第4章: 昼下がりのことだった。
薄い日差しが日本語学校「オウメイ」の2階の窓ガラスを斜めに照らし、開いたままのセナのノートの上に淡い光の筋を落としていた。
時間さえも、その光の中で静かに流れているようだった。
空気中には、まだ少しだけチョークの粉が漂い、ゆっくりと舞っている。まるで形になりきれない思考の断片のように。
紙とインクの匂い、それに誰かが開けたスナックの香りが、窓の隙間から入る風と混ざり合い、日常の授業の匂いをつくり出していた。
教室の中では、ノートをめくる音、シャーペンのクリック音がかすかに響いていた。セナは静かにノートを取りながら、左手でノートを押さえ、右手で丁寧に漢字を書き込んでいる。しかし、彼女の心は授業の内容とは別の場所にあった。
机の端に貼られた「来週単語テスト」と書かれたメモは、風に揺られて少し端がめくれていた。セナは小さくため息をつき、ぼんやりと東京の空を見つめた。空はゆっくりと動いていたが、誰も待ってはくれない。
授業が終わるとともに、教室にざわめきが戻ってきた。テルはバッグの中をゴソゴソ探っていて、次のスナックを取り出そうとしている。リンは大きくあくびをしながらスマホを手放さない。セナは頬杖をついたまま、ふと、あの日の缶コーヒーを思い出していた──
「ねぇセナ、コンビニ行かない? このあと漢字勉強だから、甘いのないとムリ〜!」
テルの声が突然、セナを現実に引き戻す。顔を上げると、彼女の無邪気な瞳が期待に満ちていた。
「あ、そうだね。行こうか。最近セナ、ずっとぼーっとしてない? またイケメン日本人の夢でも見てたんじゃないの〜?」
リンが茶々を入れ、意味深な笑みを浮かべる。セナは少し驚いてから、苦笑いを浮かべた。
「違うよ……ちょっと疲れてるだけ。」
「ふ〜ん、疲れっていうかさ……誰かにドキッとさせられたんじゃないの〜?」
「テル! 変なこと言わないでよ!」
「あはは〜セナ顔真っ赤〜!」
セナは耳まで赤くなり、慌ててノートをめくったが、二人は楽しそうに笑いながら彼女の腕を引いて立ち上がらせた。
夕方の光が石の階段にそっと触れる頃、三人の少女は校舎を出た。教室に残っていた暖かさをそのまま冬のひんやりした空気の中へ運び出すように。
西日に濡れた道路が光を反射し、まるで空間全体が柔らかくなったようだった。
冬の風が、葉を落とした木々の間を通り抜け、セナは思わずコートの襟を引き上げた。
彼女たちは中目黒駅裏の細い通りを歩いていた。そこではラーメン屋の明かりが灯り始め、濡れたタイルにきらめいていた。テルは新しく読んだ漫画の話を止まることなく話し、リンは時々相づちを打つ。セナは少し後ろを歩きながら、その静かな時間の中に身を任せていた。
こんな何気ない時間が、もっと長く続けばいいのに──そう思っていた。
この穏やかさが壊れやすいものだと、どこかで分かっていたから。
三人がいつものコンビニに入ると、ドアベルが鳴り、冷たい風が足元に吹き込んできた。
店内の様子は前と変わっていなかった。だからこそ、あの時の記憶がより鮮明に蘇ってくる。
まるで記憶をなぞっているように。ただひとつ違うのは──もう誰も、飲み物コーナーで「どっちが甘いですか」と尋ねてこないこと。
「セナ〜早く選んでよ〜。手が凍る〜!」
「う、うん、今行く。」
セナはミルクコーヒーに手を伸ばしかけて、やっぱり慣れ親しんだミルクティーを手に取った。
あの日のように心臓は高鳴らない。けれど、胸の奥に何かが残っていた。
「……ただの習慣だよ。」
そう自分に言い聞かせて、モチを一つ取り、友達とレジへ向かった。
帰り道はより静かだった。
街灯が柔らかい黄金色の光を歩道に落とし、セナの足元でカサカサと枯れ葉が音を立てる。
手にはコンビニの紙袋。歩くたびにふわりと揺れる。
風の止んだ道の先に、いつものコンビニの暖かい光が小さく見え始める。まるで一日の終わりを静かに告げる、やさしい感嘆符のように。
セナは足を止め、目の前の明かりを見つめた。心の中で、何かが静かに沈んでいく感覚があった。
ガラスの前で立ち止まり、いつものように中をのぞき込む。
変わらない店員、通りすがりの客、そして変わらない赤と青の缶コーヒーたち。
だけど今日は──なぜか、数日前の自分があそこに立っている気がした。
「こっちが甘いと思います」と指を差し、少しだけ震える心。
セナは冷たいガラスに額を預け、まぶたをそっと閉じた。
それは後悔でも、期待でもなかった。ただ、東京のどこかで「自分が誰かに見つけられた」と感じた一瞬を、心のどこかでまだ手放したくなかっただけ。
「いつかまた会えたら……今度は、返事だけじゃ終わらせない。」
遠くの通りから、ほんのりと木の煙の匂いが風に乗って届く。
一台の自転車が通り過ぎ、冷たいタイルに光の跡を残していった。
セナはゆっくりと歩き出す。その足取りはまるで、消えそうな記憶を一歩ずつつなぎとめようとするかのようだった。
静かな夜の街に、あのコンビニの灯りは今も変わらず灯っている。
誰かのためではなく──まだ消えきらない、ひとつの記憶のために。
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