空手一筋
パンチ☆太郎
第1話
1
男の名は、
五十五歳。空手家である。
かつては「空手道秋山道場」の師範として知られたが、全日本空手選手権にて、自らの門下生である宮ノ
そしてその宮ノ下は自ら道場を開き、門下生たちは皆そちらへ移ってしまった。結果、秋山の道場は閉鎖を余儀なくされた。
空手を始めたのは五歳のとき。
泣き虫で落ち着きのない子供だった秋山は、父親に連れられ、道場に放り込まれた。
入門しても泣き癖は治らず、人を殴ることなどできるはずもなかった。
「このままではいけない」と父は考え、道場の稽古に加えて、自ら息子を鍛え始めた。
空手の経験は皆無だったが、独学で学び、精神修行と称して雪の中を走らせたり、プラスチックバットで体を叩いたりした。
娯楽は一切許されず、ただ空手に打ち込む日々が徹底された。
その結果、秋山は二十代にして無敗の強さを誇るようになり、さらなる高みを求めて武者修行にも出た。
三十代で自身の道場を設立し、二十年にわたって後進の育成と現役としての戦いを続けてきた。
だが──数日前、全日本選手権での敗北。
それ以来、人が変わったように枯れてしまった。
丸太のように太かった腕は、まるで枯れ枝のように細くなってしまった。
これは、ただの敗北ではない。
完膚なきまでの、完敗であった。
「こうすれば勝てた」
「たまたま調子が悪かった」
「もう少し若ければ……」
そうした言い訳すら許されない、圧倒的な敗北だった。
心が、完全にへし折られたのだ。
もう空手は続けられない。
命を捧げてきたのに、これからどう生きていけばいいのか……。
蓄えなら十分にある。
だが、生きがいを失った俺は、もはや生ける屍だ……。
2
食料を買うため、近くのスーパーへと歩く。
この町は大きくない。スーパーもこぢんまりとしたものだ。
だが、生きていくにはまず食わねばならない。
しかし、食欲はない。
生きるため、延命のために口にするだけ。
かつては強くなるために食べていた。
若いころは、腹がはちきれるほど食べた。
食こそが、肉体と精神を形づくる礎。
食べているもので人間はできている──そう信じていた。
楽しむために食べる。
そんな発想は、俺にはなかった。
強くなるために食べるか、生きるために食べるか──
そんなことを考えていると、背後から女性が走ってくる音が聞こえた。
息が乱れ、足音も重い。
急いでいる、というよりは──逃げている。
秋山にはそう思えた。
そして、女の後方には男が三人、走って追いかけてきていた。
すれ違う人々は見て見ぬふり。
女は秋山の近くまで来ると、観念したのか足を止め、助けを求めるような目で彼を見た。
乱れた髪に、肩で息をしている。
年の頃は四十代か。顔に皺もあるが、どこか艶のある女だった。
白いシャツに、ロングスカート。
追ってきた男たちは、派手なシャツに黒ズボン──見るからに輩(やから)だ。
「おい女! いつまで逃げてんだ!」
「おっさん、何見てんだコラァ!」
威嚇するような声を上げたが、秋山は一歩も退かなかった。
「何か、あったんですか?」
秋山は女に尋ねた。
「この女よ、借りた金返さねぇで逃げてんだ!」
秋山は、女の顔を見る。
「借りたお金は、きちんと返しました……」
「アホか! 借りた金には利息ってもんがつくんだよ!」
「違法な金利は払えません! でも……貸していただいた分の元金は、ちゃんと返しました」
「何言ってやがんだ、この女ァ!」
その瞬間、男のひとりが女に殴りかかろうとした。
秋山の体が、反射的に動く。男の拳を掴んで止めた。
「やめなさい。ここで暴力は……」
「邪魔すんじゃねぇ、ジジイ!」
二人目の男が、ナイフのようなものを取り出した。
だが、秋山は瞬時に小手返しを決めた。
「……しまった」
秋山は、自分の行動に驚いていた。
「やりやがったな、コラァ!」
三人目が突進してくる。
秋山は、顔面に肘打ちを叩き込んだ。男は沈む。
その一瞬を逃さず、女の手を取り、走り出す。
「待ちやがれェッ!」
三度角を曲がり、ようやく追手を振り切ることができた。
自宅のマンションが見える。
「ここなら安全です。では……」
秋山がエントランスに入ろうとした、そのとき──
「待ってください!」
「はい?」
「家……張られてて、帰れないんです。落ち着くまで……泊めていただけませんか?」
秋山は少し考えた末、うなずいた。
二部屋あるし、布団も用意できる。
「狭いところですが……」
部屋には、冷蔵庫とテーブル、本棚しかない。
テレビはない。幼いころから、娯楽は禁止されていたからだ。
もてなしらしいことが何もできない自分に、少しだけ後悔した。
──空手以外にも、何か生きがいを見つけておくべきだったな。
とりあえず、湯呑みにお茶を淹れる。女はそれを静かに飲んだ。
「あの……秋山さん、ですよね」
「はい」
表札を見たのだろう。
「先ほどは、本当にありがとうございました」
「いえいえ。困ったときは、お互いさまです」
会話が続かない。
空手以外の時間には、空手のことばかり考えていた。
たまに読む小説くらいが、唯一の趣味。
近所づきあいもしなかった。
道場の帰りにスーパーに寄って、食材を買い、一週間分の飯をつくり、風呂に入り、小説を読んで、寝る。
それだけの生活だった。
そして、また道場に通う──それが日々だった。
だが、今はもう道場もない。
家にこもって、小説を読む。
腹が減れば飯を食い、減らなければ食わない。
女が口を開いた。
「空手か何か、やってらしたんですか?」
「ええ……五十年ほど。今はもう隠居の身ですがね」
「……何か、あったんですか?」
「弟子に負けまして。その弟子が、自分で道場を開いたんですよ。そうなると、私はもう用済みってわけです」
「……そうだったんですか」
初めてのまともな会話だった。
思えば、女とこんなふうに話すのは、生まれて初めてかもしれない。
胸の奥が、どこか落ち着かない。
──こんな感情、初めてだ。
「ところで、お名前は……?」
「加藤あやの、と申します」
あやのは、少し照れくさそうに名乗った。
その仕草に、なぜか目が離せなかった。
「お仕事は、何をされていたんですか?」
「……あそこの喫茶店を経営してました。でも、最近の物価高のせいで、経営がうまくいかなくなって……。お金を借りようとしても、どこも貸してくれなくて」
秋山は黙って頷いた。
経営のことなど詳しくはない。だが、この女は何かを──いや、すべてを話してはいない。
そう直感した。
けれど、それを問い詰めるような関係ではない。
今はただ、彼女の話を聞くことにした。
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