第2話 カナダ湖霊の森と白い天使 前編

第一節 針葉樹の森へ


22世紀初頭 かつてカナダと呼ばれた北米大陸北部

早朝の薄明かりが針葉樹の森を照らし始めた頃、旅支度を終えたムロイシ母子が湖霊の森へと向かっていた。目的地は北へ数十キロ先にある深い森。春の訪れと共に覚醒し始めた針葉樹林だが、気温はまだ数度程度にとどまっている。


「母ちゃん、寒いよ!町より寒い!」

フネサカが茶色い布製の外套を身体に巻きつけながら訴える。


「おいおい、どうした?子供は風の子だろう?

入るはずだったノースタウンのジュニア寮の近くはもっと...雪が降るほど寒いぞ!」

ガンディナも同じような粗末な衣服に身を包んでいるが、その筋肉質な体は寒さな

ど意に介さない様子だった。


「えー!マジで!雪は見たいな!」


「3月に雪は見たばかりじゃん。」


「1ヶ月したら見たくなった!」


母子の他愛ない会話が、森の静寂に響いている。一枚の服とズボン、旅人用の茶色い布で覆われた二人は、見晴らしの良い丘で昼食の休憩を取ることにした。

風呂敷を広げた岩の上には、まだ中身がふわふわのパンと骨付きの鹿肉が並んでいる。文明崩壊後の世界では、これでも十分に豪華な食事だった。

ガンディナは骨付き鹿肉を素手で引きちぎりながら、重要な話を始めた。


「いいかい、フネサカ。湖霊の森には猛獣がいるんだ。昼間はまず襲ってこないが、夜に活動を開始する。この森にはコヨーテとオオカミがいる。コヨーテは私がいればどうってことないが、オオカミは危険だ。だから、夜になったら手頃な木を見つけて木の上で寝よう。もし休む前にオオカミが襲ってきたら、命がけで戦うんだよ。」


「どうやって戦うの?」

フネサカの真剣な表情に、ガンディナは戦士としての知識を伝授し始めた。


「まず、オオカミは群れで狩りをする。獲物を囲んだら、強いオオカミが襲いかかってくる。だから、襲いかかってくる瞬間にカウンターでキックを下から横っ腹か脚に叩き込むといい。もし外したら、深入りはしない。オオカミの顔の前に手は出さない。噛まれるからな。」


「飛び掛られたら?」

フネサカの顔に不安の色が浮かんだ。


「そうなったら、しょうがない。手足を噛まれないよう注意しながら、腹を蹴っ飛ばすか、腕で押し倒すしかないね。大人のオオカミはあんたよりでかいから、無理だ。大人のオオカミは絶対に私が相手するよ。」

ガンディナの毅然とした態度に、フネサカは心強さを感じた。


「じゃあ、俺は子供のオオカミと戦うよ!」

ガンディナは苦笑した。


「子供のオオカミも舐めない方がいいよ。自分からは行かないこと。相手に襲いかかられたら、その時にはじめて戦うんだよ。」


「ちぇっ、わかったよ。襲われてから戦うよ。」

フネサカは少々拗ねた様子で言ったが、それでも母の言葉を素直に受け入れていた。


二人は昼食を食べ終わり、ひと息ついた後、目の前の道程に再び向き直った。夜になる前に距離を稼ぐため、早足で歩き出す。それぞれの心には、これからの森で待ち構えているであろう試練への覚悟と期待が満ちていた。




第二節 夜の訪れと遠吠え


夕刻 湖霊の森深部


夕闇が森を包み始めた。穏やかな夕日が針葉樹の森を照らす中で、二人の旅人が力強く歩き続けていた。しかし、時折襲いくる疲労と戦いながら、彼らの歩みは徐々に鈍っていく。

その日が終わる頃、彼らは一本の巨大な木の下に立ち止まった。ガンディナはほんの一瞬、周囲の音を聞くために息を呑んだ。


「聞こえる...少し聞こえるね。」


「何が?」

フネサカは母の突然の言葉に疑問を抱きながら尋ねた。


「オオカミの遠吠えよ。」

ガンディナは固く結んだ口元を緩め、その目は暗闇に向けられている。


「あんたも耳を立ててみな。遠くからわずかに聞こえる。」


「ホントに?」

フネサカは疑念を抱きつつも、言われるがままに耳を澄ませた。そして、現実を突きつけるように、微かな「ワォーン」というオオカミの遠吠えが彼の耳に響いた。


「夜までもう少し歩きたいところだけど、オオカミに襲われる前に木に登った方がいいかもしれないねぇ。」


「俺、木に登ったことあるよ!低い木だけど。」

フネサカは豪胆な笑顔で返答したが、ガンディナは慎重だった。


「この木は高い木だから、落ちたら怪我するよ。慎重に登るんだよ。」


ガンディナの助言を受け入れたフネサカは、大木への登攀を開始した。母の手助けなしには不可能な作業だったが、彼女は確実に、そして器用に木を登り、息子が落ちないように登る場所を指示して上手く登り切らせた。

大きな木の上からは、彼らが通った針葉樹の森の道以外にも、広大な草原や流れる川が見渡せた。また、オオカミやコヨーテのような動物も、その高さから見れば豆粒のように小さく見えた。

木の上でひと息つき、旅の疲れを癒す二人。だが、静寂が長く続きすぎると、フネサカの退屈が顔を覗かせ始めた。


「母ちゃん、まだ寝るには早いし退屈だよ。何かやることない?」


「降りても歩いたあげくにオオカミかコヨーテと戦うぐらいしかやることないよ。今日は早く寝て、明日の朝早くに出発すれば一日が長くなるよ。」


「コヨーテは俺でも勝てそうだけど、オオカミは怖いなぁ。

人間ぐらいあるんでしょ?」

ガンディナは毛布を手渡し、安定した場所を指示した。


「これ毛布だよ。これをかけて木の割れ目の安定したところで寝な。

朝は起こしてあげるから。」


大きな木の上からは、雲がかかった空が見え、月の光がその針葉樹の森を神秘的に照らし出していた。木々の間から漏れる月光が地面を白く照らし、針葉樹の森が一面、銀色の絨毯を敷き詰められたかのように見えた。

フネサカが眠りにつこうとしたその瞬間、ガンディナの視線は数百メートル先の草原に留まった。彼女の目には、草原を移動する小さな集団が映っていた。


「母ちゃん?どうした?」


「シッ!動物じゃない、草原に人の集団がいる。

私たちと逆の方向に歩いているね。」


「母ちゃんと住んでいた町の方向?」

フネサカが問いかけると、ガンディナはゆっくりと頷いた。


「方向がそっちだね。ここらの木は細い木が多いから、寝床になる木を探しているのかもしれないね。でも、見てみな。遠くからオオカミの群れが彼らの後ろを追いかけてきている。」


「え!まずくない?」

驚きの声を上げるフネサカに対し、ガンディナは息子に向かって声を低くした。


「母ちゃんが助けに行くから、あんたは木の上でおとなしくしてるんだよ!」


その言葉と共に、ガンディナは木から飛び降り、短い距離をすばやく駆け出していく。彼女の背中は、木の間から射す月の光に照らされ、まるで影を描いていた。


「待ってよ!母ちゃん!」


フネサカの声が木の上から響く。しかし、その声は遠くなっていく母の姿に届くことはなかった。フネサカもすぐに木を降り、母の後を追いかけて走り出した。

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