第17話 ガルディア・エルンスト


薄闇に包まれた静寂の神殿。

まだ陽も昇りきらぬ時刻、外の空気はどこか張りつめており、肌に触れる空気さえも冴えていた。


けれど、その冷たさは、どこか清らかで――


それはまるで、今日という“新しい頁”の端をそっとめくる手つきのようだった。




ラグナは、いつもより少し早く目を覚ました。


神殿の私室。簡素な寝台と、白布のかかった窓辺。

部屋にはほのかに朝の香り――乾いた木の香と、外気に含まれる草の気配――が漂っていた。


目を開けた瞬間、意識の奥に残っていた夢の名残が、ゆっくりと霧のようにほどけていく。


(……夢を見ていた気がする)


けれど、それがどんな夢だったのかは思い出せない。

ただ胸の奥に、ぽつりと小石が落ちたような感触だけが残っていた。


ゆっくりと身体を起こし、青と白の衣を取り袖を通す。

窓を開けると、冷たい風が頬を撫で、遠くから――一つ目の鐘の音が聞こえてきた。


「……もう、そんな時刻か」


指先に感じる空気は冷たいが、不快ではなかった。

むしろ、身体を芯から目覚めさせてくれるような凛とした冷たさだった。


ラグナは、ゆっくりと衣の襟を整え、扉を開いた。



神殿の回廊には、まだ誰の姿もなかった。

石造りの柱が朝靄に包まれ、月と太陽の中間のような淡い光が、床に静かな影を落としている。


耳を澄ませば、遠くで聖歌の練習をしているのだろうか、若い声の祈りが微かに聞こえた。

その調べは、朝という時間の神聖さを静かに際立たせている。


回廊を抜け、《朝の間(モルゲン・ホール)》へと入ると、

そこにはいつものように、セラフィナが一人で食卓の準備をしていた。


ラグナの姿に気づくと、彼女は振り返り、にこやかに微笑む。


「おはようございます、主様。……いつもより早いご起床ですね」


「ええ。……今日は少し、歩くべき場所があるんです」


言葉に含みをもたせながら席に着くと、温かなパンと香草の卵料理、甘く煮た果実が並べられた。

どれも質素ながら、心と身体を整える味。


セラフィナは席に着かず、ラグナの背後に立ったまま、手を軽く組んでいた。


「今朝は……“鐘”が三度、鳴りますね」


その一言に、ラグナは手を止めてセラフィナを見上げた。


「――やはり、気づいておられましたか」


「はい。主様が“今日を選ぶ”と分かった時点で、私はもう……見送りの用意をしておりました」


「……剣の道を、です」


「いいえ。主様の“歩み”そのものです」


それ以上のことは言わなかった。

問わず、追わず、ただ彼の選択を信じる目。


ラグナは、手の中の温かなスープを口に運び、静かに頷いた。


やがて、二つ目の鐘が響いた。


音は高く、神殿の天蓋を抜け、空へ昇っていくようだった。


食事を終え、立ち上がると、セラフィナがそっと衣の裾を整えてくれる。


「寒さが残っております。お足元にお気をつけて」


「ありがとう。……行ってきます」


ラグナが扉に向かおうとしたとき、背中に静かな声がかかった。


「主様」


振り返ると、セラフィナは胸の前で両手を組み、目を伏せたままそっと告げる。


「今日という一歩が、明日を形づくる礎となりますように。

 ――私の祈りは、いつでも主様と共にあります」


ラグナは、深く頷いた。

それ以上の言葉は要らなかった。



神殿の外に出た瞬間、澄んだ空気が頬を打った。


三つ目の鐘が、遠くで鳴った。


それはまるで、誰かが何かを始めるための“許し”の音のように――空に静かに、深く鳴り響いた。


ラグナは、ゆっくりと歩き出す。


剣を持つ者として。

選び取った今日という日を、自分の足で刻むために。




———




夜と朝のあわいに在る静寂。

神殿に差し込む黎明の光は、まだ色を定めず、世界の輪郭を薄く滲ませている。

けれどその静けさは、まるで“何か”が始まることを予感して、じっと息を潜めているようでもあった。


セラフィナ・リュミエールは、その光の中に立っていた。



その朝、彼女はいつもよりも早く目を覚ました。

寝台に横たわる身体は疲れを覚えていなかったが、胸の奥にある小さな“ざわめき”が、眠りを許さなかった。


(……あの方は、今日、歩み出される)


そう“知って”いた。

何が起きるか、どこへ向かわれるか、誰と出会われるか――それらは告げられていない。

けれど、ラグナ=クローディアという存在の内側から“何か”が芽吹いていることを、彼女の心は確かに感じ取っていた。


「夢の残り香のような……いえ、祈りの予兆かもしれませんね」


呟きながら、身支度を整える。

白衣を滑らせる指先に、朝の気配がしみ込んでくる。

この日が、ただの“いつも通り”ではないことを、神殿の空気さえも知っているようだった。



朝の間には、まだ誰もいなかった。

陶器の皿を温め、焼きたての黒パンを籠に載せ、湯気の立つスープを用意する。

香草の香りと果実の甘さが漂い始めた頃――


回廊の向こうから、静かな足音が聞こえた。


彼女は、予想していたとおりのその姿を目にして、胸の奥で小さく呼吸を整える。


ラグナは、何も言わずに部屋へ入ってきた。

けれど、その目の奥にある決意を見た瞬間、セラフィナはそっと微笑んで迎えた。


「おはようございます、主様。……いつもより早いご起床ですね」


ラグナは微かに頷いた。

その仕草に、言葉では語れぬ“選び取った意志”が滲んでいた。


(やはり――向かわれるのですね)


神殿の誰にも知られぬまま、あの北庭へ。

カイエル第一王子から告げられた試練の場へ。

“御使”ではなく、一人の「歩む者」として。


セラフィナは席に着かず、ただ背後に立ち、主の背を見守っていた。


「今朝は……“鐘”が三度、鳴りますね」


自然な言葉として口にした。

けれど、その一言に込めた意味を、ラグナはすぐに察した。


「――やはり、気づいておられましたか」


「はい。主様が“今日を選ぶ”と分かった時点で、私はもう……見送りの用意をしておりました」


“共に行く”のではなく、“見送る”という選択。

それは、侍神女としての責務に背を向けることではない。

むしろ逆だった。


この日を迎えるために、彼女はずっと祈り、準備してきたのだ。

いずれラグナが、誰の背にも隠れず、自らの意思で歩き始める日が来ると――


けれど、祈りは時に残酷だ。

それが成就する瞬間、もっとも強い孤独が訪れる。


(私は……主様の隣にいられないのですね)


そう思った時、胸の奥が少しだけ痛んだ。

それは信仰に逆らうものではなく、“願ってしまう心”のかたち。

神に仕える者としての喜びと、人としての寂しさの、わずかな交差点。


けれど、ラグナが最後のスープを飲み干し、席を立ったその姿を見たとき――

セラフィナは、いっさいの迷いを手放していた。


「寒さが残っております。お足元にお気をつけて」


それは、いつもと変わらぬ言葉。

けれどその声の奥には、“どうかご無事で”という深い願いが、そっと忍ばされていた。


ラグナは扉へと向かい、そして振り返った。


セラフィナは、その姿に向かって一歩だけ近づき、手を胸の前で重ねた。


「主様」


彼の瞳がこちらを見つめる。

その一瞬に、彼女はすべてを込めた。


「今日という一歩が、明日を形づくる礎となりますように。

 ――私の祈りは、いつでも主様と共にあります」


それは決して、“気休め”でも“形式”でもなかった。

彼女のすべての言葉と沈黙、祈りと矛盾、そして未来への信頼が込められた、**“侍神女の祈り”**だった。


ラグナは、深く頷いた。

その返礼に、セラフィナは一礼する。


やがて、三つ目の鐘が、神殿の空に高く響いた。


その音を背に、ラグナは静かに扉を開き、歩み出した。

セラフィナは、再び祈りの姿勢を取る。


(どうか……その剣が、主様の手で輝きますように)


音もなく閉じられた扉の向こう、

朝の空が、少しずつ色を変え始めていた。




———




三つ目の鐘が鳴り終えて少し経つ頃――

ラグナは、神殿の石門を静かに抜けていた。


冷たい風が頬を撫でる。

朝の空はまだ低く、光はやわらかい。

けれどその光は、確かに新しい一日の始まりを告げていた。



石畳を踏みしめるたび、足音が小さく響く。

神殿から王城南端の稽古場まで、そう遠くはない距離だったが――

その道のりは、不思議と長く感じられた。


(……ここから、始まるんだ)


ラグナは歩きながら、セラフィナの祈りの言葉を思い出していた。

柔らかな声で紡がれたあの言葉は、彼の背に羽織らせた外套のように、静かに寄り添っていた。


「今日という一歩が、明日を形づくる礎となりますように。

 ――私の祈りは、いつでも主様と共にあります」


あれは、ただの見送りではなかった。

信頼だった。

信仰を越えて、彼という“存在”に向けられた真摯な願いだった。


(……応えたい)


誰に?

セラフィナに?

カイエルに?

神に?

――それとも、自分自身に?


問いは答えを求めない。

ただ、歩を進めることで、その先に何かが見える気がした。


やがて、白壁が視界に現れる。

王家の稽古場、《黎武館》。

その敷地の北端には、竹林に囲まれた静かな空間――“北庭”があった。


門は開かれていた。

けれど、そこに人の気配はほとんどない。


竹の葉が風に揺れ、朝露が微かに光を散らす。

空気は澄んでいて、音が吸い込まれていくような静寂。


ラグナは、境内に足を踏み入れた。


そこに――いた。


男が、ひとり。


白髪まじりの短髪、鍛え抜かれた体躯。

背筋は刃のように真っ直ぐで、無駄のない姿勢のまま、まるで木々の一部のように静かに立っていた。


その佇まいを見た瞬間、ラグナの胸にある何かがぴたりと凪いだ。


(……エルンスト・ガルディア)


彼がこちらを振り返ることはなかった。

それでも、彼がラグナの接近を知っていることは疑いようもなかった。


カイエルの言葉が、胸の内で静かに響く。


「明朝、黎明の鐘が三度鳴る頃。

 黎武館の北庭へ行け。彼は必ずその時刻にいる。

 何も言わずとも、剣を構えれば、それが“挨拶”だ」


言葉はいらない。

ただ、剣を構える――それが出会いの作法。


視線を落とすと、竹の根元に木刀が置かれていた。

迷わず手に取る。

重さはあったが、それよりも“重み”があった。


その瞬間、エルンストが動いた。


静かに、だが確実に、地を踏みしめてこちらに歩み寄る。

無駄な動きが一切なく、歩くだけで気配が変わる。


そして、止まった。


ほんの一歩先に。

互いに、言葉もなく立つ。


ラグナは、深く息を吸った。

そして――木刀を、構えた。


風が止む。


エルンストのまなざしが、初めて真正面からラグナを捉えた。


「……その構え、その眼。よし」


一言。

それだけで、空気が変わる。


「言葉など要らん。剣を通して語れ。

 己が何者であるか――それだけで十分だ」


そして、動いた。


それは“稽古”ではなかった。

試し、問いかけ、測る。

打ち合う中で剥き出しにされる“覚悟”の有無を、剣が問うていた。



その空間には、ただ二人の男と一本の線があった。

線とは――剣。

まだ交わっていない。けれど、すでに始まっている。



エルンスト・ガルディアの踏み込みは、音を立てなかった。

それでいて、一歩ごとに地が鳴る錯覚を覚える。


ラグナが木刀を握り直す間もなく、斬りつけが来た。

鋭く。真っ直ぐ。寸分の迷いもない“打ち”。


(受ける……!)


反射的に木刀を掲げた。

刃がぶつかり、鈍く乾いた音が北庭に響いた。


――掌が、痺れた。


木刀の芯が骨にまで響き、指が離れそうになる。

呼吸が乱れる。

だが、次の打ち込みがもう来ていた。


二太刀。

三太刀。

ーーー合計五合。

容赦はない。

けれど、それは決して“潰すため”の剣ではなかった。


(試されている……!)


気づく。

彼は――“技”ではなく、“立ち方”を見ている。


打たれて、崩されて、それでもどう立ち上がるのか。

どう剣を持ち直し、どう前を向くのか。


額から汗が滴り、足元が滑りそうになる。

指の皮が木刀に擦れ、熱を持つ。


息が荒い。

でも――


ラグナは、下がらなかった。


ただ立つ。

ただ受ける。

ただ、目の前の一太刀に応じる。


それが「戦う」ということではなく――「学ぶ」ための姿勢であることを、本能で理解していた。


「……よし」


数合を交えたのち、エルンストの足が止まる。

木刀が下がり、空気に張り詰めた糸がふと緩む。


「立ち続けたな。

 力も技も未熟――だが、お前には“折れない”ものがある」


そう言って、初めてラグナの目を正面から見据えた。


その目には、わずかだが――“敬意”があった。


「いいか、ラグナ=クローディア。

 剣とは、“倒す”ものではない」


その言葉は、カイエルからも聞いたような気がした。

だが、今ここで聞くそれは、意味がまったく違っていた。


「剣とは、“立つ”ためのものだ。

 誰かを征するためでも、名を上げるためでもない。

 ――己が、己で在るために。

 信ずるものの前に、まっすぐに立ち続けるために。剣は在る」


ラグナは、肩で息をしながら、深く頷いた。

その言葉は、体より先に、心の中で鳴り響いていた。


「よく聞け。“剣を学ぶ”とは、“己を知る”ことに他ならぬ。

 それができるなら、お前は俺の門下に立つ資格がある」


そして、ふいに背を向ける。


「稽古は終わりだ。今日は、な」


歩み去ろうとするその背に、ラグナは迷いなく声をかけた。


「……ありがとうございます」


その背は、返事をしなかった。

けれど一拍置いて、わずかに肩が揺れたようにも見えた。



ラグナは、手のひらの痺れを見つめた。

赤く腫れ、指先は震えている。


けれど、不思議と痛みは感じなかった。

いや、痛みよりも先に、“何かを受け取った”という確かな感触があった。


それは、剣という言葉を通じてしか得られない、最初の“対話”だった。


(これが……剣の世界)


深く、息を吐いた。

その息は、ほんの少し白くなっていた。


朝の空は、いつの間にか澄みきっていた。

最初の一歩を刻んだ北庭には、清々しい静けさが戻っていた。


ラグナは、木刀を竹の根元に戻し、振り返る。


剣を交えたあとの北庭には、朝の静けさが戻っていた。

竹の葉が揺れ、さざ波のように音を立てている。

けれど、その音はどこか優しく、彼の背中を押してくれているようにも感じられた。


ラグナは、深く一礼してから踵を返し、神殿へと向かう道を歩き始めた。



足元の砂利が、かすかに音を立てる。


ラグナの手のひらはまだ痺れていた。

骨の奥に届くような衝撃が、指先にじわじわと残っている。

それでも、痛みというよりは――“余韻”だった。


(……打ち返せなかった。受けるので精一杯だった)


エルンストの一撃は、重くて、鋭くて、それでいて無駄がなかった。

あの人が放つ一太刀には、技術だけじゃない、“在り方”が宿っていた。


(立っていた……それだけだった。俺は剣を振ったか? 向かっていったか?)


答えは、否だった。

ただ、打たれる剣筋を受け止めるので精一杯だった。

攻める余地はなく、考える暇もなく、ただ“倒れないこと”だけに必死だった。


(でも、それでよかったのか?)


自問に、自分の中から静かな声が返る。

それは、どこか冷静で、だが優しさを含んだ声だった。


(……違う。きっと、それだけでは足りない)


ただ立つだけじゃ、戦えない。

受けるだけじゃ、護れない。

“御使”としての力ではなく、“自分”としてどう剣を握るのか。

それを、試されていた。


(何が足りない?)


一歩、また一歩と歩きながら、心の中で問い続ける。


力か? 技術か? 反射神経か?

否――それらは当然としても、もっと根本的なもの。

“振るう理由”――その問いに、まだ自分は答えを持っていない。


(なぜ、俺は剣を学ぼうとしているんだ?)


誰かに認められたいから?

戦えるようになりたいから?

使命を果たすため?


そのどれもが正しくて、けれどどこか薄い気がした。

自分の中に、まだ“芯”が通っていない。


エルンストの剣には、それがあった。

言葉にせずとも伝わる、**「信じるもののために立つ剣」**という覚悟が。


(俺には……まだ、それがない)


セラフィナの祈り。

カイエルの言葉。

神殿での日々。

託された信頼と期待。

それらをすべて受け止めるには、まだ自分は――


(……俺は、弱い)


ラグナは足を止めた。

小さな橋の上。水面が静かに流れている。


その流れを見つめながら、ふと思った。

強くなる、というのは、打ち勝つことじゃない。

“立つ理由”を持ち、“倒れてもまた立つ”と決めることだと――


そう気づいたとき、ようやく胸の奥に、ひとつの言葉が生まれた。


(――俺は、俺として立ちたい)


“御使”としてではなく、“定め”に導かれた存在としてでもなく。


ラグナという一人の人間として、自分の意思で立ちたい。


そのために、今日の一歩があった。


手のひらが、まだ熱を持っている。

それは、剣の重さと共に、自分の内側に残った“問い”の痕跡だった。


ラグナは静かに歩き出した。

神殿の尖塔が、朝の光を浴びて白く光っていた。



神殿へと戻る道のりは、行きと同じはずだった。

けれど、感じる空気はまるで違っていた。

光は眩しさを増し、足取りは少しだけ重く――けれど確かなものになっていた。



足の裏に、地面の温度が伝わってくる。

わずかに汗ばんだ肌に風が触れ、稽古の余熱を運んでいく。


(俺は……まだ、“剣を持つ資格”を得ただけだ)


エルンストの打ち込み、痺れる掌、そしてその言葉の余韻――


「剣とは、己が己であるために立つものだ」


その問いが、胸に沈む。


自分の意思で立とうと思った。

誰かの背後に隠れるのではなく、自分の足で踏み出したのだ。

たとえそれが未熟でも――その“意思”だけは、自分のものだった。


白い外壁が見えてきた。

尖塔の影が少し伸びて、神殿の門前を覆っている。


そして、その門の前に――


彼女は、立っていた。


セラフィナ。

変わらぬ白の衣、控えめに組まれた両手。

その姿は、祈る者の静けさを保ちながらも、どこか“帰りを待つ者”の柔らかさを帯びていた。


ラグナが一歩、門へ近づくと、セラフィナは顔を上げ、優しく微笑んだ。


「お帰りなさいませ、主様」


たったそれだけの言葉だった。

けれど、その声には驚きも探りもなかった。


まるで、“そこに立っていること”が自然であるかのように――

まるで、最初から“待っている”のではなく、“信じていた”かのように。


ラグナは、少しだけ戸惑いながらも、苦笑した。


「……もう少し、遅くなると思ってたんじゃないですか?」


セラフィナはそっと首を振る。


「鐘が三度鳴った刻に、主様は“剣を学びに行かれた”。

 であれば、その帰りの足音も、きっと私の耳に届くと……そう思っておりました」


彼女の言葉は、確信というよりも、祈りが形になったものだった。

それがラグナの胸を、じわりと温める。


「……まだ何も掴めていません。

 でも、“立ち方”を教えられた気がします。

 剣の重さも、恐ろしさも、ほんの少しだけ」


「それは、“何も掴めていない”とは言いません」


「……そう、でしょうか」


セラフィナは一歩近づき、ラグナの右手にそっと視線を落とした。

赤く腫れた掌を見て、彼女の目がわずかに曇る。

だが、言葉にはしない。ただ、静かに頷いた。


「“傷”ではありませんね。それは、“始まりの印”です」


そう言って、彼女は胸の前でそっと手を合わせた。


「おかえりなさいませ、ラグナ様。

 ――今日という一歩が、明日へ続きますように」


もう一度、そう言って微笑んだ。


ラグナは、今度は深く頷いた。


彼女の言葉が、胸の奥にすとんと落ちた。

剣の問いはまだ終わっていない。

けれど、その歩みを見守り、受け止めてくれる人がいる。


それだけで――少しだけ、次の一歩が怖くなくなった。



神殿の門が、静かに開かれる。

光と香が混じり合う神殿の空気が、彼を迎え入れた。


ラグナは、再び歩き出す。

まだ道の途中。

けれど、“立つ者”としての一日が、確かに刻まれていた。



午前の祈祷の刻が過ぎ、神殿の空気がいっとき緩やかになる。

人々がそれぞれの営みに戻り、聖歌も止み、

回廊にはほんのわずかな風と光だけが満ちていた。


それはまるで、**誰かのために用意された“静かな居場所”**のようでもあった。



神殿の南翼、半円形に造られた小さな回廊の一角――

人の気配が届きにくい、石榴の植えられた中庭を望むベンチに、ラグナは静かに腰を下ろしていた。


木陰のベンチはひんやりと涼しく、頬に当たる風が汗を奪っていく。

先ほどまで痺れていた掌には、うっすらと赤みが残っていた。


「……少し、痛みますね?」


気配を消すように近づいてきたセラフィナが、そう言って隣に立つ。


ラグナは苦笑しながら手を開いて見せた。


「まぁ……“歓迎の印”だと思えば、少しは気が楽です」


「歓迎、ですか」


「うん。エルンスト殿なりのね。

 ――もし本気で拒まれていたら、立っている暇もなかったと思いますよ」


セラフィナは、ふふっと小さく笑った。


「主様は、ときどき不思議な慰め方をなさいますね。

 “痛み”を“歓迎”に置き換えるのは、なかなか真似できません」


「でも、セラフィナなら……できる気がしますけどね」


「それは……お優しさのつもりで?」


ラグナはわずかに肩を竦めた。


「正直な感想です。

 僕の痛みや迷いを、いつも静かに“居場所”に変えてくれるのは、セラフィナですから」


セラフィナは、少しだけ目を伏せてから、そっと腰を下ろした。

隣に並んだその横顔は、どこか迷いを含みながらも穏やかだった。


「主様。……私はいつも、“信じて待つこと”しかできません」


「それで十分ですよ」


「でも……」


「“でも”は、必要ありません。

 剣を振っても、構えても、僕の背を支えているのは、結局“言葉”だった気がするんです。

 ……あなたの、ね」


セラフィナは驚いたようにラグナを見た。

その瞳には、揺れる水面のような静かな光が宿っていた。


「主様……それは、僭越ながら……とても、嬉しいお言葉です」


風が吹いた。

石榴の木の葉が揺れ、赤い若実が微かに音を立てる。

その音が、しばらくの間、二人のあいだの沈黙を包んだ。


やがて、セラフィナが少しだけ身を乗り出して、問いかける。


「主様は……“剣を学ぶ理由”を、もう見つけられましたか?」


ラグナは、空を仰いでから静かに首を振った。


「まだ……答えははっきりしていません。

 でも、“問い”なら……生まれました」


「問い、ですか?」


「――“俺は、誰として立つのか?”」


セラフィナはその言葉を聞いて、ほんの一瞬だけ目を伏せた。

まるで、自分の中の祈りを整理するように。


「きっと、その問いは……主様だけの剣となるでしょう」


「そう、思いますか?」


「はい。問いを持ち続ける者こそ、立ち続けられるのだと……私は信じています」


静かな言葉だった。

けれど、それは確かに胸に届いた。


やがて鐘が一つ、食堂の方向から鳴った。

昼の刻を知らせる柔らかな音。


ラグナは立ち上がり、セラフィナに手を差し出した。


「――昼食、ご一緒してもいいですか?」


「はい。もちろんです。

 “御使”としてではなく、“ラグナ様”として――」


微笑むその声に、ラグナは一つだけ息を漏らすように笑って頷いた。


二人の影が並んで、白い回廊を歩いていく。

そこには、戦いの気配も使命の重さもなかった。


ただ、問いを胸に抱きながら歩く者と、

その歩みを信じて見つめる者が、静かに並んでいた。


昼を告げる鐘が、神殿中に響いたとき――

白く磨かれた回廊には、次第に人の気配が戻り始めていた。

神官たちの衣擦れ、若い侍童の足音、祈祷の合間の会話の端々。


そのすべてが、神殿に“日常”を取り戻す。


けれど、ラグナにとっては――ほんのわずかに、それは昨日までと違っていた。



昼食が供されるのは、神殿の南翼にある《朝の間(モルゲン・ホール)》――

白漆喰の壁と、半月形の高窓から差し込む柔らかな陽光。

十数卓の長方形の食卓が整然と並び、誰もが静かに言葉を慎みながら食事を摂る場所だ。


形式としては質素。

だが、神の加護を受ける場にふさわしく、選ばれた素材と手間を惜しまぬ調理が施されている。


ラグナがセラフィナと連れ立って食堂へ足を踏み入れると、

すでに多くの神官たちが席に着き始めていた。


その中で、ひとつの静かな視線の流れが生まれる。


(……見られている)


騒がしいものではない。

けれど、わずかに空気が変わったのが、感覚で分かる。

それは、朝のうちに神殿から姿を消していた“御使”の帰還を、

誰もが認めた瞬間だった。


セラフィナは視線を遮ることもせず、自然に空いた席へとラグナを導いた。

白い麻のクロスが敷かれた食卓に、ふたり並んで腰掛ける。


すぐに、陶器の皿が運ばれてくる。

炊いた粟と大麦を混ぜた穀物のスープ、

焼きたての全粒パン、

蜜煮にした柑橘と根菜の温サラダ、

そして、温かいハーブミルク。


ラグナは、香りを嗅いだだけで――ふ、と緊張がほどけた。


(……お腹がすいていたんだ)


朝、セラフィナが淹れてくれたハーブスープ以来、何も口にしていない。

剣を交え、集中し続けたあとに訪れる“気の抜けた空腹”。


木の匙を手に取り、スープを一口含んだ。


塩味は薄く、穀物の滋味が広がる。

火加減は絶妙で、煮崩れもない。

身体の芯に、染み渡るような温かさだった。


「……おいしい」


それは思わず漏れた本音だった。

目を伏せ、熱を飲み込むようにスプーンを運び続ける。


セラフィナは、隣で静かにその様子を見守っていた。

何も言わず、何も問わず、ただ穏やかに食事を続ける。


ラグナが三口、四口とスープを口にするうち――

少しずつ、視線が戻っていくのを感じた。


(“神の御使”が、“食卓で食事を摂っている”)


ただそれだけのことが、周囲にとっては新鮮だった。


崇拝すべき存在でありながら、

神殿という日常の場で、

汗を流し、空腹を覚え、手を震わせながらも食べる姿。


言葉は交わされない。

けれど、その姿が――確かに“波紋”を起こしていた。


ふと、向かいの席の年配の神官が視線を向けた。

老いた顔に刻まれた皺が、微かに綻ぶ。


「……よい稽古であったようですね」


静かなその言葉は、確かにラグナに届いた。


ラグナは、匙を置き、頭を下げる。


「はい。剣を通して、“己の立ち方”を教わりました」


年配の神官は頷き、それ以上は何も言わなかった。

けれどその仕草には、確かな“承認”が含まれていた。


セラフィナが、そっとラグナの皿にパンを添える。


「今日は、よく召し上がられますね」


「……うん。すごく、お腹が空いていたみたいだ」


「いいことです。身体が“動き出した”証ですから」


ラグナは一口パンを噛み締め、

セラフィナはそれを静かに見つめる。


パンの香ばしさ、スープの優しさ、柑橘の酸味――

それらが、今朝の剣の痺れを、少しずつ癒していく。


静かで、淡々とした昼の食事。

けれどそこには、言葉にしがたい温度と、確かな関係の輪郭が刻まれていた。




食卓にはすでに半数の神官たちが席を立ち、

残された者たちも、低く交わす声と、食器の擦れる音だけが小さく響いている。


「ふぅ……ごちそうさまでした」


ラグナはそう言って、最後のスープを飲み干した器をそっとテーブルに戻した。

身体がすっかり温まり、剣の痺れも、朝の張り詰めた緊張も、いくぶん和らいでいた。


隣にいたセラフィナが、それを見て軽く頷く。


「よく召し上がられましたね。

 ……こうして食事を“味わえる”ようになられたのは、主様がご自分の時間を歩み出された証です」


ラグナは少し照れたように肩をすくめた。


「今までは……“神殿の空気”に緊張してたのかもしれません。

 今日は、“自分として”ここに座っていた気がします」


「それは、何よりの変化です」


二人が立ち上がろうとしたそのとき――


「……あの、御使様」


緊張に震えるような小さな声が、食器棚の影から聞こえた。


振り返ると、そこには若い侍女が一人、両手でトレイを抱えて立っていた。

年の頃は十四か十五。

まだ少しあどけなさの残る頬に、控えめな神殿の侍女服。

目は怯えながらも、何かを言おうと必死に前を向いていた。


ラグナが声を返すより先に、セラフィナが柔らかく微笑んで口を開いた。


「この子はミリア。朝の間の配膳を担当しております。

 新しく仕えることになったばかりの侍女で、まだ言葉が少し不器用なのです」


ミリアはびくりと肩をすくめ、慌てて深々と頭を下げる。


「ご、ご無礼を……っ、わ、私……その、器を……!」


ラグナは思わず笑みをこぼした。

この神殿で、“人と接する”ということが、どこか懐かしく温かく感じられる。


「ありがとう。器、お願いします」


そう言って、自分の食器を丁寧に重ねてミリアに差し出す。

その手を受け取るミリアの指先は、やや震えていたが、ラグナの言葉にわずかに緊張が解けたようだった。


「は、はいっ……!」


彼女は顔を赤らめながらトレイを抱え直し、深々と礼をして厨房の方へ駆けていった。


「……彼女のような子が、こうして主様に声をかけられる日が来るとは」


セラフィナの呟きに、ラグナは少しだけ苦笑する。


「……僕は、そんなに近寄りがたかったですか?」


「はい。とても」


即答されたことに、思わず吹き出しそうになる。


「それほどまでに……“御使”という存在は、神殿にとって絶対的で、同時に“遠いもの”なのです。

 けれど今日、主様が“食卓を囲む一人”であると皆が感じたこと――

 それはきっと、静かな奇跡です」


その言葉の意味を、ラグナはじんわりと噛み締めた。


(人と話すこと。食卓を共にすること。それだけで――)


何かが、動き出している。



神殿の食堂を後にすると、回廊には午後の光が差し込み、床に長い影を落としていた。

ラグナとセラフィナは並んで歩きながら、その影の中を静かに進む。


「午後は、魔術講義ですね」


セラフィナがふと問いかける。


「ええ。サリウス殿の“次の段階”に進めるといいんですが……」


「魔術は、剣よりも抽象的で、ときに“心のかたち”を問われるものです。

 けれど主様なら――きっと、詠唱の奥にある“真意”をつかまれるでしょう」


「……そんなに、僕のことを信じてくれるんですね」


「はい。主様の問いの深さが、答えの深さを導きますから」


そして彼女は、ほんの少し声を低くして付け加える。


「それに――もし、心が揺らぐことがあれば……

 その“揺らぎ”さえも、魔術にとっては大切な“素材”です」


その言葉に、ラグナは静かに頷いた。


魔術とは、世界の理(ことわり)に触れる術。

けれど、理を動かすのはいつだって、心の底にある何かだ。


白く光る回廊を抜け、神殿の南翼へ。

その先にあるのは、サリウス・フェンテが待つ“魔術の間”。

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