第21話 揺らぎ



大渓谷周辺 北の森


森を歩く足音が、霜の上で鈍く響いた。

灰衣の男は、外套の襟を立てたまま、無言で歩いていた。

空気は冷たく、息を吐くたびに白く揺れる。

遠くで梟が鳴いた。夜明けはまだ遠い。


腰の袋には、小さな包みと小瓶――

数日前、王都から来た下級貴族に渡されたものが入っている。

“護符を埋めろ。種を飲め。”

それだけが命令だった。

報酬の額は、命の値段としては悪くなかった。


やがて、木々が途切れた。

岩棚の手前、雪の積もらぬ一角。

大地が呼吸しているように、冷気が下から滲んでいる。


男は跪き、土を掘った。

凍った地面が、何度も鍬を跳ね返す。

指先に力を込めて掘り進め、

ようやく拳ほどの穴を開ける。


包みを解く。

紫の光が、闇の中で微かに揺れた。

魔水晶。

表面に映る自分の顔が、妙に遠く見える。


「……ここでいいか。」

誰にともなく呟き、穴にそれを埋めた。

土を戻し、軽く踏み固める。

その瞬間、足の裏に冷たい震えが伝わった。

まるで、大地の奥から“何かが応えた”ようだった。


男は思わず息を詰め、懐から小瓶を取り出した。

黒い種が、液の中でゆらりと光っている。

貴族の言葉が脳裏に蘇る。

「理の気配を鎮める薬だ。魔獣に悟られずに戻れる。」


「……理を、鎮める?」

男は嗤った。

この森に理など、あるのか――。


瓶の栓を抜き、種を掌に転がす。

意外なほど軽い。

それを舌の上に乗せ、噛み砕いた。


苦味と同時に、強烈な熱が走った。

喉が焼け、胃が裏返る。

目の前が歪み、音が遠のく。


「……が、あ……!」


体内で何かが爆ぜた。

理気が暴走し、血管が黒く染まっていく。

骨の中で、何かが軋む。

指が勝手に動き、爪が土を掻いた。


周囲の空気が、急に冷えた。

森の奥から、低い唸り声。

金色の瞳が、いくつも闇に浮かぶ。


魔獣。


男は反射的に剣を抜いた。

だが腕が震え、刃を握る感覚がない。

足元の地面が波打つように揺れる。

頭の中で何かが囁いた。

――“呼べ。理の外を、開け。”


「……冗談、じゃ……」


声にならなかった。

次の瞬間、光が弾け、獣の咆哮が夜を裂く。

剣が折れ、身体が宙に舞う。

血と土の匂いの中で、男は空を見た。

その空の向こう――

見たこともないほど深い闇が、こちらを覗いていた。


森が沈黙した。

風が止み、世界がひと呼吸、静止する。


地に埋められた魔水晶だけが、

淡く、一定の間隔で脈を打っていた。

まるで、理そのものが“息をしている”かのように。



神殿第四層 上位会議室



夜明けの光が円窓に差し込む前、白衣の神官たちが静かに集まっていた。


部屋の中央には、理核柱から伸びる副導線が通り、

床一面の文様が淡い青光を脈打っている。

まるで、神殿そのものが呼吸しているかのようだった。


壁には晶板が並び、理波観測の最新記録が刻まれている。

波形はほとんど安定しているが、

ごく微細な“揺らぎ”がまだ消えていなかった。

あの“理の門が呼吸した”と観測された日から、

すでに数日が経っていた。


サリウスは円卓に着くと、報告書の束を丁寧に揃えた。

若い記録官が立ち上がり、慎重な口調で報告を始める。


「……理層観測値、午前刻の平均偏差は基準値の〇・一七。

 門呼吸の余波は減少傾向にあります。

 ただし、北方観測網における理気濃度が一・二一倍。

 王国防衛局より、魔獣出現率上昇の報告が届いております。」


静かなざわめきが広がった。

理気濃度の変化は、地脈の異常を意味する。

それが北辺――大渓谷周辺で観測されたという事実が、

場の空気をわずかに緊張させた。


レメゲトンがゆっくりと顔を上げる。

皺の刻まれたその眼光には、深い理光が宿っている。


「魔獣の出現が増したか……具体的な数はどうかね。」


「前月比で一割ほどです。

 被害は軽微、現地警備隊のみで対処可能とのこと。

 報告上は“季節的変動”として扱われています。」


サリウスは軽く頷き、晶板の数値を目で追った。

青白い波形が規則的に脈を打っている。

だがその律動の一部に、微かに違和感があった。

まるで、誰かが外から呼吸を合わせているかのような、ずれ。


「理の波は落ち着いてはいますが……」

サリウスは静かに言葉を継いだ。

「北辺での理気上昇は、偶然というよりも“応答”に近いように思われます。

 理が息をしたことで、世界がそれに呼吸を合わせているのかもしれません。」


「応答、か。」

レメゲトンが目を細めた。

「理が一度“息をした”後には、必ず何かが目を覚ます。

 古記にもそう記されている。

 三百年前――ゼル=アマディウスの時も同じことが起きた。」


「確か……門は開かずとも、外側からの干渉が確認されたと記されていますね。」

サリウスが応じると、周囲の若い神官たちが息を呑んだ。


レメゲトンは頷き、古びた書簡を指でなぞる。

「理が呼吸すれば、世界の境は薄くなる。

 その揺らぎが、獣を呼び、理外のものを誘う。

 我らが“理の子”であるなら、彼らは“外の理の子”だ。

 理に秩序があるなら、外理には混沌がある。」


室内の空気が、さらに静まった。

サリウスは少しの間、言葉を選ぶように沈黙し、

やがて穏やかな声で言った。


「……師のお考えには、確かに一理あります。

 ただ、いま観測されている範囲は理論的に安定しています。

 王家への報告は“収束傾向”としてまとめておくのが妥当でしょう。

 理の呼吸の余波は、いずれ静かに消えるはずです。」


「ふむ。では君は、“まだ”ではなく、“すでに”と見るのだな。」

レメゲトンの問いは穏やかだったが、

その奥にある意図は鋭かった。


サリウスは一拍置いて、わずかに微笑んだ。

「はい。私は、理が意志を持つとは考えていません。

 ですが、もし理に“心”があるとするなら――

 いまはその心が落ち着きを取り戻している最中なのでしょう。」


老学者の眉が、わずかに動いた。

「なるほど。理を慰撫するような考え方だ。

 だが、静けさの後には必ず“応答”がある。

 理は沈黙する前に、一度だけ何かを伝えようとする。

 それを聞き逃すな。」


サリウスは深く頷いた。

「承知しました。観測記録は引き続き監視します。

 もし周期の乱れが続くようであれば、

 理層安定会に再報告を上げる手筈を整えます。」


会議はその後、形式的な報告に移った。

封印層の警備、儀式の進行、祈祷者の異動――

淡々とした声が響き、書簡が交換されていく。


それでもサリウスの耳には、

晶板の奥から響くかすかな“呼吸音”が残っていた。

数字では説明できない、微かな律動。

それは理核柱の鼓動と一致していた。


やがて会議が終わり、神官たちは散っていった。

残ったのは、サリウスとレメゲトンの二人。


部屋の理光がゆるやかに揺れ、

静寂の中に、神殿全体の呼吸が感じられる。


「……レメゲトン師。」

サリウスが声をかけた。

「北辺の観測記録に、一瞬だけ特異な波形がありました。

 こちらの理核柱と同調するような動きです。

 ほんの一瞬ですが……まるで、同じ“息”をしているようでした。」


レメゲトンは椅子の背に身を預け、目を細めた。

「王家の理波と共鳴した時と似ているかね?」


「ええ。ただ今回は――もう少し深い層で。

 理そのものが、別の理と“重なろう”としているように見えました。」


老学者はしばし沈黙し、

やがて低く呟いた。


「門は……完全には閉じておらぬ、ということか。」


「はい。現時点では推測の域を出ませんが、

 理核が呼吸を止めていないことだけは確かです。」


サリウスはそう言って手帳を開き、

淡い筆致で数行を書き込んだ。


観測値:呼吸継続。外理波形との同期痕跡。

備考:理層深部に微弱な共鳴感あり。内容不明。


レメゲトンはその文字を見て、小さく息を吐いた。

「……あの時もそうだった。

 理は静まり返る前に、必ずひとつだけ“息”を残す。

 その息が、門を呼ぶ鍵になる。」


青い光が再び脈動する。

理核柱の副導線が、ほとんど imperceptibly(感知できないほど)に明滅した。

それは誰かの心臓の鼓動のようで――

だが確かに、この世のどこか別の場所と“呼応”していた。


サリウスはその光を見つめながら、

静かに言葉を零した。


「理が息をするたび、この世界は少しだけ揺らぎます。

 ――それでも、私たちは見続けるしかありませんね。」


レメゲトンは目を閉じ、

その言葉を肯定するようにゆっくり頷いた。


「見届けることが我らの務めだ。

 理が何を語るのか――それを知る者は、まだいない。」


外では、夜明けの鐘が鳴り始めていた。

神殿の壁が淡く光り、青白い理の脈動が一瞬だけ強くなる。

その光の中で、

サリウスの瞳がわずかに揺れた。


彼は知っていた。

理は沈黙していない――

ただ、次の言葉を選んでいるのだと。



王宮 執務室



王宮の執務室には、まだ朝の光が届いていなかった。

高窓の外では薄い霧が漂い、遠くで鐘の音がかすかに響いている。


マグダレーナ王妃は、白い手袋を外しながら報告書に目を通していた。

机上には、神殿から届けられた定時書簡と、王国防衛局からの報告文が並ぶ。

その横に立つエルンストは、姿勢を崩さぬまま静かに目を伏せていた。


「……理層の安定、観測値の偏差〇・一七。

 神殿側の結論は“収束傾向”……そう記されていますね。」

王妃の声は落ち着いていたが、どこか冷たい余韻を含んでいた。


「はい、陛下。」

エルンストが一歩前に出る。

「神殿では“理の呼吸”が完全に収束しつつあると判断しております。

 ただ、同報に添付された防衛局の記録によれば、北方の魔獣出現率が一割ほど増加。

 被害は軽微ですが、理気濃度が上昇しているとの報告もあります。」


王妃は指先で書面をなぞり、眉をわずかに寄せた。

「一割。……それが“兆し”でないと、どうして言い切れるのかしら。」


エルンストはわずかに息を整え、

「現時点では季節的な揺らぎの範囲内とされております。

 神殿側も同様の見解です。理気濃度の偏りが数週間続くようであれば、

 正式な報告として上がるでしょう。」


「つまり、まだ“問題ではない”ということですね。」

王妃の声には、淡い皮肉が混じった。

彼女の視線が一瞬だけ窓の外へ向く。

霧の向こうで、王都の屋根がかすかに揺れて見えた。


「理は見えぬもの。

 人の心と同じで、静かに乱れる時こそ、最も危ういのです。」


その言葉に、エルンストはわずかに目を伏せた。

彼女の“理”という言葉の響きには、

単なる神殿の語彙以上のもの――

王家に受け継がれる“理の血”の感覚があった。


その時、執務室の扉がノックされる。

応じる前に扉が開き、カイエルが姿を現した。

軽装のまま、剣を腰に帯びている。


「ご報告を伺いました。」

彼は一礼し、机上の書簡を一瞥した。

「北辺での理気の上昇。

 魔獣の出現は、やはり理層の流れに呼応しているようですね。」


「神殿は“自然現象”と見ています。」

エルンストが答える。

「理核の呼吸に起因する微小な波形――

 いまのところ、人為的な干渉は見られません。」


カイエルは短く息を吐き、

「ですが、私の部下の中には異変を感じ取る者もいます。

 空気が少し重い、風の向きが変わった――そんな曖昧な感覚ですが。」


「感覚は時に、理よりも正確です。」

マグダレーナが静かに言葉を重ねた。

「理が動く時、人の心はそれを先に感じる。

 それを“予兆”と呼ぶのですよ。」


一瞬、室内の空気が張り詰めた。

カイエルは真っ直ぐに王妃を見つめる。

「――陛下は、何かを感じておられるのですか。」


王妃は目を閉じ、短く息を整えた。

「感じる……というより、“覚えている”のです。

 理が息をしたとき、何が起こるかを。」


沈黙が落ちた。

エルンストが小さく咳払いをし、報告書を閉じる。

「現時点では警戒段階の引き上げは不要と判断します。

 しかし、北辺の警備を増員し、情報収集を強化いたします。」


王妃は頷き、

「ええ、お願いします。

 理が安定しているうちに、秩序を整えておきましょう。

 理が乱れた時、国がそれに耐えられるように。」


「承知しました。」

エルンストは深く一礼した。


カイエルはその様子を見守りながら、

ふと、胸の奥にひっかかる感覚を覚えていた。

北庭で交えたラグナの剣。

あの時、自分の刃と交差した瞬間に走った“理の光”――

あれは偶然のものではなかった。


王妃の声が静かに響く。

「……カイエル、あなたの剣は“理”に触れられるのね。」


「陛下……?」


「ええ。あの剣は、見ている者を照らす光を持っています。

 どうか、その光を濁らせないで。」


カイエルは一瞬、言葉を失った。

そしてゆっくりと頷いた。

「――心得ております。」


エルンストが書簡をまとめ、封印印を押す。

「神殿への返答は、通常通りの形式で。

 “王家として理層の安定を確認”――そう記載します。」


「ええ。それで構いません。」

王妃は再び窓の外に目を向けた。

霧の向こう、朝日がゆっくりと昇り始めていた。

光が差し込むと、室内の空気がわずかに澄んだ。


しかしその瞬間――

王妃はわずかに眉をひそめた。

光が、わずかに揺らいで見えたのだ。

まるで空そのものが、呼吸しているように。


エルンストは気づかず、手早く書簡を整えていた。

カイエルだけが、その視線の動きを見ていた。

だが彼は何も言わなかった。


王妃は静かに立ち上がり、背を向けた。

「……理が乱れる前に、王が動く。

 それがこの国の秩序です。」


その声には、微かな祈りのような響きがあった。



神殿第六層 観環室



理核柱を囲む円環の床に、青白い光の紋が静かに呼吸している。


サリウスは中央の観測台に立ち、手元の水晶盤を調整していた。

盤面の上では幾本もの理波が光の線となって交差し、

そのひとつひとつが世界の律動を示している。


レメゲトンは少し離れた位置から、重い視線を柱の奥へ向けていた。

彼の背後で、複数の補助官が静かに記録を取っている。

声を発する者はいない。

この層では、言葉のひとつも理を乱すと信じられているからだ。


「……波形、変位値〇・〇三。

 安定域から外れつつあります。」


若い神官の報告に、サリウスは頷いた。

指先を滑らせると、水晶盤の中心に微細な脈動が浮かび上がる。

それはまるで、心臓の鼓動のようにゆっくりと――だが確かに、生きていた。


「……また、呼吸している。」

レメゲトンの低い声が響く。

「昼の観測では収束していたはずだ。理は、なぜ再び動く?」


サリウスは盤面に映る波形を見つめた。

二つの主波――王家の理と神殿の理が、

まるで互いを探り合うように重なり、そして離れていく。


「昼の揺らぎが完全に収束しなかったのかもしれません。

 あるいは……」

彼は少し間を置き、慎重に言葉を選んだ。

「外からの“呼応”が、再び始まったのかもしれません。」


レメゲトンが振り返る。

「外理の兆候を確認できるか?」


「確証はまだありません。

 ですが、第三波形の出現が見られます。

 位相差〇・五七。内理の律動と一致しません。」


室内が一瞬、暗くなった。

理核柱の光がわずかに弱まり、

代わりに、見たことのない淡紅の光が空間を走った。


若い神官が息を呑む。

「これは……!」


「慌てるな。」

レメゲトンが手を上げて制した。

その声は静かだったが、理光さえも鎮めるような響きを持っていた。


淡紅の光はすぐに青へと戻り、室内は再び静けさを取り戻す。

だが、サリウスの指先は微かに震えていた。


「第三波形、消失。……しかし残響が残っています。

 理核が何かを“受け取った”ような反応です。」


「何を受け取った?」

「……分かりません。けれど、波形の律動は人為的ではありません。

 理そのものが、何かに“応えよう”としている。」


レメゲトンはしばし黙り込み、やがて静かに呟いた。

「理が応える時――それは、門が再び呼吸を始めた証だ。」


観環室の奥、理核柱の中心部がわずかに輝いた。

光の中に、わずかに影が差す。

それは像を結ぶには至らない、理の残響のような揺らめき。


サリウスは息を詰め、観測盤に手を置いた。

音もなく、波形が再び浮かび上がる。

青、金、そして――淡い白。


「……白い波?」

彼の声は低く、ほとんど祈りのようだった。


「白は“無相”。理の中でもっとも純粋な共鳴だ。」

レメゲトンが静かに目を細める。

「だが同時に、それは“外”の色でもある。

 理が完全に閉じた世界では、白は存在しない。」


サリウスの瞳に、理光が映る。

そこには、わずかな震え――そして畏れがあった。

彼は低く呟いた。


「まるで……誰かが、こちらを覗いているようだ。」


レメゲトンの表情が僅かに強張る。

「観測を止めろ。理は見られることを嫌う。」


「しかし、もしこの呼吸が――」


その時だった。

理核柱の中心が一瞬、強く光を放つ。

光が円環の床を走り、壁の文様を照らす。

観環室全体が、まるで心臓のように一度だけ脈動した。


そして――静寂。


何も起きなかった。

ただ、すべての理波が完全に止まっていた。


若い神官が怯えたように声を上げる。

「理波が……消えました!」


サリウスは息を詰めたまま、盤を凝視していた。

やがて微かに、波形が戻る。

だがその周期は、これまでとは違っていた。

まるで、二つの理にもうひとつ――第三の息が混じっているような、奇妙な律動。


「……この波形、以前の記録と一致しません。」

「理の“外”が、門の奥で息をしている。」

レメゲトンの声は、かすかに震えていた。


サリウスは瞼を閉じ、

冷たい光の中で静かに祈るように呟いた。


「理が息をする時、世界は問いを発する。

 ――私たちは、それに答えられるだろうか。」


理核柱の光がわずかに脈を打つ。

それはまるで、遠い場所で同じ息をする者がいるかのように――

ゆっくりと、確かに、呼吸していた。



───



夕陽が王都の屋根を焼いていた。

王宮の高窓に差し込む光が、床の文様を朱に染め、長い影を描く。

風は静かでありながら、どこか重い。

王都の空気全体が、見えぬ何かに耳を澄ませているようだった。


カイエルは、訓練を終えた中庭を横切っていた。

軽装の上着を羽織り、剣を腰に帯びたまま。

疲労よりも、胸の奥に残るざらついた感覚の方が気になっていた。


ふと、足を止めて空を見上げる。

沈みかけた陽の輪郭が、わずかに揺れて見えた。

風が頬を撫で、衣の裾を掠める。


「……理が、まだ眠ってはいないのか。」

呟いた声は、夕の空気に溶けた。


「殿下。」


背後から、落ち着いた低音が届く。

振り返ると、エルンストが歩み寄ってきていた。

外套の裾が風に揺れ、手には封書が一通。

長い年月を重ねたその佇まいは、まるで剣そのもののように静かで確かな存在感を放っていた。


「神殿より、定時の報告が上がっております。」


「理層の観測か。」


「はい。昼の時点では安定を保っていたとのこと。

 北辺の魔獣出現も減少傾向――危険域には至らぬ、と。」


カイエルは短く頷いた。

「安定、か……」

その言葉を反芻するように口にし、静かに息を吐いた。

「人は、理が沈黙していると、すぐ安心してしまう。

 けれど、それは眠りではなく、息継ぎかもしれない。」


エルンストの視線が、彼の横顔を捉える。

「殿下は、理の動きを感じておられるのですね。」


「ええ。」

カイエルは空を見たまま言った。

「胸の奥に、あの日と同じ鼓動がある。

 北庭でラグナと剣を交えた時――理が光を放った瞬間の感覚。

 あれが今も消えずに残っている。」


「……理が応えたのですな。」

エルンストの声が、夕風に溶けた。


「そうかもしれません。

 あの光は、彼の剣が放ったものではなく、

 “理が応えた”結果だったのかもしれない。」


沈黙が二人の間を流れた。

遠くで鐘が鳴り、陽光が緩やかに色を失っていく。


エルンストは封書を閉じ、ゆっくりと口を開いた。

「……その感覚を、お忘れなきよう。

 理は人を選ぶもの。だが、選ばれた側がその意味を知るのは、いつも遅い。」


カイエルは目を伏せ、わずかに微笑んだ。

「あなたらしい言葉だ。いつも“遅い者”のために剣を振ってきた男の。」


エルンストはわずかに肩をすくめた。

「秩序を守るというのは、そういうことです。

 理が息をする時、人は揺らぐ。

 だが、その時こそ、人の意志が試される。」


「……意志、か。」

カイエルは小さく呟いた。

「理に抗うためではなく、共に在るための意志。

 それが、この国の王家に課せられた役目なのだろう。」


「ええ。理を御することはできませぬ。

 ただ、寄り添い、逸れぬように歩むだけです。」


二人の影が、夕陽の中で重なる。

風が通り過ぎ、庭の水面に細い波紋が広がった。


「……あの日の光は、まだ胸の奥に残っています。」

カイエルが静かに言葉を落とす。

「理はもう沈黙したはずなのに、

 時折、あの共鳴の残響が響くのです。」


エルンストは少しだけ目を細めた。

「理は忘れぬものです。

 一度息をしたなら、その記憶はこの世界のどこかに刻まれる。」


その声には、淡い疲労と祈りが混じっていた。


二人はしばらく言葉を交わさず、

朱から藍へと変わる空を見つめていた。


やがて、エルンストが低く言った。

「……理の息は、まだ終わってはおりませんな。」


カイエルは頷き、静かに答えた。

「ええ。だが、恐れることはありません。

 理が息をするのなら、我々はその呼吸に恥じぬよう生きるだけです。」


夕陽が完全に沈み、

王宮の屋根に淡い理光が一筋だけ流れた。


それは、神殿の理核が受け取るほど微弱な光。

だが確かに――この世界が再び、呼吸を始めた証だった。



神殿第六層 観環室



昼間の観測を終えたサリウスとレメゲトンは、すでに上層へ報告に向かっていた。

だが室内には、若い補佐神官が二名、夜間記録のため残っていた。


彼らは黙々と観測器の針を確認し、数値を羊皮紙に書き留めていく。

“安定”。

その文字が何度も並ぶたび、緊張がわずかに緩む。


「……今夜は静かですね。」

一人が呟いた。


もう一人が小さく笑い返す。

「昼間の理波も収まった。あの呼吸も、夢だったのかもしれません。」


しかし、言葉が終わる前に――

室内の空気がわずかに震えた。


灯火の炎が、音もなく揺らぐ。

理核柱の内側で、光の筋が一瞬、逆流するように流れた。

補佐神官たちは顔を見合わせる。


「……いま、見えましたか?」

「ええ。理の流れが、逆……?」


彼らの言葉が途切れる。

観測器の針が微かに震え、紙が一枚めくれた。

その最後の行に、見慣れぬ波線が記録されている。


「これは……何の反応だ?」


返答はなかった。

理核柱の中心が、かすかに明滅していた。

青白い光に、ほんのわずかな“赤”が混じる。


補佐神官の一人が思わず息を呑む。

「まるで……誰かが、息をしたような――」


その瞬間、上層から鐘がひとつ鳴った。

夜の巡礼を告げる時刻。

二人は慌てて記録を巻き取り、報告用の封筒に収めた。


「明朝、サリウス様にお渡ししましょう。」

「はい……これが誤記であればいいのですが。」


彼らが退室すると、

再び静寂が戻った。


だが理核柱の奥――

その光はなおも脈打っていた。


青と赤が交わり、微かな波を生む。

それは神殿の天蓋を抜け、

王宮、そしてさらに北の空へと伝わっていった。


外では、夜風が回廊を渡り、

祈りの鈴が一度だけ鳴った。


――理が再び、息をした。


誰もその意味を知らぬままに。


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2025年12月21日 10:00
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ラグナ 近藤 翠葉 @roki-kakikaki

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