向こうの私

@saikokuya

向こうの私

私はいつも、

荒川のS市側で釣りをしている。

藪をかき分けてしか入れないような場所で、

釣り人の姿を見かけることはほとんどない。


だからこそ、

水の変化に集中できるし、

魚の反応も素直だ。

あの静けさが気に入っている。


けれど今日は事情が違った。


朝から予定が入り、

川に着いたのは昼近く。

時間もなく、

重いタックルを担いで

藪を抜けるのが億劫だった。


仕方なく、

普段は対岸から見るだけのA市側――

釣り人が多く並ぶ、

にぎやかなポイントに立った。


人の声、足音、

頻繁なキャストの音。

どこか落ち着かず、

ついS市側へ目をやってしまう。


そして、見てしまった。


あの藪の切れ間。

いつも自分が立つその場所に、

人影がひとつ。


遠くて顔は見えないが、

竿の構え方や立ち姿に見覚えがある。

というより、

あれはまるで、

自分自身だった。


近くで釣っていた若い男がつぶやいた。


「対岸の人……

なんか、さっきから

俺らの動きと同じですよね」


私は曖昧に笑ったが、

喉の奥が妙に乾いていた。


その夕方、

釣り仲間からメッセージが届いた。

今日の釣り場を

ドローンで撮ったという

写真が添えられていた。


上空から見た

A市側の河原には、

複数の釣り人が

はっきりと映っている。


だが、

そこに私の姿だけがなかった。


代わりに、

S市側――

藪の前の、

私がいつも立つ場所に、

ひとつの影が

はっきりと立っていた。


まるで、

今日も変わらず

そこにいた“私”のように。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

向こうの私 @saikokuya @saikokuya

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ