第7話 待ちぼうけと、既読スルーと、セミナーの闇

「……遅いな……」


ターミナル駅の東口。人影はまばらで、タクシーの運転手があくびをしている。

通りを吹き抜ける風が、わたしのワンピースの裾を揺らした。


スマホを見つめる。


LINE:

モリス《ごめん💦 セミナーが長引いてて💦 もうちょっとだけ待っててね》


……それが、最後のメッセージだった。

30分前。いや、もう1時間以上経ってる。


既読は、つかない。


「……セミナー、長引いてるんだよね……」


口に出してみる。自分に言い聞かせるように。

モリス様は頑張ってる。わたしたちの未来のために。

それに……セミナーって、きっと何かすごく大事な話なんだ。ビジネスとか、自己実現とか、ああいうやつ。


──でも、なんで今?


不安が、じわじわと染み込んでくる。

隣を通り過ぎたカップルが笑いながら手をつないでいた。わたしの手はスマホを握ったまま、冷たくなっていた。


「信じてるよ、モリス様……」


うつむいたまま、駅のベンチに腰を下ろした。

大きめのキャリーケース。旅から戻って詰めた最小限の荷物。


だけど気持ちはいっぱい詰まってる。


「待ってるからね……」


──そして、LINEの画面は、静かなまま。

モリス様のアイコンが、にっこり笑っている。ずっと、同じ顔で。



時間だけが、過ぎていく。

駅前のベンチに座ってるだけなのに、もう背中が痛い。膝の上に置いたバッグが重たく感じる。


スマホを開く。通知は──なし。


LINEを再読み込みしてみるけど、やっぱり既読はついてない。


「セミナー……って、そんなに電波悪いとこなのかな」


何度目かのつぶやき。

答える人はいない。

さっきのカップルはもういないし、駅前の喫煙所には、サラリーマンがひとりポツンと立っている。


19時を過ぎた。

約束の時間から、もう3時間以上。

──寒くなってきた。


さすがに、ずっとここで待ってるのもまずいかな、と思って、立ち上がった。


「ちょっと、コンビニで、何か……あったかい飲み物、買おう」


半分ふらつくように歩いて、駅前のコンビニへ。

自動ドアが開く。温かい空気と、チキンの匂い。


わたしはおでんコーナーを無意識にスルーして、カフェラテを手に取った。


イートインスペース、空いてた。

買ったばかりのカフェラテを両手で包んで座り、またスマホを見る。


……まだ、既読はつかない。


LINEの吹き出しの下に並ぶ時間表示が、なんだかこっちを見ている気がした。


「……セミナー……って、何時に終わるのかな」


わたしのカップの中で、ミルクの泡がしぼんでいく。

画面に戻ってLINEを見る。メッセージはそのまま。更新しても──やっぱり既読はつかない。


「モリス様……?」


ようやく、胸の奥から、何かがざわりと立ち上がった。


──もしかして、今日、来ない?


──じゃあ、わたし、ここで……何してるの?


でも。


「……違う。そんなわけ、ない。きっと、すっごく大事なセミナーなんだよ……!」


カフェラテのぬるくなった甘さが、舌の上に広がる。

でも、もうあったかくなかった。

わたしの心の中に、すぅ……っと冷たい風が吹いた。


でも──


「待つ。わたし、待つから」




もう何時間待ったかわからなくなってきた。


「……終電、そろそろかな」


時計の針は、24時27分。


「次が……ラスト」


お父様からアメックスカードを止められてしまったから、タクシーというぜいたくはできない。


電車に乗って家に帰るしかない。


重たいバッグを持ち直して、わたしはようやく腰を上げた。

だけど、足が前に進まない。


駅へ向かう階段。人の姿はまばらで、足早に通り過ぎていく人たちの後ろ姿がどんどん遠ざかる。

ああ、行くなら今、なんだろうな。


スマホの画面は光らない。



「セミナー……まだ、終わらないの……?」


口に出してみたら、ほんの少しだけ涙が滲んだ。

でも、まだ。まだ信じたい。

そうじゃないと、わたしがただのバカみたいじゃない。


小さく首を振って、階段を上がった。


改札の前。自動ドアが閉まりかけたその瞬間──


「──あっ」


駆け出そうとしたわたしの目の前で、

ガタン、と音を立てて、終電が静かに発車していった。


車内の蛍光灯が、淡く、やさしく光っていた。

ドアの向こうに、乗客の背中がいくつも見えた。


足元に冷たい夜風が吹き込む。

視界がじわじわにじむ。


「……あれ……?」


なんで、こんなことに。


……いや、違う。信じてる。わたしは、モリス様を信じてる。


でも。


頭の中が、ぐるぐるする。

思考がだんだんぼやけていく。

名前も、言葉も、音も、遠ざかっていく。


まるで、霧のなかにひとり、取り残されたみたいに。


わたしは、駅前のベンチに腰を下ろし、うつむいた。


──モリス様、ほんとはどこにいるんですか?


世界が、しん……と静まり返っていた。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



三ヶ月後。

わたしはまだ、部屋着のままである。


いや、正確に言えば、“あの時”からずっと着替えていない。


ジェラピケのふわふわ、もこもこのルームウェア。

もとはベビーピンクだった……はずなのに。


今や、毛玉まみれの“くすんだ灰色”。

袖口はのびきって、リボンの飾りは片方取れてる。


でもいいの。

これが“戦闘服”だから。

──恋に破れた地味令嬢の、正装だから。


「お嬢様……お昼、何か食べます?」


ドアの向こうから、マリアの声がする。

最近はこうして、定期的に“安否確認”に来てくれる。


「いらない……今ちょうど……ざまぁ系の新着が上がってて……」


わたしの視線の先には、スマホ画面。


そこには、恋愛詐欺に遭った女性たちの赤裸々な告白をまとめたドキュメンタリー。


あるいは、DV男にハマって抜け出せなかった令嬢の再生ストーリー。


──それ、全部、モリス様の話してるよね?


──それ、わたしのことじゃない?


画面を見てると、自分がインタビューされてる気がしてくる。


冷めたオートミール入りのスープをすすりながら、わたしはベッド横のマットレスに沈み込んだ。


「なんで……来なかったんだろう、モリス様……」


「……お嬢様。“様”ってまだ呼ぶんですか?」


マリアのため息が、扉越しに伝わってきた。




部屋の壁には、モリス様との思い出写真(自撮り)を印刷して貼ったまま。


ハワイアンカフェ構想のLINEも、まだ残してある。


LINEは未読スルーのまま、あの夜から変わってない。


変わったのは、わたしの部屋だけ。

ぬいぐるみも、アクセサリーボックスも、今は全部クローゼットの奥。


代わりに、ノートPCで見まくるのは、“詐欺師の心理”を語るYouTuberの動画。


「皆さん、こんにちは。今日は“言葉巧みに夢を語る男”の実例を──」


やめて、ほんとにやめて。


それ以上言うと、モリス様になっちゃうから。


涙がまた、つーっと頬を伝う。

もう、誰にも見られてないのに。


マリアが、またドア越しに言った。


「お嬢様……このままじゃ……ダメですよ」


「……うん。でも、もうちょっとだけ……」


わたしの声は、自分でも情けないくらい、小さかった。


──静かな沈黙。


と思ったら、


「……じゃあ、お風呂入りましょうか」


「えっ……?」


マリアの声は、穏やかなようでいて、絶対に引かないモードだった。


「三日前も“もうちょっとだけ”って言ってましたよね?」


「言ったっけ……?」


「言ってました。わたし、メモしてますから」


そんなところに謎の几帳面さを発揮しないで。


「お嬢様。ジェラートピケの毛玉が、限界です」


「うん、でも……これは、心の傷とリンクしてて……」


「リンク解除してください。今すぐ」


「えええ……!」


「大丈夫です。バスソルト、ラベンダーとローズヒップと、あと“デトックス美肌ブレンド”も揃えてます」


「それ、なんか……すごく効きそうなんだけど……!」


「はい。モリスの“残り香”ごと落としてくれます」


「……!」


完全に刺さった。


「……でも、まだ心の整理が……」


「お嬢様。正直申し上げて、そろそろ部屋の香りが“夢の終わり”みたいな感じになってます」


「えぐってくるううぅ!」


「あと、髪の毛も。まとまりませんよね?」


「……寝ぐせの方向性が、もうホラーです」


「ですから、お風呂です」


──ごもっともすぎる。


わたしはブランケットをぎゅっと握りしめながら、小さくうなずいた。


「……わかった、マリア。今から入る」


「よろしい」


「でも……その、ジェラピケだけは、最後にもう一回……ぎゅーってしてから……」


「もちろんです。さよならの儀式ですね?」


「うん……“ありがとう、毛玉”って……」


「それはちょっとキモいです」


お風呂。


それは、地味令嬢の再生の第一歩。


マリアに追い立てられて私はしぶしぶだけど、夜になるとバスルームに行くようになった。


熱いお湯が肩まで満ちるとき、わたしはほんの少し、自分が人間に戻ったような気がしていた。


そんなある日。


リビングのドアを開けると、そこにお父様がいた。


グレイのカーディガンに、白いシャツ。

新聞と、湯気の立つコーヒーカップ。


その姿は、いつも通り──のように見えて、どこかぎこちない。


わたしが一歩入ると、お父様は顔を上げた。

そして、ほんのわずか、目を細めた。


「……風呂、入ったな」


「えっ」


「いや、髪が乾いてる。ちゃんと乾かしたんだろう」


「……別に、風呂くらい入りますよ。人間なんで」


わたしがそっけなく言うと、お父様は「うむ」と小さく鼻を鳴らした。


「それなら結構。人間に戻ったのなら、まずは合格だ」


「人間失格だったってことですか?」


「三ヶ月、部屋に引きこもってた娘が何を言う」


その口調はいつも通り、淡々としている。だけど。


「──大丈夫か?」


その一言に、言葉を詰まらせた。


「大丈夫じゃなかったら、どうするんですか」


「無理に引きずり出すようなことは、せん。だが……心配くらいはする」


「え……お父様が?」


「当然だ。私は父親だ。……忘れたのか?」


忘れてない。

だけど、忘れかけてた。ずっと、責められてるような気がしてたから。


「……あの人のこと、やっぱり、お父様は正しかったんですよね」


「それを言うために出てきたのか?」


「違います。……違うけど、言わなきゃと思って」


お父様はしばらく黙って、コーヒーをひと口すすった。


「正しかったかどうかは、どうでもいい」


「えっ?」


「今、無事でここにいてくれたことに、感謝している」


それだけ言うと、お父様はまた新聞に目を戻した。

まるで、これ以上話すと泣き出してしまうとでも言いたげな態度で。


わたしは、リビングの椅子にそっと腰を下ろした。


「……ジェラピケ、毛玉だらけなんですけど」


「新しいのを買いなさい。アメックスは止めてあるが、口座は凍結していない」


「え、うそ。……さりげなく情報漏洩じゃないですか」


お父様は少し笑った。

わたしもつられてちょっと笑った。


──まだ心の中だけ、だけど。


でも、ちゃんとお風呂に入って、髪を乾かして、椅子に座れば。


人間って、少しずつ戻ってこれるのかもしれない。



ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー



ジェラピケの袖口、ほつれてるな……。


ふとそんなことを思いながら、私はソファにうずくまっていた。


部屋はしんと静かで、空気だけが妙に重たい。マリアが置いていったカモミールティーも、ぬるい水に成り下がっている。


タブレットの画面だけが、ぼんやりと私の顔を照らしていた。YouTubeの自動再生で、知らない動画が流れ続けている。


──また、「人生やり直しました」系か。


ちょっと前までは、こういうのばっかり見ていた。恋愛詐欺に引っかかった女性の復讐劇とか、「ざまぁ」展開とか、そういうスカッと系のやつ。


でも今、なぜか目の前にあるのは、全然ちがう動画だった。


タイトルはこうだ。


《【30代元社畜】田舎で手芸と紅茶と、猫との暮らし。》


ふざけてるのか本気なのか、わからない。でも、つい再生ボタンを押してしまった。


──ほらまた、人の成功体験を見て、虚無になるだけなのに。


そう思った。


ふっと笑ってから、笑ってる自分に驚いた。


──それだけで、今日は少しだけ、前に進めた気がした。


私は、そっとタブレットの画面を閉じた。


ぬるくなったカモミールティーを一口すすりながら、リネンのクロスと糸の在処を、ぼんやりと思い出していた。


夜。


お風呂に入るのも、ドライヤーで髪を乾かすのも、最近はわりと自然にできるようになっている。

あんなに拒否してたのに、不思議なもので。


マリアのおかげだ。

彼女はまるで、壊れた機械をもう一度動かそうとする整備士のようだった。


私はいつものようにジェラピケの毛玉だらけの上下を着て、半分溶けかかったソファに沈み込んで、YouTubeの海を漂っていたら、関連動画の中に、やたらふわふわしたサムネが出てきた。


《初心者さん向け♡推しの名前を刺繍してみた!》


──へぇ。


何となく、タップしてみた。


映像の中で、若い女性がパステルカラーの布に名前を縫い付けている。


「今日は○○くんのバースデーなので〜♡」と楽しそうに語るその姿は、どこか懐かしかった。


──ああ、わたしも、あんな感じだったな。


お父様と過ごした避暑地での日々。


毎晩のように針を動かしてた。


イニシャル入りのハンカチ。

さりげなく“M”のマークをあしらったスマホポーチ。


「推し刺繍」って言葉を知るずっと前から、私は刺していた。


好きな人に見てもらえると思うだけで、どんなに眠くても、どんなに指先が痛くても、楽しかった。


ふと、画面の中の作品が完成に近づいていくのを見る。


──うん、まあ、かわいい……けど。


「んー……そこ、ちょっとズレてない?」


思わずつぶやいた。


ステッチの角度、糸の引き具合、裏処理の甘さ──

なぜか、いろんな“粗”が目についた。


──もしかして私、あの頃より、上達してる?


それは、意外な気づきだった。


あんなにあんなに推しに愛を注いでたのに、何も残らなかったような気がしていた。

でも、“手”だけは、ちゃんと覚えてる。

あの頃の私の“努力”は、ちゃんと蓄積されてた。


「……もう一回、やってみようかな」


小さな声が、心の奥から出てきた。


もしかしたら、あの時の熱量を、今度は自分のために使えるかもしれない。


だって、刺繍って、誰かのために始めたものだけど、いつしか“私の時間”になっていた。

心がざわざわするときも、嬉しいときも、ただ黙って針を動かすことで、自分を保っていた。


「わたし、ほんと好きだったんだ……刺繍」


今さらそんなことを、やっと気づく。


もう、“M”のイニシャルは入れない。当然だけど。


でも──


「好きな花とか、自分の名前とか、刺してみても……いいよね?」


クローゼットの奥から、昔使ってた刺繍セットを取り出す。


布は少し黄ばんでいたけど、図案の下描きは、まだうっすらと見える。


今の自分の模様を縫ってやろう。


小さく、でもはっきりと、そう思った。


針を持つ手は、少し震えていたけど──


心の中には、確かな“灯り”がついていた。


こうして、私は小さな一歩を踏み出した。




(つづく)

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