。
しばらくして、二階から、スーツケースの車輪が床を転がる音が聞こえてくる。
ゴロゴロと、乾いた音だ。その音を聞いた瞬間、わたしの全身に、冷たいものが走った。何かが、決定的に変わろうとしている。その唯ならぬ予感が、わたしの胸を締め付ける。
母が、スーツケースを引いて、リビングに降りてきた。ドアを僅かに空け、母の顔を覗く。
何の感情も読み取れない。
完全に無表情だ。ただ、口元が、僅かに引き結ばれているのが見えた。笑っているのだろうか。満足気に。これで逃れられるとでも言うようだ。
父は、母の姿を見ても、何も言わない。
ただ、じっと、その場に立ち尽くしている。
母は、わたしの部屋の方に視線を向けた。
わたしが見つかっているのか居ないのかは分からないが、視線は、わたしを通り過ぎて、遠くを見ているようだ。
目には、何の感情も宿っていない。
見つけていないのかもしれないが、わたしという存在がいないかのように感じられた。
瞬く間に、玄関のドアが開く音がした。母が、スーツケースを引いて、外に出てゆく。
ドアが、音を立ててバタンと閉められた。
その音は、この家の、何かが終わりを告げる、重い響きを持っている。
気づけばわたしも、リビングに立っていた。いつ出たのか、なぜ出たのかも覚えていない。
ただ、リビングには、父とわたしだけが残された。父は、まだ、その場に立ち尽くしている。その背中は、以前よりも、ずっと小さく見えた。
わたしは、立ち尽くしたまま動く事が出来ない。この沈黙が、あまりにも重い。
外はもう、深夜の色だ。
窓の外は、何も見えない。
この家の中も、まるで、光が失われたかのように、薄暗く感じる。母がいた場所には、もう誰もいない。
父がどさりとがさつにソファに座り直した。
手は、膝の上で、ぎゅっと握りしめられている。
指の関節が、白くなっているのが見えた。
父の顔は、伏せられていて、表情は分からない。
わたしは、ただ、じっと立っていた。
この状況が、現実だと、まだ信じられない。つい先程まで、この家にいたはずの母が、もういない。わたしの心が、じわじわと蝕ばまれてゆくのが分かる。
この家は、もう、以前の家ではない。あの穏やかな空気は、完全に失われた。残されたのは、父とわたしの間に漂う、重苦しい沈黙と、母の不在が作り出す、大きな穴だけだ。
夜が深まってゆく。この静寂の中で、わたしの心は、どこにも行き場のない感情で満たされている。悲しい、という感情とは少し違う。ただ、この状況が、ひどく不快で、どうしようもなく、わたしの心を締め付けている。
わたしは、リビングを飛び出した。いつの間にか動けたが、そんなことに気を向ける余裕はない。
この陰翳は、いつになったら晴れるのだろうか。
この空虚感は、いつになったら埋まるのだろう。わたしには、分からない。ただ、この冷たい空気が、わたしの全身を包み込み、呼吸をするのも苦しい。
わたしは、この家で、これからどうすればよいのだろう。父と二人で、この静寂の中で、どう生きていけばよいのだろう。その問いが、わたしの頭の中で、何度も繰り返される。けれど答えは、どこにもない。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます