呪い師 鏡凛燐さん(のろいし かがみりんりんさん)

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呪い師 鏡凛燐さん(のろいし かがみりんりんさん)

 公園の植え込みのそばの木陰で、占い師が言った。

「アナタには、不幸な血が流れておるのです」占い師は段ボールの家の前でぼくに言った。

「不幸なる遺伝子とでも言いましょうか、そういった良からぬもの、血筋、が、アナタを構成している」

 占い師はぼくの頭の上のあたりに呆けた眼を向けて言った。

「故にアナタは日々、苦しんでいる。苦しんでいる。苦しみ続けている。アナタの心の内から湧き出る根源的な苦しみに苛まれている。そうでしょう?」

 占い師は抑揚のない声で言葉を継ぐ。樹上で蝉が鳴き始めた。

「しかしね、その、アナタのその苦しみたる苦しみは、すべて、その、遺伝子の所為なのです。不幸なる遺伝子の所為なのです。遺伝子と魂の結びつき、強い結びつきが、あなたを苦しみの元に縛り付けている」

「みーんみんみんみーん……。みーんみんみん……あ、ァ、アーッ。アーッ! アーッ」蝉が鳴いている。「アーッ! ア、ア、アアーッ」

 占い師は頭上の樹を見上げた。「ほ、ほ、ほぅ。セミが、ほぅ。セミさんセミさん、ほぅ、ほぅ、ほぅ」

「アーッ! アーッ! アーッ!」

 陽炎が揺れている。汗がじっとりと滲む。蝉が鳴いている。占い師は樹の枝葉をじっと見つめている。

「ワタクシ共は」

 ぽつりと占い師が言った。

「ワタクシ共は、そういった不幸なる遺伝子を改変し、魂を幸福せしめ、幸福なる、幸福な魂に昇華することができるのです。アナタが抱える根本的な苦しみを取り除くことができるのです」

 占い師は真上を見上げたまま、袖の内から小さな紙切れを取り出した。ぼくは受け取った。

 家電量販店か何かの広告の裏に、掠れたマジックの文字。

〈〇〇〇―〇〇〇〇 〇県〇市〇町〇―〇〇 〇ビル〇階 鏡 凛燐〉

「ワタクシ共、は、アナタの苦しみを、人生における苦しみを取り除くために存在しているのです。ワタクシ共は、アナタの幸福を願っているのです」

 占い師はそれきり口を開かず、頭上を見上げたまま動かなくなった。


 ぼくの家には三十二匹の動物がいて、ぼくが帰ると玄関まで迎えに来る。

 はは。

 廊下に並んでいる、動物たち、我先にとぼくの愛情を受けようと、我先にと並んでいる、ぼくの動物たち。犬、猫、カメレオン、鷹、鼠、蜥蜴、肺、鰯、蛸、蚊……。

 先頭に立っているチワワが、言った。「せーの」

「ワタシたちは、憂(ゆう/うれい)様に虐待されるために生きています。ワタシたちは、動物虐待されるために生きています」

 動物たちが一斉に言った。

「ごめん、今日は、そういう気分ではないんだ」ぼくは居並ぶ動物たちの脇を抜けて、居間に戻ると、服を脱ぎ捨て、裸になって、寝室に入った。

 動物たちがこそこそと話し合っているのが聞こえる。

「ゆう様は今日も、虐待してくれないのか」

「もう一週間も虐待を受けていない」

「お、オイラ、おかしくなってしまうよ。痛みがないと、おかしくなってしまう」

「しょうがないだろ、うれい様は、いま鬱なのだから」

「躁の時期になれば、また虐待してくれるよ」

 おえぇ、おえぇ、おえぇ。ぼくはオナニーする。おえぇ、おえぇ、おえぇ。

 おかしいと思わないのか? 自分たちがほかの動物たちとは違うということに気づかないのか? 虐待を受けて喜ぶということがどれほど狂っていることなのか、分かっていないのか。

 ふわ、ふわ、ふわ、もこもこもこ。

 くろいけむりがやってくる。

 くらいけむりがやってくる。

 ふかいふかいアタマのそこから

 くろいけむりがやってくる。

 くろいけむりはアタマになって

 アタマのなかをかきまぜて

 くろ

 くろ

 くろ

 まっくろ。


 大学の講義室は半分ほどが空席で、出席している学生も半分が寝ている。もう半分はスマホを触っている。

「ここのエックスをワイするとセックスになるので、ああ(笑)間違えた(笑)」

 教授は眼鏡から粘液を滴らせて授業を進める。メガネの黒縁の上には黒い小さな蛸がへばり着いて、教授の眼球を監視している。

「せんせーえ、誰も先生の授業聞いてないので、もう休憩時間でよくないですかぁ?」

 金髪の女子学生が言った。

「いや、そうは言っても、これはカリキュラムで決まっている授業だし、君らが聞かないのは勝手だけれども、君らが学費を払って私が授業をするという契約は交わしているわけだし、その、あの……あふ、ちょっと、きみ、かわいいね」

「きゃあ、先生、それセクハラ」

 金髪の女子学生はまんざらでもなさそうな表情で言った。

「もしかして先生、わたしの貌に見とれてる?」

「いや、そんなこと、ダメダメだめだよ。君は生徒だし私は教師なんだ。いやその、だめだ」

 おえぇ、おえぇ、おえぇ、ぼくは周りの人にばれないようにズボンに手を突っ込んだ。おえぇ、おえぇ、おえぇ。

 またここでも狂っている。性欲に狂っている教授と女子学生は熱っぽく見つめあっている。

 おえぇ。おえぇ。おえぇ。

「まったく、しょうがないな、徹底指導、し、指導(笑)してやらんとな(笑)」

「マジキモすぎーwww」


 バイトを終えてアパートに戻ると、二十三時を回っていた。

「うれい様、今日も虐待はなしですか」

「なしだよ」

「ゆう様、いつ、虐待をしてくれますか」

「ごめんまだ分からない。今日はできない。ごめん」

 居間で脱衣し、寝室の布団に潜り込む。

 オナニーする。

 開け放した窓から虫の鳴き声が聞こえる。

「りーりーりーりー……。りーりーりー……ぐ、ぐぁ、ガー、ガ、ガ、ガ、ガ」

 飛行機が「があぁぁぁん……」と音を立て、はるか上空を通り過ぎていく。

 オナニーする。

 すべてが憂鬱だ。

 すべてが憂鬱で仕方ない。苦しい。常に、いつも、どこか苦しい。心のどこかが、必ず苦しい。

 何もかも狂っているせいで。ぼくを含めたこの世界の何もかもが狂っているせいで。

 動物は壊れているし、人間は性欲に塗れている。草木は少しずつ腐っていき、海は汚れていく。

 何もかも狂っている。そして何もかもが苦しい。

 苦しい苦しい苦しい苦しい。オナニーする。

 オナニーする。

 オナニーする。

 苦しいっ!

 射精の瞬間、占い師にもらった紙切れを思い出す。


 駅前の雑居ビルだった。ぎぃぎぃと軋みながら動くエレベーターを降りて、廊下を歩いた。

 廊下を挟んだ両側の部屋はどれも空き部屋で、突き当りの部屋だけ、灯りがついている。

〈鏡 凛燐〉

 ドアの横のプレートに書いてあった。磨りガラスで中は見えない。

「おぅい、おぬし、おぬし」

 足元のカーペットの上を、小さな蜘蛛が這っている。

「なしてそこへ行く? なしてそん部屋へ入る?」蜘蛛は一本も脚がなく、腹をぐねぐね動かすことで辛うじて進んでいる。

「そんな、おぞましい。我々には到底おぞましい所へ、なして入ろうとする?」

 ぼくが答えないのを見て、蜘蛛は溜息を吐いた。腹の側線に開いた眼が、ぼくを見つめている。

「そんなに生きるのがつらいかね。そんなに生きるのがつらいかね。ここに来る人間たちはみんなつらそうな顔をしているんだよ。お前もそうなんだな」

 蜘蛛はもぞもぞと蠢き、カーペットの下へ潜り込んでいった。

 ぼくは取っ手を握り、ドアを押し開いた。

 人が立っていた。

 赤い三角帽を被り、紅白の縞模様の上下を着て、靴は光沢のある木靴。右手に看板を掲げている。

〈お待ちくださいネ〉

 三角帽の男は呼吸も瞬きもせず、じっと立っている。

 男の後ろにドアがあって、その向こうは暗くなっている。

 くぐもった声が聞こえる。女の声が聞こえる。

 しばらくすると、ドアが開き、中から中年の女が二人出てきた。一人は泣いていて、もう一人は泣いている女の体を支えている。

「およょ、およょ、ほんとうに、本当に来てよかった。奥さん、ありがとうね、本当に来てよかった。こんなに、こんなにすっきりするなんて、こんなに心が晴れやかになるなんて、思ってもみなかった。奥さん」泣いている女が言った。

「そうでしょ、そうでしょ。先生は本当にすごいお方なのよ、奥さん」

「奥さん、本当にありがとう、奥さん。愛してるわ」

「私もよ、奥さん」

「はむ」

「はむ」

 女たちは接吻に夢中になって、ぼくの横を通り過ぎ、部屋を出て行った。

「奥さん」

「奥さん」

「はむ」

「はむ」

 あぁ。

 こんなところにも。

 こんなところにも、生々しい性欲の痕跡が。

 こんなところにも、ある。

 お、お、おえぇ、え。

「お客様、どうぞ、お待たせいたしました」

 ぼくがオナニーしそうになっていると、部屋の奥から声が聞こえた。

 若い女の声だった。

「お待たせいたしました」

 ぼくは真っ暗な部屋に入り、後ろ手にドアを閉めた。

 カーテンは閉め切られ、わずかな隙間から日の光が差し込んでいる。部屋の中央には丸い机と二脚の椅子。そのうちの一つに髪の長い女が座っている。

「ヨウコソ」「オコシクダサイマシタ」カーテンが喋った。よく見ると蝙蝠だった。大きな蝙蝠が二匹、窓に張り付いている。

「ようこそお越しくださいました」女が言った。透き通った声色だった。伏せていた目を上げる。色素の薄い瞳孔が、窓から差すわずかな光を吸収している。白い肌が薄暗がりに浮き上がっている。

「お座りください」

 ぼくが椅子に腰かけると、女はまた目を伏せた。

「わたくし、呪い師(まじないし/のろいし)をしております、鏡 凛燐(りんりん/りん)と申します」

 女は淡々と言った。

 ぼくは、女が次の言葉を発するのを待った。

「わたくしは、あなた様のような、人生に苦しまれている方が幸福になるためのお手伝いをさせていただいているのです」

 次の言葉を待つ。

「あなた様は、どのような苦しみを抱いていらっしゃるのでしょうか」

「ないです」

「ない、ですか」

「ないです。苦しみなど、何もない。何もないです」

「そう、ですか」女は無表情だが、困惑しているようだ。

「何にもないです。苦しいことなど何もない。あ、あなたたちは、何をしているのか、何を、目的としてるのか分からないですけど、少なくとも、あなたたちに解決できるような、苦しみなんて、何もない。あなたたちが解決できる程度の、苦しみなんて、ない、です」

「そう、ですか」女は無表情だが、困惑しているはずだ。

 あぁ。

 脳味噌の中で蠢いている。

 声を発した。

 あぁ。

 赤子の声を発した。ぼくの脳内で。

 あぁ。

 あぁ。

 あああぁぁ。

 発露した。怒りの赤子が発露した。

 あぁ。

 素朴な怒りが、素朴な怒りがぼくの頭の中を這いまわり、脳漿を漂っている。

 あぁ。

 結局、ここも、狂っている。

 ぼくは女の白い顔を見ながら思った。

 こんな所にも、狂っている人間が、いる。

 こんな所にまで、わざわざ探さないとたどり着けないような、こんな辺鄙な所にまで、狂った奴らがいる。

 アー、絶望だぁ。何もかも狂って、絶望だぁ。

 もうどうしていいか分からない。もし変な狂った奴だったなら殺してやろうと思って持ってきた果物ナイフも、使う気にもならない。もし変な狂った奴だったなら死んでやろうと思って持ってきた睡眠薬も覚醒剤も、使う気にもならない。もうどうしようもないのだ。結局、どこもかしこもオカシくなっていて、ぼくも、何をしたらいいのか分からなくなって、おかしくなって、なにもできずに、死んだのか生きているのかワカラナイ分からない分からない分からない。

 コワイ!

 死んでいる? もしかして死んでいる!?

 コワイ! 自分がコワイ!

 死んでいるかもしれない! 死んでいるかもしれない!

 コワイ!「コワイ!」コワイ!

 コワイ!!

「いいえあなた様は死んでいません」

 女が、鏡が言った。先ほどまでの透き通った声とは全く異なる声音。真っ赤なペンキで塗りつぶすような声。目を伏せ、情緒を欠いた貌。

「あなたは死んでいるのではありません。殺されているのです」

「殺されている!? ぼくが? だれ、だれだれだれに」

「あなたに害をなす全ての存在にです。あなたの周りに存在するすべての害悪に、あなたは殺されています。常に殺されているのです」

「えっ、それって、それってそれってもしかして」

「そうです」

「あの大学の、金髪の女とメガネの教師が? あの性欲人間たちが? それとも店長が? 万引きした小学生を強姦するあの性欲人間が? それとも、それとも、ぼくの動物たちが?」

「全てです。その全てがあなたを害し、殺しています」

「嘘だ」

「本当のことです」女の声は次第に大きくなる。

「あなたは殺されています。あなたは殺されています。あなたは殺されています。無抵抗なあなたは殺されています」

「おおおおおおぼくは殺されている!? ぼくは殺されているんだ!?」

「あなたは殺されています。だから殺し返さないといけない。あなたを殺してくるヤツらは全員一人残らず殺し返さなければいけない。傷つけられた分傷つけなければならない。泣いて後悔してもどれだけ後悔しても決して許されないことをしたのだと理解するまで殺し潰さなければならない。

 殺すのです、殺すのです、殺すのです、あなたを殺した奴らを全員殺すのです。ぐちゃぐちゃになるまで潰して生物としての尊厳を踏みにじり存在を真っ向から否定しなければならないあなたを苦しめているその全てを破壊しそして否定するのです」頭にがんがんがんと響き回る声。

「あ、あ、あああああぁぁぁぁ。殺さないといけないんだ。何もかも周りにある何もかもぼくの世界を抑圧し押さえ付けるものすべて殺さないといけないんだ!」

 怒りの赤子がぼくのアタマの中で暴れ回っている。赤子は怒鬼となって暴れ、ぼくの脳みそをぐちゃぐちゃにかき回し破壊していく。ぼくの精神ごと破壊していく。


 長い時間が経って、怒鬼の衝動が収まった。ぼくは両目から透明な涙を流した。涙は滔々と流れ続けた。胸の中に空白ができたような気がした。膿を掻き出した後の隙間のような気がした。

 少し、心が軽くなっている。

「落ち着かれましたか」

 鏡の声は、元のか細く透き通った音に戻っていた。

「これは、呪い(のろい)です」呪い師は目を伏せたまま言った。「あなた様の苦しみを取り除きました」


 バイト先の居酒屋の厨房にゴキブリが出た。

「死ね、こいつ、死ね。死ね、こいつ、死ね」ソンベさんが排水孔からうじゃうじゃと出てくるゴキブリを踏みつぶしている。

「ぎいぃぃぃ、ぎいぃぃぃ」ゴキブリたちは泣き喚く。逃げ惑う。「ぎいぃぃぃ、ぎいぃぃぃ」

「もうこんなんじゃキリがないよぅ」浅蜊ちゃんが言った。「もう帰ろうよ。今日の営業終了ってことで、帰ろ? かえってセックスしよ?」

「いや、そうだけど、セックスしたいけどさあ、こいつらをまず殺さないと。このむかつくやつら一匹残らず殺さないと。死ね、こいつ、死ね。死ね、こいつ、死ね」

「ほあぁーん。もう疲れたよぉ」

 店長は小学生を強姦するために店を空けている。

「おい、注文まだかよ。遅いんだよ」客の男が言った。「もうなんでもいいから持って来いよ」

「ハイー」

 ソンベさんが潰したゴキブリを拾って、皿に盛って出した。まだ足がひくひく動いている。

「おい、なんて生きのいいゴキブリだよ。お前これ、新鮮すぎて食えねえよ。毒素が生きてるんだもの。こんなもん客に食わせんじゃねえーよ」

「すみません」

「あ? 聞こえんぞ」

「すみません」

「ああ? ああ? ああ? まっっったく聞こえん。お前な」男がぼくの頭を叩いた。三角巾が落ちた。

「大人様を舐めんのも大概にせえよ」

 あぁー。

「お前学生の分際で、血税納税者様に舐めたことしてんとちゃうぞ」

 あぁー。

 怒鬼が、

 怒鬼が、

 震えている。

 歯を震わせている。

 あぁー。

「謝れ。謝ったら許したるわ。今日のところはな」

「大変失礼いたしました」

「申し訳ございませんイゴ気を付けます」

「申し訳ございません、以後気を付けます」

「ワタシは大人様方の血税のおかげで生かされている、ゴキブリも同然の存在です」

「ワタシは、大人様方の血税のおかげで生かされている、ゴキブリも同然の存在です」

 男はにやにやしている。連れのほかの男たちもにやにやしている。

 あぁー。

 こ、こ、コロシテぇ。怒鬼が言った。

 こ、こ、コロシテぇー。

「うっ……すみませんでした。失礼いたしました」吐きそうになった。もう少しで怒鬼を吐き出しそうになった。

 こ、こ、こ、こ、こ。

 こ、こ、こ、こ、こ。

 こ、こ、こ。

 こ、こ、こ。

 怒鬼はゆっくりと成長している。


「泣いてしこって寝る。泣いてしこって寝る。泣いてしこって寝る……ふうん、「しこって寝る」の語感がなんというか、すごくいいね」

 ぼくの寝室の布団の上に、白髪の少年が座っていた。片膝を立てて座っていた。

「泣いてしこって寝る。うん。このひらがなの「しこる」がいい語感を生んでいるんだなあ」

 ぼくに気が付くと、少年は「あ」と言った。

「ありがとう。君の無意識たる精神を見たよ。思想的な興味深さもあったけれど、なにより語感がいいね。このひらがなの語感がいい。泣いてしこって寝る。泣いてしこって寝る。どこか寂しさや、やり場のない悲しさを感じさせる語感だ。泣いてしこって寝る。泣いてしこって寝る」

 あーああぁ。

 ぼくの部屋にも

 ぼくの部屋にまで

 狂った奴らが入ってきてしまった。

「ゆう、ボクだよ。おルン千代。蝙蝠の。鏡凛燐の人形の」

「ああ」

「思い出した? 君もボクたちと同じく、鏡の人形になったんだよ。鏡を手伝いに行こう。一緒に行こう?」

「ああ、思い出した。鏡凛燐」

 鏡凛燐に頼まれて、人形になったんだった。


「わたしの人形になってくれませんか」

「わたしはあなたのような気質の方を探していたのです。人形になってくれませんか」

「わたしのお客様の情報を管理してほしいのです。帳簿をつけてほしいのです」

 呪いの後、鏡は淡々と言った。

「あ、あ」なにを「あ、あ」この人は何を「あ、あ」言っている「分かりました」あ、あ。

 あ、あ。


 大きな蝙蝠の背に乗ってぼくは空を飛んだ。夜の空を飛んだ。雲と地面の間の狭い空間を飛んだ。建物の明かり毎にそこで人間たちがセックスしている。

「すべてセックスの光」

「全員が全員セックスしているとは限らないよ」おルン千代が言った。「オナニーかもしれない。あるいは、発狂しているのかも」

「あなたは、いつからあの人の人形をしている?」

 おルン千代は首を左右にぐらんぐらんと振った。

「生まれた時からカナー。ボクとウェん千代はちょっと特殊でね」

「ひゅうぅ、ひゅうぅ」耳元で風が唸る。「ひゅうぅ……ざ、ざざ、ざざざざ」

「ボクたちは、鏡の胚から生まれたんだよ。胚から生まれた。鏡が二十歳の時に」

「他の人形たちは?」

「占い師のおじいさんはボクたちが生まれる前から、鏡が子供の時から人形をやっていて、かんばんまんは、三か月くらい前から人形をやっている」

 おルン千代が振り返った。

「ゆうは、どうして鏡の人形になったの?」

「どうして? ぼくはどうして?」

 ぼくはどうして、人形になった?

 どうして、鏡凛燐の人形になった?

 あぁ。

 あぁ。

 あぁー。

「あぁー」

 怒鬼が話したがっている。

「怒鬼が」

「ん? どき?」

「怒鬼が、そう望んだから」

「ほよょぉーん、なるほど」おルン千代が言った。「怒鬼ね」


 中年の女と中年の男が座っている。鏡が淡々と話す。

「あなた様方は、どのような苦しみを抱いていらっしゃいますか」

 女が男の背中を叩く。

「ほら、早く言いなさいよ。りんりん様は凄いのよ。どんなに辛い時でも、りんりん様に呪ってもらえばイッシュンでスッキリするんだから」

「お、おれ、もう死にたいんです」おずおずと男が言った。「もういっそ死んでしまいたいんです」

「死にたいと?」鏡が言った。

「はい」

「もう死んでしまいたいと?」

「はい」

「この世の中のすべてがもう嫌になってしまって、もう死んでしまいたいと?」声音が変わった。

「はい」

「この世の中のすべてが自分を否定していると? 自分が、おれが生きづらいように全てができていると? もう死ぬしかない。死ぬことしか選べない。おれにはもう生きる自由がなく自分の人生において何かを決める自由がなくもう死ぬ自由しかない死にたいときに死ぬ自由しか残っていないしかしその自由すら失われつつあるもう死ぬときでさえ自分で選べなくなりつつあるならもうそんなことなら死んでしまいたい。死ぬしかない死ななければ死ななければならない、苦しみを自分で苦しみを味わう自由があるうちに自分に自分で苦しみを与える自由があるうちに死んでしまわなければならない」

「ああ、ああ! ああ! ああああああああ! そうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそうそう! 死なないとそうそうそうそうおれは死なないとそうそうそう死なないといけない。死ねるうちに死んでおかないと。そうそうそうそうそうそうそうそう、ああああああああ!」

 男はぼろぼろと涙を流して叫んだ。

「死んでおかないといけないんだあーっ!」


 発狂が収まって、男はぼそぼそ呟くように言った。

「りん様、ありがとうございました。苦しみが、苦しみがなくなりました。あんなに頭いっぱいにあった苦しみが、すっかり無くなりました。ありがとうございました」

 一万円札を机の上に置き、男と女は部屋を去った。

「……お疲れ様でした」鏡が言った。

 ぼくは、男の苦しみの内容を書き記したメモを、鏡に渡した。

「ありがとうございます」

 鏡はぼくの書いたメモを静かに読んだ。


 頭が壊れかけている。

「ランちゃーん。ん? ランちゃん、どうしたの?」

「見てよ、あいつ。同じ講義受けてるんだけどさ。あいつ、たまにズボンに手ぇ突っ込んで、顔真っ赤にしてやんの」

「えぇ、なに、つまり、なに? オナニーしてるってこと?」

「そうなんだよ」金髪の女子学生が頷いた。「あいついっつもオナニーしてやんの」

「えーでも、ランちゃんもおんなじじゃん。先生とヤってんじゃん」

「あはァ、そうでしたぁ。あ、先生」

 眼鏡に蛸をぶら下げた教員が廊下を歩いてきた。

「おい、ラン、また授業をサボろうとしていないか」

「んなわけないじゃん。先生に会いに行くんじゃん」

「お、おい、またそんなことを言って。し、しっしっ仕方のない奴だなぁもう」

 怒鬼の膨張で頭が壊れかけている。

「ねえ、あんた」金髪女子学生がぼくの顔を覗き込んだ。

「授業まで暇だからさ、あたしと遊ぼうよ」

 は?

 性欲人間が。

 は?

 ぼくと遊ぶ?

 つまりどうせセックスしようと? その持て余した性欲を発散しようと? そんな低俗な欲求にぼくを巻き込むと?

 はあぁ?

 金髪のおんな学生は、にいと笑った。タバコの脂で黄ばんだ歯を剥き出した。目は腫れぼったく充血し、鼻にアブラが浮いている。

「もう何でもいいからセックスしよってことだよ」

 金髪女はそう言って、ぼくに腕を絡ませた。


 猫がぼくたちを見ている。セックスするぼくたちを見ている。

「にゃあ、にゃあぁー……にゃ、にゃあー……ご、ご、ごが、ごええええぇ。ごえええええええぇ」

「そうそう、そんな感じそんな感じ。おまえ、セックスの真似うまいね。超うまい」

「は、は、本当?」

「うん。うん。本当。超うまいよ。超うまいよセックスの真似」

 終わった後、金髪女―ランが言った。

「あんた、他人の性欲にはビンカンでアレルギーみたくなるのに、おまえ自身の性欲全肯定なのウケるんだけど」

「は?」

「結局あんたもセックスしたいだけじゃん。あんたの毛嫌いしてるあたしの性欲と、あんたの性欲のなにが違うっていうの? どっちもおんなじだよォ」

「は? 同じ? ぼくと君が?」

「うむ。性欲に関しては全くおんなじだよ。お前も結局人間なんだからさあー。性欲にキレイもキタナイもありゃせんわ」

「ふざけるなよ」

 ぼくはランの首を絞めた。

「ハイ出たー。性欲に従って首絞めるやつ出たー。お前の目線ずっと知ってたぞ。お前の、他人の性欲を毛嫌いする視線、ずっと知ってたぞ。あたしだけじゃなくて、みんな知っているよ。お前が他人の性欲を毛嫌いしてるってこと。それから、お前自身の性欲は棚に上げているってこと。アアー卑怯だなあ。汚いなあ。そういうのの方が本当に汚いよ」

「ああ!? ああ!? ああ!? 黙れ! 黙れ! 黙れ!」

「おい、おいおいどうしたノ? いつものアレ、どうしたノ? 頭が真っ赤になってぷくうーって膨らむやつ、どうした?」

「ごえええええぇ、ごえええええぇ、ごえええええぇ」

「もう死ね! もう死ね! もう死ね!」

「ああああぁー、興奮するよなァ、興奮するっしょ? かわいい女の子の首絞めて、興奮するっしょ? 言いなよ、正直に言えよ」

「ああああああ! うるさいうるさい! うるさいうるさいうるさい!」

「ごええええぇ」

 怒鬼が怒らない。怒鬼が怒らない。どうしてだ? 怒れ。怒れ。怒れ!

「そんなに必死になってもあたしを殺さんでしょ、あんた。結局さ、他人の性欲をカビンに嫌ってるのと同じでさ、パフォーマンスなんよ。所詮、パフォーマンス。殺しますよぉー、殺しますから、殺してしまう前に、謝ってくださいネー、っていうパフォーマンスじゃん。なにも変わらんよ。ずっと同じだよ。あんたの本質はずっと変わらず俯き野郎だよ」

 殺したい。殺したい。しかし腕に力が入らない。

「死ね。死ね。死ね」

「いやもうええて、どけよ」

 ランがぼくを蹴り飛ばした。

「マジうんち。マジつまらんかったぜー」

 それから、裸のまま部屋を出て行った。

「……お、おぉ、おろろろろぉ」

 ぼくは吐いた。

 吐瀉物がぴょろぴょろと顎を伝ってみぞおちと腹を滑り落ち、陰毛に絡まった。

「ごえええぇ。ご、ごぇ、ごえええぇ」

 猫が鳴いている。狂った声で。

 ……あれ。

 狂っているよな。

 あの猫、もう狂っているよな。

 あれ。

 あれ。

 狂っているよな。

 狂っているんだよな。

 そうだよな。


 アパートに戻ってテレビを点けると、女のアイドルグループが踊っていた。

 笑顔を振りまいている。

 あいつらもどうせ、セックスをするのだ。

 あいつらも、どうせ、セックスをするのだ。

 ぼくも、セックスをした。

「キミが好きでいてくれるわたしのことわたしも好きだからー」笑顔を絶やさず踊っている。

 あぁ。

「わたしに救われてるキミに、わたしも救われてるー」

 あぁ。

 なんかいいな、アイドル。

 なんか、全肯定してくれるような気がして。

「そんなわけねえよなあ」

 耳たぶから黒い雫が生まれて言った。

「結局現実逃避かよぉ。ランちゃんの言っとったこと、ちゃんと心に刻めよ、切り刻めよ。せめて自分が現実逃避しているということを、自覚したまえよ」


「……今、なにか、苦しみを抱えているのでは?」ぼくが人形の仕事を終え、顧客の情報を記したメモを渡すと、鏡が言った。「あなたは今、苦しみを抱えているのでは」

「ありません。何もありません。苦しみは、何もありません」

「……今日は三人に呪いを施しました」

「はい」

「呪いというものは、一般的に他人の不幸を願う行為のように思われていますが、本質はそうではありません」

 鏡はぼそぼそと言った。

「はあ」

「呪いは、人間の本質的、本能的な精神志向を表出する行為なのです。つまり、自分の本心をさらけ出す、ぶちまける行為なのです」

 鏡は正面を向いたまま、目を伏せたまま言葉を続けた。

「それは悪意だけではありません。善悪を問わず、幸不幸を問いません。

 呪いは、祈りとは違います。祈りは神をはじめとした超越的存在に対して願望を表出する対外的な行為ですが、呪いは願望の表出ではなく、単なる精神志向の表出であり、故に極めて内面的な行為なのです」

「はあ」

 何が言いたい? 何を意図している?

「私は呪うことで自らを保っています」

 鏡は、目線をわずかにぼくの方に向けた。

「生き物は、必ず、救いを必要とします。どのような形であれ、必ず、救いを必要とします」

 そう言うと、鏡は口を閉じ、目を閉じた。

 ぼくは部屋を出た。

 かんばんまんが立っていた。玄関ではなくこちら側を向いている。看板を掲げた。

「りん様は、チミのことを心配しているんだよ」

「心配? なぜ。あの人と知り合ってまだ一週間も経っていないのに」数回しか会ったことがないのに?

「りん様は、チミに関心があるんだよ。なにかしら関心がある。チミの苦痛に関心があるのか、チミの狂気に関心があるのか、分からないが。とにかく関心を持っている。チミを人形にした理由だよ」

 ああぁ。

 そもそも。

「そもそも、ぼくはなぜ? ぼくはなぜ、鏡さんの人形になることを承諾した? ぼくはなぜ、どうして?」

「もちろんチミが望んだからだよ」かんばんまんは、看板を掲げて答えた。「表面的な理解ができないだけで、チミの芯のところでは、りん様の人形になることを望んだんだ」

「ぼくは望んでいない。なぜここに来るのか、分からない。いや、ちがう、怒鬼が望んだからだ。怒鬼が望んだから。だからだ」

「そのドキ、というのモ、チミ自身なのでは? 当たり前だけどもさ」

「怒鬼は生きているので、ぼくとは別の存在だ。ぼくの中で生きているぼくではない存在だ。ゆえに怒鬼はぼく自身ではない」

「ならばチミは自分のためではなく、ドキのためにここへ来ているということ? うモぉ、なんか納得できんけどなァ」

 かんばんまんは音もなく回転し、玄関の方を向いた。

 まったく動きを止めた。


「ゆう君、やっほー」

 講義室に続く廊下に、白髪の少女が立っていた。

「あたしだよ。蝙蝠のウェん千代」ウェん千代は手を振った。

 ぼくはウェん千代に連れられて、レストランに行った。

「おわー、人間の食べ物を食べるのなんて、久しぶりだよ。どれもめっちゃしょっぱいよねー。やっぱみんな、高血圧で死んでってんのかな。ほとんどの人間の死因って、高血圧だったりすんのかな」

「ピンポーン」店員を呼ぶベルの音が鳴っている。「ピンポーン」

「ぴんぽーん」ウェん千代が真似をした。

「ピンポーン」

「ぴんぽーん」

「ピンポーン、ピンポーン……つ、つつ、つつつつーーつつつつ、つつつつーーーーーーーーつつつつつ」

「あっ」ウェん千代が声を上げた。「狂ってきた」

 あぁ。

 まただ。

 また、狂い始めている。

「つつつつつーーーーーーつつつつ」

「ね、狂ってるよね。完全に狂ってる」

「うん。狂っている」

「だよねだよね。狂ってるよね。これ、ほんとに狂ってるよね」

「狂っているよ。狂っているから」

「本当狂ってんね。いやー狂ってんね。あはははは」

 ウェん千代が大声を上げて笑い出した。

「分かった。狂っている。分かったから」

「あはははは、狂ってるー。あはははは」

「狂っているというのはね」「狂っているというのはね」ウェん千代が歌うように言った。

「狂っているというのはね、とっても気持ちいいことなんだ。とっても気持ちいいことなんだ。あはははははは」

「うわぁ。うわあぁ」ぼくは頭を抱えた。

「自分のココロに蓋してるからそんなに辛いんだよ」ウェん千代がぼくの顔を覗き込んだ。にやにやと笑っている。

「おあー、シコりたくなってきた」それから、茫然とした表情を浮かべた。「こんなとこで、公衆の面前で、シコりたくなってきたワー」

 こいつは今、破滅的な欲求を持っているのだ。押し付けようとしている。刹那的、快楽主義的な欲求を押し付けようとしている。

 ぼくは頭をガシガシと搔きむしった。

「オレも、オレも!」甲高い声で怒鬼が言った。「オレも、オレも! オレも、シコりたい!」

 ぼくの頭が分裂して、赤い塊がぼとりとテーブルの上に落ちた。二頭身の小鬼みたいな恰好をしていた。

 怒鬼は、皿に盛り付けてあったパスタを貪った。赤い尻がふりふりと揺れている。トマトソースが身体に纏わりつく。

「もう、オレ、怒るの疲れたよ。もう、自由になりたいだよ。うもうも、うもうも、うまうま」

 あぁ。

 ぼくは失望した。こいつらも、狂ってしまった。イカれてしまった。

「あああああ! どいつもこいつも、狂ってばっかりじゃないか」

「早く気付きなよ」ウェん千代が言った。「自分が本当に望むことに、気づきなよ。君は、」

 怒鬼もぼくの方を向いた。もぐもぐとパスタを咀嚼している。「オマエは」

 ウェん千代と怒鬼は、声をそろえて言った。

「何を求めている? 何を求めている? 何を求めている?」


「形を、何らかの形を取ることすら億劫なので流体と化した次第で御座居間す」

 何かが、大学の講義中に耳元で話しかけてきた。

「流体と言っても、無色透明では御座居間せん。わたくしは、色も持って居るし、においも持って居るし、なにより魂を持って居る。全ての存在にとって最も重要な、魂を持って居る。その点に於いて、わたくしはどの無機的流体とも異なるのです。あ、ちなみに名前も持って居間す。名前は……ああ、ああ、何だったかな。ああ、そうだ。失ったんだった。捨てたんだった。名前を持つことすらわたくしを一つの状態に規定することと感じたので、名前を捨てたんだった。なぜならば名前を刻一刻と変えることは不可能だから。色やにおいは変えられども、名前を連続的流動的に変化させることは不可能であるから、わたくしは名前をも捨てたので御座居間す」

「なんだこいつ?」学生の一人が言った。「おい、お前、大学に変なもの持ってくんなよ。せんせー、こいつ、変な生き物連れてきてるんだけど。追い出してもいいかな」

 教授がぼくのほうを見た。教授の目は睡眠不足で充血している。

「おい! お前、いまワシのことを睡眠不足と思ったろ」教授が叫んだ。チョークをぼくのほうに向けた。

「わかっちゃうんだよ。ワシのことを睡眠不足と思ってるの、わかっちゃうの! あーほんとムカつくんだけど」

「あなたは、あなたの、あなたに……。そう、あなたに。あなたに、興味が御座居間す」耳元でピンク色の気体が言った。「あなたの形が、よくわからないのですけれど、あなたの色は、何色? においは? 魂の状態は? ああ、何もわからない。常に形が変わり続けている。ああ、これが、これが真の不定・非定常状態なのでは? あなた、あなた、いったい、どうして? どうしてそんなに不定であるのですか? 何が起こっている? あなたに今、何が起こっている?」

 ぼくは、すぐ側でピンク色の気体がゆらゆらと漂っているのを眺めた。

 次に睡眠不足の教授を眺めた。

 次に一人残らず机の下のスマホを覗き込んでいる学生たちを眺めた。

 みんな狂っていた。

 もう分かりきっていることにも拘わらず、もう分かりきっていることにも拘わらず未だ尚もぼくは世界中が狂っていることを知覚している。

 狂っているくせに。ぼく自身も狂っているくせに。

 狂っている奴は、自分が狂っていることを知覚できない。狂っている世界は自らが狂っていることを知覚できない。

 なぜかぼくだけが何もかも狂っていることを知覚している。自分が狂っていることを自覚している。

 狂っていることを知覚しないことは幸せである。なぜならぼくが不幸せであるから。

 狂っていることを自覚しているぼくが不幸せであるから。

「……あぁ。そういうことか」気体が呟いた。

「あなた、なんかもうそういうところまで行ってしまったのね。もう自分のことを、諦めるくらいのところまで、行ってしまったのね。それは、全く以て可哀想に御座居間す。自分の今在る形を超越し「何かで在る」ことを超越し自由を求めるのではなく、自分の今在る形に屈し「何ものでもない」ことに屈し全てを諦めてしまったのですね。それは左様、全く以て哀れに御座居間す」


 みんな狂っている。

 ずっと狂っている。

 何もかも狂っている。

 なぜ? どうして?

 どうしてお前たちは狂っている?

 なぜ、そんなにも狂っている?

 どうして?

 狂うのはこんなにも苦しいのに。

 死にたくてたまらないというのに。

 どうして?

 どうして、ぼくはこんなにも狂っている?


 自分の部屋に戻った。居間で雀が叫んでいた。

「や、やり過ぎたあっ!」雀は腹の辺りを羽で押さえながら叫んでいた。

「ミスった。や、やり過ぎました。うれい様、うれい様、ワタシ、最近ちょっと寂しくって。うれい様が虐めてくれないから、虐待してくれないからちょっと寂しくって。試しに、自傷してみたんです。ええ。あの自傷行為です。そしたらね、そしたら、嘴が思いのほか鋭くて、いま、ワタシの胃に穴空いちゃってます。ヤベー。やり過ぎた! やり過ぎた!」

 雀は弱弱しく鳴いた。

「ぴちぴち、ぴちぴ……ヴ、ヴ、ヴ、ヴぃいいぃぃーーーーーーーー」

「あ!」白狐が言った。「こいつ、狂ってきてる」

「幸せそうだなァ」

「幸せそうだなァ」

「幸せそうだなァ」

 動物たちが口々に言った。

「は? え? 幸せ?」ぼくが言うと、どの動物も頷いた。「狂うのが、幸せ?」

 本気で言ってるのか? こいつら今でさえ明らかにおかしいのに狂っているのに、この上まだ狂いたいと?

「幸せですよ。ゆう様」ミミズクが言った。「狂うことは、我々にとって幸せなのです。幸福なのです。我々が虐待を求めることもそのためです。狂いたいがゆえに、虐待を望むのです」

「嘘つけよ。お前たちは自分が狂っていることを真に知覚しているわけじゃない」

「いいえ。ちゃんと、しっかり、間違いなく自覚しています」

「おかしい、そんなのおかしいぞ。あいえない。なんで、なんで? 狂ったら、ふつう死にたいと思うだろ? 死にたくてたまらなくなるんじゃないのか? 狂うってことは、自分が狂ったことを認識するっていうことは、苦痛ではないのか? 狂うことは、苦しいことじゃないのか?」

「我々にとって、狂うことは、自由になることを意味するのです。狂うということは、解放されるということです。自らを開放するということです。あらゆる価値観倫理観に囚われず、まったくの自由になることなのです。自由たることこそ、我々の真の幸福なのです」

「ヴぃいいいぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……ヴぃいいいいいいぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……ヴぃいいいいいいぃーーーーーーーーーーーーーーーーーー……」

 雀は狂った鳴き声を上げ続けた。蝉のように身体を振動させ、鳴いている。

「ヴぃいいいぃーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー……ぃ、ぃぃ……ぃ」

 次第に鳴き声が弱まっていき、やがて雀が死んだ。それを見ていた周りの動物たちは、ほぅと恍惚と羨望のため息を吐いた。

 ぼくは、雀の死骸を眺めた。目を開けたまま死んでいる。腹の羽毛に赤黒い血が滲んでいる。嘴は大きく開かれ、いまだ叫んでいるように見える。

 ぼくは雀を埋葬するために、雀に触れた。

 あぁ。

 そうか、そうか、そうか。

 ぼくは知った。

 ああ。そうなのか。

 ぼくはやっと知った。

 雀の身体は熱かった。血液が沸騰し体液が泡立っている。

 狂ったせいだ。

 雀は狂ったせいで死んだのだ。腹に穴を空けたからではない。興奮のせいで死んだのだ。

 狂いたかったのだ。雀はもうずっと狂いたくて狂いたくて仕方がなく、そして今、狂って死んでいった。ぼくは雀の発狂の残り香を感じた。ただ、満足している。満たされている。幸福に満たされている。逃れ、解き放たれ、自由になった幸福に満たされている。

 この瞬間、ぼくは悟った。

 雀は救いを得たのだ。

 そして、この動物たちも、雀と同じなのだ。

 ぼくも同じだ。鏡の言った通りだった。

 ぼくたちは救いを求めているのだ。


 なぜぼくは未だここに通い続けている。

 目の前で鏡が呪っている。大柄の男が頭を両手で抱え泣きわめいている。

「あなた様の感じることすべてが肯定されるべきであるにも関わらずあなた様の感じることすべてが否定されうると感じるのは一見矛盾にも思われますがそれが真理なのですそれこそが真理なのです。その明らかに矛盾した異常とも感じ得るその状態こそが正しいのです」

「無理だよォ、オレ、受け入れられないよォ」

「あなた様はそうやって矛盾を否定することで自己を保っている。矛盾を否定し一元的な世界を肯定、支持することで自己を保っている。しかしあなた様の心は、本当のところの心は違うはずです。あなた様はほんとうは矛盾を否定しながら肯定してもいる。「矛盾を否定する心」に矛盾する「矛盾を肯定する心」を持っている。そしてここに発生する矛盾さえ肯定している。あなた様はつまり矛盾を心の底から魂の底から愛しているのですよ」

 怒鬼はもういないというのに。ぼくは救いを探さねばならないというのに。

 ここに何を求めている? 呪いに何を求めている。

 あるいはここに救いがあると? 呪いに救いがあると?

 喚いていた男は今、言葉を失い静かに泣いている。

「ありがとうございます」やがて、男が言った。「オレは、本当は初めから矛盾していたんですね。どうしようもなく、矛盾していたんですね。あー、つまり、オレは、もはやオレでなくて、もう何者でもないんだ。すべてに矛盾しているのだから。その上「オレであることに矛盾して何者でもないオレ」は「何者でもないこと」に矛盾してオレでもあるのか。あー、なるほど、なるほど、すごく納得した。今までの苦しみが、全て説明できる。そういうことか。つまりそういうことか。オレは、つまり、オレは、何もかも矛盾しているということなんだ。「「矛盾しているということ」に矛盾して矛盾していない」というくらいに矛盾しているのか。

 ああ、

 ああ、

 ああ、

 すっきり」

 ぼくもこの男のように、呪いによって救われるのだろうか。

 鏡が男に向かって言った。

「あなた自身をありのまま受け入れることもまた、救いの一つの形ですよ」


 女が公園で叫んでいる。

「それはわたしが女だからですか?」

「ち、違うよみったん」

「じゃあ、わたしが運動音痴だからですか? わたしが運動音痴だから、みんな気を使ってるの」

「そ、それも違うよみったん」

「じゃあ何ですか? わたしが運動音痴の女だからですか? わたしが運動音痴の女だから、みんな気を使ってるんですか? は? ふざけんなよそれ! 他人のこと舐めてんじゃねえぞ!!」

 女は地団駄を踏んでいる。なだめている男の一人の胸倉を掴んだ。

「わたしだってなあ、楽しく運動したいねん。いい加減にしろ! いい加減にしろ! その差別意識! 見下してんだろ、それ! 明らか見下してんだろ!

 おい! 怒ってるわたしのこと見てかわいいとか思うのやめろ!」

 女は怒っている。しかし男たちは、男たちはそれを見て喜んでいる。

 ぼくは女の怒りに共感した。

「かわいそうだね」「たしかにかわいそう」おルン千代とウェん千代が言った。

「救いを、あげないと」ぼくは思った。「あの人に救いをあげないと」

 人間は誰しも救いを求めているのだ。

 みったんは髪を振り乱して怒っている。怒っているのだ。

 理不尽に対して怒っている。男たちの無理解に対して怒っている。

 怒りは正義ではない。ぼくは思った。

 怒りは正義ではないが、しかし、怒りには何事にも優先して最も強い正しさがある。

 怒らねばならない。ぼくはみったんを見ながら思った。人間は誰しも、怒らなければならない。自らの正しさを、魂の核として、持ち続けなければならない。

 怒りは肯定されうるのだ。

 ぼくはみったんを取り囲んでいる男たちに殴り掛かった。

「お? なんだオメ。殺すっぞ」

「ぴゃぴゃ、返り討ちにされてやんのww。だっさwww」

 男たちはぼくを取り囲んで、殴った。爪先で脇腹を蹴った。

「おえ、えぇぇ」

「きもー。吐いてる。こいつww人間のくせに吐いてるwww。きったねーwww」

 痛い。痛い。しかしぼくは苦しくなかった。血を吐いても眩暈で立てなくても苦しくなかった。

「ああ、痛そう。なんで関係ないのに来たんだよ」みったんが泣いている。

「おえぇ。おえぇ」

「おい、お前、正義のヒーロー気取りかなんか知らんがな、今、めちゃくちゃダサいぞ。もう人間やめたほうがマシなレベルでダサいぞ。みっともない。死んだほうがいい。なあ? なあ? お前自分でもそう思うだろ、なア」

 男が鳩尾を思いきり蹴った。

「っげぼォッ!」

 ぼくは嘔吐嘔吐嘔吐嘔吐嘔吐した。

 頭が真っ白になって目の前が真っ白になってもう生きていないかもしれない何も見えない女の声が聞こえるみったんの声が泣き声が聞こえる理不尽に対する怒り諦観やるせなさを抱えて泣いている「泣かないでいい」心の中で思う「泣かないでいい」「泣かないでいい」痛い痛い痛みが蘇るつまり生きている痛みを感じるぼくのなかの神経みなみな生きていることを感じ死んでいないことを感じ生きている痛みが痛い痛いしかし苦しくはない決して苦しくはないなぜならば絶対に正しいからだ怒りを抱く女みったんの方が絶対に正しいからだ正しいことを思想しているから正しさを信じているぼくも苦しくない何もかも苦しくはないそして生きている生きていることこそ正しさの証左正しいものは死なない決して死なない決して屈しない何にも屈しない全くの正しさの元生きているこの女のこの根本的な怒りこそ根源的な正しさなのである。

 ぼくは立ち上がった。嘔吐の発作が来て膝を突いた。男たちがゲラゲラと笑った。

 しかしぼくはまた立ち上がった。

 吐いて倒れ、しかし何度も立ち上がった。


 夕焼け。

「あぁ、ああ、あぁ、ああ、あぁ。人間の最も根源的な言語表現(これを叫びと言いますが)は、「あ」です。さあみんなも言いましょう。この言語表現はだれでもマネできるものですので。みんなもやってみましょう。ええ、鬱病でもできます。わたしのような鬱病でも。でも、本当は、わたしは鬱病ではないのかもしれないという人でもできます」

 女が喋っている。

 ここはどこだ?

 女が喋っている。

「鬱病というのは、現実に存するような現代に存するような鬱病とは違って、わたしの場合、幸せを求めるがゆえに発した鬱病なのです」

「おい、お前、ほんとの鬱病ちゃうやろが、偽物が」男が言った。

「もっもっもちろんでありますとも。わたしの鬱病は、現実に存するものとは違い、幸福になる為の鬱病でありますもののののふ。もののふ? ああ、もののふと言われば、このまえ、もののふにわたし殺されました。斬ることを切望するもののふであった為、わたし殺されたのです。その時悟ったのです。わたしは鬱たるべきであると。それからわたしは鬱病となったのです」

 男は女の喋っているのを聞いて嘔吐した。それから涙を流した。

「なんかこいつの言ってること、聞いてたら、悲しくなってきた。なにこれ、どういう情動? おれも、結局はおれも、狂っているということなのか」

 狂っている?

 ぼくは思った。

 狂っている?

 しかしそれ以前に、

 ぼくが存在している? なんらかの世界を知覚している。

「鬱病たるは救われたいとわたしも思いまして、「ああ、あぁ」なる叫びを繰り返し連々と連呼する次第でございます」

 女と男は手を取り合い、そして、そして、海ができた。

「やや、海ができた」男が言った。男は女が真の鬱病でないことを忘れている。怒りを忘れて女と手を繋いでいる。「海ですね」女も既に叫ぶことを忘れて自分が鬱病であることも忘れている。

 怒鬼がぼくの目を見て言った。

「おい、これがお前のなりたい世界というワケかよォ!」

 男と女が「アハハハハハハ」と笑いながら、陽炎に変わって、消えた。

 太陽が沈みきった。

 夕焼けが過ぎ去った。

 ぼくはぼくの部屋の窓の外の夕焼けの終わるのをじっと見つめていたのだ。

 あぁ。

 ああ。

 あああ。

「ああああああああああもー終わりだあああーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーあ」

 ぼくは太ももに付いた精液をティッシュで拭き取って、服を着て、動物たちを踏みつけながら部屋を出た。

「ああああああもうだめだだめだだめだだめだ」声を出し続けないといけないと思った。なにか言い続けないと。「ああああだめだめヤバいヤバい死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ死ぬ」

「カンカンカンカン」錆びた階段を降りる。「カンカンカンカン……ぐ、ぐぅ、ぐぇ、ぐぇ、ぐぇ、ぐぇ」階段が狂い始めた。

「もうだめだなにもかも本当に何もかも狂っている」

 とうとう世界そのものが狂い始めた。狂った世界がぼくを侵食し始めている。どこを? ぼくのどこを?

 もちろん脳を。

 もちろんアタマを。

「はやくはやくはやく」

 救われないと。

「はやくはやくはやくはやく」しないと。

「死んじゃうよおーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーおお」


 鏡凛燐が座っている。

「も、もうダメです助けてください。救済を」

「救済、ですか?」鏡は伏せていた目を上げた。「救われたいと思っているのですか?」

「そうですそうです、そうなんです。ぼくはもう、その、もうどうでもよくて、救われるならなにがどうでもよくて、とにかく救われたいんです」

「なにがどうでもよくて、ただ救われたいのですか?」鏡は静かに問うた。

「そうです」息が切れている。「ぼくは息が切れている」ほらこんなに「狂っている」ので「助けてください」鏡はぼくの息の切れているのを眺めている。

 鏡の後ろで二匹の蝙蝠は翼に空いた穴から眼をきょろきょろ覗かせ「オイ、オイ」と鳴いている。

「救われたいのなら」鏡が言った。

「救われたいのなら、わたしに、ついてきてください。行きましょう」立ち上がって部屋を出る。

 ぼくもついて行く。「救い、救いを」

 救済を求めている。

 切実さに迫られ追いつかれ殺されるほどの切迫感から。

 自分のことが可哀そうで泣き崩れるまで自傷したくなるほどの激烈な欲求から。

 ぼくの中の人間としてのあらゆる感情を差し置いてぼくの中の生物としてのあらゆる本能的な志向を差し置いてぼくがぼくであるこの個体であるぼくであることの唯一性により発生する根源的な存在の志向をも差し置いてぼくが「在る」ことにより発生する根源的必要性から。

 ぼくは、

 ぼくは、

 ぼくは、

 ぼくは、救済を求めている。


 マンションの一つの部屋の前で鏡が止まった。

「ここです。ここに入ってください」鍵を取り出して、開ける。

「ここで救済が行われると? 僕を救ってくれるんですか?」

「はい」鏡がドアの奥へ進む。

「よかったね」ウェん千代がぼくの左後ろ、耳元で囁く。

「よかったね」おルン千代がぼくの右後ろ、耳元で囁く。

 二匹の蝙蝠の声は違うはずであるのに全く同じ響きを持っている。

「ボクたちは鏡の人形だからね、いつも鏡と一緒にいるんだ。だから、鏡と一緒にいる時の君のことも、よく見ている」

 おルン千代が囁いた。

「あたしたちは鏡の胚から生まれたからね、鏡の心の中が、なんとなく分かるんだよ。だから、君と一緒にいる時の鏡の心の中も、なんとなく分かるの」

 ウェん千代が囁いた。

「??」

 蝙蝠たちは先に部屋に入った。廊下の奥で、鏡がぼくを見つめている。光を吸い取る眼でぼくを見ている。

「入ってください」鏡が言った。

 ぼくは、ドアを、潜った。

 ぼくは、マンションの、鏡の、部屋の、玄関の、

 玄関に、足を、踏み入れた。

「コツ、コツ、コツ、コツ」足音がする。玄関でずっと足音がする。「コツ、コツ、コツ、コツ、コ……ごっ、ごっ、ごり、ごり、ごりごりごりごり」足音が狂っている。

「ああ、ああ、ああ、ああ、ああ」

 何かの臭いがする。匂い? 香り?

「かほり? カホリ?」

「トロガシチョー」「トロガシチョー」蝙蝠の声が匂いと一緒に漂っている。甘い匂いが一緒に。

 空気が歪んでいる。匂いの所為で。暗く甘い匂いのせいで部屋の隅々まで歪んでいる。

 歪みの一つが渦を作って、ぼくの頭の中にねじねじと潜り込んでくる。

「やめてぇ、やめてぇよぉ」ぼくは玄関に蹲る。歪みの渦は必死にぼくの中に潜り込んでくる。

 現実が歪む。暗く甘い匂いと一緒に。

 世界が歪んでいる。

「お前は、生まれた時からもうどうしようもないビョーキにかかってしまっているから」父が言った。

「どうしようもないビョーキにかかってしまっているから、お前は俺の子供ではない。わかったなら金輪際、俺のことを父さんと呼ぶな。虫唾が走る」

 ぼくが否定されている。

 ぼくは母に助けを求める。

 母は泣いている。決まって台所の隅で泣いている。父の見えないところで。

「なんでそんなビョーキ持って生まれてきたの。わたしは今まで真面目に生きてきたのに。なんにも悪いことしていないっていうのに。お前がビョーキさえ持っていなかったら、あの人もわたしのことを愛してくれるというのに」

 母はぼくが聞いているのを知っていて、しかしぼくに対してではなく、独り言で言っている。

 ああ、そうだった。

 母もぼくを否定するんだった。

「うちの息子も、おたくのお嬢さんも、あの子の所為で人生めちゃくちゃにされちまうよ」

「そうですね、はやくどこかに置いてこないと」

「子捨て山がいい。あそこは熊が出るから。熊に食ってもらおうかぇ」

 父も母も祖父も祖母もぼくの周りにいる人たち全て目の中に黒い小さな孔を持っていた。爪楊枝で開けたような孔を持っていて、それでぼくを見ているのだ。

 ああ、ああ、ああ。

「ぼくの人差し指に、爪楊枝で孔を空けてください。なにもかもよく見える孔を」

 子捨て山の祠の神の前でぼくは跪いた。

 神は、ぼくを見下ろしている。

 世界が歪んでいる。

「信仰を集めるのデス!」

 首を切られる直前に教祖が叫んだ。錆びてボロボロの刃が教祖の頸動脈を引き千切った。

「あああ、我らの信仰が」信者の一人が言った。涙を流している。

「我らの信仰が、崩れ落ちてゆく」また別の信者が言った。

 極刑死官が信者たちに向けて矛を振りかざした。

「お前たちの宗教はもう教祖を失ったので、解散するのだ」

「そんなわけにいきませんよ」

 そう言った信者を、極刑死官は串刺しにした。

「あーもうーうざいんだよお前らみたいな変な思想信条に則って生活している奴。俺だってなあ、俺だってなあ、毎日毎日自分の部屋でアイドル○○ちゃん見ながらせこせこしこしこオナニーしたいのよ。仕事増やすんじゃないよ。俺のアイドル信仰の時間減らすんじゃねえーよ」

 極刑死官は信者を次々と殺していった。

 ぼくと目が合った。

「おわぁー、なにお前、それで人間やってるつもり? ねえ、人間やってるつもりですか? って聞いてんの。必死に擬態しようとしてるけど、紛れ込もうとしてるけど、人間以下のお前はどうやっても人間にはなれんぞ?」

 鉾がずぶりと胸に刺さった。

 極刑死官の目にぼくが映り込んでいる。

 映りこんでいるぼくの目の中のぼくの目の中にぼくが映り込んでいる。

「ワアー、やったよー、お前もお前もそのまたお前も、死んでいくんだなアー無常」

 世界が歪んでいる。

「アッ死にそう、アッアッ死にそう、アッ死にそう」

「その不自由な気持ちをどこにも持っていくことなく死んでいくのねあなた」

 女たちが異口同音に言った。

「このお坊ちゃま、ねえ、お坊ちゃま? その意気地なしの死にたがりの気持ちをどこにも持っていくことなく終に孤独に死んでいくのね?」

 女たちは小さな男の子を輪になって囲んで見下ろしている。

「捻じ曲がったその性根。そのままネジ曲がったまま死んでいきなさいな」

「いいんです。このままで、惨めなまま死んでいかせてください」男の子は両膝に顔を埋めて言った。

「ワははははははははははは! かわいそうに」

「かわいそうになァ」

「かわいそうになァ」

 女たちは異口同音にではなく、別々に口々にてんでんバラバラに、言った。

 女たちの声を聞いていると無性に悲しくなって苦しくなって生きているのが嫌になって死にたくなった。


 鏡凛燐はあの暗い部屋にいるときと同じように鏡凛燐の自室の机の奥に座っている。床に正座して座っている。座ってぼくを見つめている。色の薄い瞳が。

 いろのうすいひとみが。

 鏡凛燐はぼくを見つめている。

 ぼくは、今、世界が歪んでいることを認識して、そして、鏡凛燐が部屋の奥に座っていることに気づいた。ぼくは今、廊下に立っている。玄関から上がってすぐ、廊下に入ったところに立っている。

 五メートル先で、鏡凛燐がぼくを見つめている。

 いろのうすいひとみが。

 あるいは三メートルかもしれない。

 あるいは二十メートル先で、

 鏡凛燐が見つめている。

 いろのうすいひとみ。

 ぼくはそのいろのうすいひとみにひかれて。

 ぼくはその、いろのうすいひとみに、ひかれて。

 廊下を一歩歩く。もう一歩、歩く。

 五メートル先或いは三メートル先あるいは二十メートル先であのいろのうすいひとみがぼくを見つめている。ぼくを部屋の中へと招き入れようとしている。

 おいで。おいで。

 いろのうすいひとみが。

 ぼくを招き入れようとしている。

 鏡凛燐の部屋に。

 蝙蝠たちが笑っている。穏やかに、笑っている。

 ぼくは後悔している。心のどこかで後悔しているこのような人生を歩んできてしまったことを。壊れた人間として壊れた人生を歩んできてしまったことを。

 鏡凛燐はおそらく知っている。ぼくが壊れた人生を歩んできたことを後悔していることをおそらく知っている。

 ぼくを救おうと?

 もしかしたら、鏡凛燐はぼくを救うためにぼくを家に招いたのかもしれない。

 そもそも初めから、ぼくのことを救ってくれようとしていたのかもしれない。

 いろのうすいひとみは。

 ぼくを見ている。くもりなきまなこ。

 ぼくを救うための瞳。目。眼。

 鏡凛燐の両眼はぼくを見つめている。

 ぼくは鏡凛燐の部屋に足を「あ」

「あ」

 鏡凛燐がおもむろに立ち上がり、ぼくの目の前に立った。それから唇を吸い始めた。

「はむ、はむ」

 うそだ。

 こんなものは嘘だ。

 全て壊れているとしても世界が壊れているとしても、これだけは嘘だ。

 しかししかし、鏡凛燐はぼくに接吻している。

「わぁっ」ぼくは鏡凛燐を振り払った。唇が切れて血が飛び散った。

「なんで、なんでこんなことするんだよ」鏡凛燐が言った。取り乱している。

「お前が、鏡凛燐が、ぼくのことを救おうとしていたんじゃなかったのかよ」鏡凛燐が言った。体を震わせ顔を真っ赤にして叫ぶ。

「お前がぼくの救いじゃなかったのか?」鏡凛燐が言った。「これも嘘? まさか、これも嘘? 鏡凛燐がぼくを救うことが嘘? つまり救いは存在しない?」

 鏡凛燐は取り乱している。聞いたことのない声を発している。

 ぼくが言うべきことを代弁している。

 あー。

 救いがない。

 壊れている?

 世界のみならず、救いも壊れている? つまり、実在物のみならず、概念さえも、狂っている?

 ぼくは、カーペットの上に嘔吐した。胃液が飛び散った。

「わたしはわたしを救うためにあなたをここに連れてきました」鏡凛燐が普段の声音で言った。

 二匹の蝙蝠は鏡凛燐の後ろに立ってにやにやと笑んでいる。

「性欲さ」おルン千代が言った。

「ただの性欲なのさ」ウェん千代が言った。

「え」

「単に性欲を満たすために」「鏡凛燐はきみを」「人形にしたんだ」「でも当然でしょ?」「鏡も人間なんだからさ」「自分の大事な大事な性欲を」「偉大な偉大な性欲を」「満たしたいんだよ」

 鏡凛燐は目を伏せている。やがてぽつりと言った。

「わたしはずっとあなたを探していました。わたしの性的欲求をまったく満たせる人間を探していたのです」

 ぼくは、顔を上げた鏡凛燐を見て、ぼくを見る鏡凛燐を見て、ひどく失望した。

 救いがないということに失望した。

 鏡凛燐もただの性的欲求者だということに失望した。

 そして、いまだ壊れ、狂い、歪んだ価値観が頭の至る所に性欲と粘液と一緒に絡みついているぼく自身に失望した。

「ああああああああああああ。死にたい死にたい死にたい死にたい」

 結局は、最後のところ結局は自死するしかないのかもしれない。生を自ら辞するしかないのかもしれない。苦しみがぼくを取り囲んで押しつぶそうとしている。ぼくは怒りながらも死ぬことを受け入れている。他者に対して怒り、苦しみの責を自らに負っている。

 腹が立つのは周りのせい。

 でも、生きているのは自分のせい。

 鏡凛燐が服を脱ぎ、ぼくに身体を擦り付ける。一心不乱に擦り付ける。

 こわい。こわい。苦しい。

 この苦しみの根源がぼく自身にあることが。

 世界がぼくを見つめていることが。

 救いがないことが。

「ごめんなさい」「ぼくごめんなさい」

 ぼくの内側は分裂を始めている。

「ぼくは」「ずっと」「救われたいと」「思っていた」「けれど」「でも」「救われたいだけで」「そう願っただけで」「祈っただけで」「救われることはなく」「何かを信仰したところで」「救われることはなく」「苦しみの根源を理解したところで」「救われることはなく」「誰かを救ったところで」「救われることはなく」「死んだところで」「救われることはなく」「ただ」「ただ」「ただ」「静かにして」「静かにして!」「静かにして」「じっとして」「誰にも隠れて息をして」「誰の迷惑にもならず」「ただ」「最低限の代謝のみして」「ただ」「ただ」「生きていたとしても」「ただ生きていたとしても」

「救われることはない」

「何を言っているの?」鏡凛燐がぼくの唇を擽って言う。「救いが必要だと? 今この瞬間、救いが必要だと?」

 鏡凛燐はぼくの胸に自分の胸を押し付ける。

「救いは忘我によって得られるのです。つまり己ではない己になることが救いなのです。それは真に自己を否定することでもあります。

 真なる自己否定は自己嫌悪ではありません。また、自己愛も必要ありません。

 救いとは外からやってくるものであり、同時に自己からの脱出であるのです」

 鏡凛燐は自分の性器をまさぐり、自慰行為を始めた。

「あなたは性的欲求を嫌悪しているようですけれど。わたしにとって、性行為は救いなのですよ?」

 鏡凛燐がぼくの目を見上げる。覗き込む。目の中に色が見える。鏡凛燐の色が見える。

 切実な鏡凛燐の身体は張り詰めている。

 救いの期待に張り詰めている。

 救いが、ぼくには救いがない。ぼくが受け取るはずだった救いは失われてしまった。

 あぁ、でも。でも、あ、でもなぁ。

 かわいいなぁ。

 鏡凛燐の目を見ながらそう思った。

 なんか、かわいいなぁ。鏡凛燐。なんか小さくて、白くて、細くて。なんか、普通にかわいいなぁ。

 もう、なんか、いいか。救われないけど、いいや。セックスしたところで救われないけど、でも、もうどうでもいいや。

 ほら鏡凛燐がぼくを待っている。

 口腔をわずかに開いて待っている。

 ぼくは鏡凛燐の唇を吸った。

「はむ」

「はむはむ」

「はむはむ」

 はむ。

 はむ。


 ぼくも救われない世界の一部になってしまいました。

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呪い師 鏡凛燐さん(のろいし かがみりんりんさん) @oeee

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