第5話 執筆活動
川崎が小説というものを書き始めたのは、相当前からであった。
まだ、パソコンというものが個人に普及し始める前であり、ネットカフェというものが、どんどんできてくる前ということであった。
時代とすれば、
「世紀末くらいだっただろうか」
といってもいい。
元々は、もっと前から、
「書きたい」
という願望はあったのだが、なかなか書くことができなかった。
「小説を書く」
ということは、実際には結構難しい。
最初に、一つの大きなハードルを越えなければいけなかったからだ。
そのハードルというのは、
「最後まで書き上げる」
ということである。
もちろん、書き始めから、まったく文章が続かないというのが最初にくるわけだが、これも結局は、
「最初から、書けないというだけで、書き上げることができない」
というのと同じことである。
実際に書き上げることができないということは、
「途中で投げ出す」
ということで、その理由としては、
「最初からストリー展開をするための、設計図ができていない」
ということにある。
それを、
「プロット」
というのだが、それがうまくできていないと、途中で狂ってしまっても、
「どこで狂ってしまったのか?」
ということが分からず、
「前を向いても、後ろを見ても、五里霧中」
ということになってしまうのであろう。
確かに、最初に小説を書きたいと思った時、本屋に行って、
「小説の書き方」
なる、
「ハウツー本」
というものを買ってきて。勉強すると、そこには、それらのことは全部書いてあった。
しかし、実際には、半信半疑で本を読む。
そして、これが、実際に何かのきっかけがあるのだが、それによって書けるようになると、
「なるほど」
とばかりに、その本に書いてあったことが分かるようになってくるのだ。
つまり、ハウツー本というのは、
「実際に自分が経験し、乗り越えなければ、そこに書いてあることが分からない」
といってもいいだろう。
つまり、そのハードルを越えてから、初めて、
「スタートラインに立つ」
ということで、
「ハードルを越えるためのハウツー本」
ということなのだが、実際には、
「ハードルを越えた後に大切になってくる本」
という意味もあり、ハードルを越えないと、そのことが分からないのであろう。
それが分かった時、老人はすでに、年齢的には、
「30代後半」
ということで、自分としては、
「まだ若い」
ということを感じていたので、
「いずれは、プロの小説家になりたい」
と思っていた。
実際に、
「最後まで書けるようになると、まるで、自分が天才になったかのように感じるのであった」
というのも、それまで書けない時期、どれだけ書けるようになるかというのを努力して。やっと書けるようになったのだ。
そして、本に書いてあるように、
「ほとんどの人が、最後まで書けずに挫折する」
ということで、
「自分は、その少数の中に入ったんだ」
ということで、
「天才ではないか?」
と思ったのも、無理もないことだろう。
それまでの自分は何をやってもうまくいかず、いろいろな趣味に手を伸ばしては、結局成果が出ることもなく、挫折してしまっていた。
「自分には向いていない」
というたった一言を言ってしまったために、それまで少しでも努力してみようと感じたことを、水泡に帰してしまうのであった。
そうなると、
「俺は、何をやってもダメなんだ」
と思い込むようになり、年齢的にも、
「まだ若い」
と思いながらも、無駄に過ごしてきた年月を考えると、
「ああ、俺もいい年だ」
と思うようになった。
しかし、30代後半で、再度、
「今までで一番やりたかったことは何か?」
ということに、一蹴回って戻ってきた。
それが、
「小説執筆」
というものだったのだ。
ただ、なんといっても、最初のハードルがどうしても越えられずに、挫折したことが頭に残っていた。
だから、今度は、
「いろいろ考えてみる」
ということにした。
「環境を変えてみる」
ということで、
「場所を変えたり、材料を変えたりしてみたのだ」
それが、前述の、
「きっかけ」
ということになり、何とか、一作品でも、最後まで書き上げることができたのだった。
そのおかげで、
「これからも書いていける」
と思い、さらには、
「今まで、趣味を見つけたい」
と思いながら試行錯誤をしていたのも、終わりだったのだ。
「試行錯誤をしていた」
といっても、結果としては、どれもこれも最後は逃げ出したということで、執筆に関しては、
「そんなことはない」
と考えたかった。
実際に、執筆活動をしていると、最初こそ、
「作品を書き上げるのは苦しい」
と思っていたが、その苦しさがあるだけに、
「書き上げた時の満足感と充実感に勝るものはない」
と言えるのであった。
実際に小説を書き上げることができるようになると、アイデアもどんどん出てくる。
とはいえ、どうしても、似たような作品が多いのだが、それも、
「一種のシリーズもの」
と考えれば、自分を納得させるということができる。
実際に小説として完成したものを読み返すと、
「自分で考えていたよりも、ストーリー性としての類似点はない」
と思った。
その場その場のシチュエーションに類似があったとしても、それは他の作家の作品でも同じである。
そもそも、
「似たような作品だ」
と感じるのは、
「書いている」
という時であり、
「執筆中というのは、自分の頭の中で、ストーリーだけではなく、情景や構成も頭に浮かんでくるというもので、前にも似たような作品を書いていれば、似たような作品ではないか?」
と感じたとしても、それは、
「無理もないことではないか?」
ということになるのであった。
小説の書き始めというのは、そう考えながら、紆余曲折を繰り返していた。
そのうちに、パソコンというものが普及してきた。
そもそも、川崎が今までパソコンを使わなかったのは、
「自分の部屋で書く」
ということをせず、
「喫茶店やファミレスなどで書いている」
ということを繰り返してきたからだった。
そもそも、書けるようになったというのは、
「喫茶店やファミレスで書く」
ということに思い立ったからであった。
喫茶店やファミレスというところは、絶えず、
「空気が動いている」
ということであった。
つまりは、
「客の出入りがある」
ということで、書けなかった時にはできなかった。
「写生」
というものが、ここではできるということが分かったからである。
例えば一人の客を見た時、その客を、
「丸裸にする」
というくらいに相手を凝視する。
そこで見えてきたものを、まずは箇条書きにして、そのあとで文章に起こすという練習をしていた。
「スーツを着ているから。サラリーマンだろう」
「年齢的には、30代くらいなので、奥さんと家には小学生くらいの子供がいるだろう」
「雰囲気から、週末にはいつも家族を伴って、どこかに遊びに行くというようなアットホームなお父さんではないか?」
「会社では、現場の背金員者くらいをしている人なんだろうな」
というようなことをどんどん思い浮かべてくると、
「この人を主人公にして作品を書こう」
と思ったりする。
次にジャンルを考えたり、目線というものを、
「一人称目線にするか、三人称目線にするか?」
ということもどんどん決まってくる。
実は、これも、ハウツー本に乗っていた。
そもそも、
「最後まで書き上げることができなかったときは、それ以降を見ても無駄なので、まったく見なかったのだが、書き上げることができるようになり、その勢いで、最初の頃は書いていたので、ハウツー本を見ることもなかった」
しかし、気持ちに余裕が出てくると、
「もう一度見てみるか」
ということでそこから先を見ていくと、
「なんだ、今俺が実践していることと変わりないじゃないか」
ということで、
「一つのきっかけから、大きなハードルを越えると、本を見なくとも、ハウツー本を凌駕できるだけの力が身についているんだ」
ということから、
「俺って天才かも知れない」
という、自惚れをしてしまっていたのだが、この自惚れというのも、
「ハードルを越えたから見える世界だ」
ということで、
「今まで見えなかったものが見えるところまできた」
と思うと、
「年齢的にはまだまだだ」
と考えるのも無理もなく、
「俺だって、プロになれるかも知れない」
という自惚れを、自分の実力として受け入れるのであった。
もっとも、
「自惚れというものを、実力だと思うくらいになったことが、大きなハードルを越えることができた一番の理由だ」
と感じたからで、それがいいことなのか悪いことなのか、その時点ではわからなかった。
実際には、
「どちらともいえない」
というのが今でも思っていることで、その答えはきっと、
「死なないと分からない」
ということになるのではないかと思うのだった。
今までに書いた作品というと、最初は、
「オカルト系」
の作品だった。
最初に書いていたのは短編ということで、ちょうど、
「小説を真剣に書きたい」
と思うようになった時、その気持ちにさせたきっかけとなった作家の本であったが、その人は、
「短編の名手」
と呼ばれる人で、
「奇妙なお話」
と呼ばれるような作品が多かった。
ジャンルとすれば、ざっくりと、
「ホラー」
ともいえるが、あくまでも、自分の作品は、
「幻想的なもの」
であり、
「超自然的な作品」
にしたいということで、
「都市伝説」
などというキーワードも一緒にすることで生まれる、
「オカルトなのだ」
と考えたのだ。
そして、喫茶店やファミレスで、ノートに向かって小説を書いていたが、当時はまだ、ノートパソコンというのはあったが、
「高価なもので、手が出ない」
と思っていた。
だが、数年もすれば、
「ノートパソコンも結構安くなり、普通に買えるようになった」
そこで、ノートパソコンを使って、小説を書くようになったのだ。
それが、ちょうど、今から20年くらい前であろうか、電気屋で、OAバッグなどということで、ノートパソコンを持ち運びするためのカバンを購入したのであった。
実際にノートパソコンを購入して書き始めると、その頃には、チェーン店のカフェにも、
「電源を貸してくれる」
という店も増えてきた。
「そもそも、世紀末くらいの頃は、電源を貸してくれるというところはあまりなかったのだ」
というのは、
「電気を勝手に使うというのは、窃盗罪に当たる」
ということから、昔からあった、老舗と言えるような、
「チェーン店のカフェ」
では、
「電源借りれますか?」
と聞くと、
「できません」
という答えしか返ってこない。
当たり前のことであろうが、客がそこまでサービスを求めるのはいけないことなのだろうかとも思うのだ。
そのうちに、携帯電話の充電を、
「コンビニや、いろいろな施設で無料でできる」
ということになっても、その店では、相変わらず、
「電源は使用不可です」
と言っている。
当たり前のことなのかも知れないが、今の時代にそれをいうというのは、
「私たちは、時代がどうなろうとも、ダメなものはダメだ」
ということで、
「サービス精神よりも、自分たちの規律や法律を優先する」
ということで、客からすれば、
「そんな不便な店に誰がいくか」
ということになるのだ。
自分たちで、客を減らしているということを分かっていないということであろう。
それを考えると、
「今の時代は、大名商売ではやっていけない」
ということを分かっていないのだ。
その証拠に、似たようなチェーン店が後から出てきたが、客は、明らかに新しく進出してきた店の方が多い。
「経営者な何も考えていないのだろうか?」
ということになるのだ。
時代の流れに敏感であってこその、店舗経営であるはずなのに、時代を逆行するというのは、客からすれば、
「喧嘩を売られている」
と思う人もいるのではないかということであった。
川崎が、最初の頃、
「短編しか書かなかった」
というのは、
「どうしても、長編を書こうとすると、言葉が続かない」
というのが理由であった。
そもそも、
「奇妙な小説」
というジャンルがそれほどたくさんの作家がいるわけではなく、手本となるもののほとんどが、
「短編小説だ」
ということからであった。
だから、10年近く、短編ばかりを書いてきたのだが、
「中長編を書きたい」
という気持ちがずっと自分の中でくすぶっていて、
「本当は何が書きたいのか?」
と考えた時、
「ミステリーが書きたい」
と思っていたのだ。
そもそも、最初に小説に触れた時というのは、川崎が中学時代のことであった。
その時ちょうど、戦前戦後に書かれた
「探偵小説」
というものがブームだったのだ。
一人の探偵がクローズアップされ、実際に今でも、
「昭和の名探偵」
ということで、実に人気が高かった。
実際に、恐怖をあおるシーンであったり、謎解きやトリックの巧妙さが目を引いたのであった。
さらに、実際の作家の作法がすばらしく、読者の心をすっかりつかみ、
「長編であっても、一日で読み終わる」
というくらいに、集中したものだった。
それ以降、今度は別のものがブームになると、
「探偵小説が素晴らしい」
と思っているだけに、他に興味が移るということはなく、次第に、読書もしなくなったのが、中学時代だったのだ。
何しろ、
「高校受験」
というものが控えていただけに、それも無理もないことで、ただ、その時に、
「小説を書けるようになるといいだろうな」
という漠然とした気持ちはあった。
それが実現したのが、
「20年後」
ということで、時間はかかったが、今から思えば、その間の期間を、
「書けるようになってから継続している期間を越えようとしている」
というのは、
「自分にとっての継続」
というものが、
「どれほど素晴らしいことなのか?」
と思わせるに十分だということであろう。
「もう一度あの時の本を見返してみたい」
と考えたが、昔の本は、
「引っ越しの時の邪魔になる」
と思い、
「リサイクルショップ」
に売ってしまった。
結局は、二束三文でしか買ってくれなかったので、その時は、
「しまった」
と感じたので、しょうがないから、本屋で購入しようと考えた。
しかし、本屋は、昔と比べて完全に変わってしまっていた。
というのも、
「完全な時代の流行の本くらいしか置いていない」
ということだったのだ。
いくら、昔一世を風靡し、いまだに人気がある作家とはいえ、実際には、置いてなかった。
「取り寄せ」
というのも考え、店の人に聞くと、なんと信じられないことに、
「廃版になりました」
というではないか。
つまりは、
「古本屋でしか売っていない」
ということで、古本屋に行ってみると、偶然見つけた数冊という程度しか置いていないのだった。
それでも買ってきて読み直してみたが、
「ああ、やっぱり、昭和というのは、古き良き時代だ」
というのを感じさせられた。
自分も知らない、
「戦前戦後」
という時代には、ロマンがあり、それが、最初に読んだ時と、その感想も違った。
「想像力を掻き立てる」
ということがすべてであり、しかも、子供の頃に読んだものを、大人になってから読み返すというのだから、それだけ、
「幅が広がった読み方ができる」
ということだ。
しかも、
「子供の目から見ても、大人になってから読んでも、どちらも甲乙つかがたいくらいに素晴らしい」
と感じるのだ。
「いいものは時代が変わっても色あせない」
ということになるのだろう。
そういう意味で、本屋が、
「流行っているものしか置かない」
ということになっているのを見た時、それこそ、
「世も末だ」
といってもいいだろう。
「目の前のことだけにとらわれていれば、結局流行だけしか見ないようになって、同じところをグルグル繰り返すだけ」
というのは、
「今までの歴史が証明している」
といってもいいだろう。
そんな時代が結局は、
「どうなるものでもない」
ということで、どんどん、
「負のスパイラル」
というものに陥るだけであったのだ。
「世界を狭めている」
という考えは、
「宇宙論に似ているのかも知れない」
そして、この、
「宇宙論」
というものが、
「陰謀論」
というものの、原点として、川崎が考えるようになった一つであった。
「宇宙論」
という言い方は、実に漠然としたもので、厳密にはかなりいろいろな考えかたがあるということであった。
その宇宙論の一つとして、
「宇宙は広がり続けているのだが、あるところまで来ると、その限界から次第に小さくなっていく」
という考えであった、
他には、
「広がり続けているというのは同意見であるが、宇宙が小さくなるのではなく、バブル崩壊のように、はじけて消えてなくなる」
という発想もあった。
いわゆる、
「ビックバン」
と呼ばれるものであろう。
だが、小さくなるという発想を、川崎は信じていた。
どのように小さくなるのかということまでは想像がつかないが、どうしても、
「地球上で起こっていること」
からの発想になるというのも無理もないことであろう。
というのは、
「そもそも、人間の発想というのは、自分の経験からしか出てくるものではない」
と考えていた。
だから、
「異世界ファンタジー」
というのは、自分たちの世代からは発想のできないものだということで、
「若者が書くものだ」
と考えていたのだ。
つまり、川崎は、
「若い連中を、同じ人類だとは見ていない」
ということだ。
これは逆に、自分たちの前の世代が、
「自分たちを見ていた」
というその世代と同じだと思っているのだが、それは、自分たちが社会に出る頃に言われていた、
「新人類」
という言葉が思い出されるということである。
「新人類」
というのは、
「自分たちの頭では理解不能な人たちが出てきた」
ということで、たっぷりと皮肉を込めた言い方であった。
それだけ、今までの歴史を覆す人たちの存在を、昭和の末期でも、
「許せない」
という状態だったのだろう。
なんといっても、その頃の世の中には、
「神話」
と言われるものがたくさんあった。
それが今では、
「すべて迷信だった」
ということであれば、
「今と昔の考えが違う」
といっても、当たり前だということになるだろう。
というのは、神話の一つとしてあったものに、
「銀行は絶対につぶれない」
と言われていた。
しかし、バブル崩壊の時、
「最初に破綻したのは銀行だった」
ということで、いとも簡単に、神話が崩壊したのだ。
そして、そのバブル崩壊というのは、自分が就職した頃である、
「新人類」
と呼ばれていた時代よりも、だいぶ後のことであるということから、
「まだまだその時代は、昭和の考え方がそのまま受け継がれた時代だった」
ということである。
その時代というと、まだまだ、景気がよくなるという時代であり、バブル経済への入り口だったのだ。
「熱血根性」
などというのが、美しいといわれる時代で、
「今であれば、一発アウト」
といってもいい、
「しごき」
などというのがあった時代だ。
今では、
「しごき」
などと言っても、誰も分からないくらいであろうが、
「特訓」
と言えばどうだろう?
スポーツ根性漫画が流行った時期は、
「特訓を繰り返すことで、魔球なるものを開発し、スポーツ界にセンセーショナルな英雄が登場する」
というようなストーリーであるが、厳密には、そういう発想ではないといってもいい、
つまりは、
「苦しみの中で、それを通り越すと、その先に、幸せが待っている」
ということを、
「特訓」
ということで表現したのが、昭和の時代であった。
今でも、その精神は変わっていないのだろうが、
「何が悪いのか?」
ということになると、それは、
「人から強制される」
ということが悪いのだろう。
自分で勝手にする分には、問題ないが、特に、
「団体競技」
と言われるものが、そのドラマや漫画の舞台となるのだから、今の時代ではアウトになるのは当たり前である。
「野球」
であったり、
「サッカー」
「ラグビー」
などが、その象徴であるが、野球だけは別である。
「特に特訓するのは、主人公だけで、確かに他の人には共用させることはないが、団体競技であるだけに、その選手が、魔球開発のため」
ということで、シーズン中に特訓と称して、チームから離れ、単独行動をするのだから、本来であれば、昭和であっても、アウトなレベルである。
中には、
「監督が、許可をした」
という場合もあり、
「それこそ、団体競技にはあるまじき行為だ」
といってしかるべきではないだろうか?
それを考えると、
「スポーツ根性もの」
というのは、作家によって、または、
「そのスポーツの種類によって」
まったく違った発想になるということもあり、
「そんな曖昧な感覚」
というものが、まさに昭和の時代だったのではないかと言えるような気がしてきたのだった。
そんな昭和と今の時代のギャップが、一種の陰謀論への発想につながっていくのであろう。
陰謀論というのは、今の時代によく言われることである。
「ネットの普及」
であったり、
「スマホなどの携帯機器の発展」
がその導火線になっているのではないかと思うのだが、それは、
「今評判になっている」
というだけのことで、ひょっとすると、
「昔から言われていることであるかも知れない」
ということは、定かではない。
ただ、それを総称して、
「都市伝説」
という言葉で言われているとすれば、それはそれで、
「説得力がある」
ということになるだろう。
そもそも、
「オカルト小説」
というのは、
「ホラー」
のような、
「あくまでも、恐怖小説」
というものとは違うのではないだろうか?
オカルトというのは、どちらかというと曖昧なもので、
「都市伝説的なことが、恐怖を誘っている」
ということから、
「恐怖というものに近い存在と言われるのかも知れない」
そもそも、
「都市伝説」
というもの自体が曖昧なもので、
「曖昧だ」
ということ自体が都市伝説ということになり、それは、昔から続いているというよりも、
「ごく最近」
ということの方が意識的には強いものだ。
だから、
「都市伝説」
というものをオカルトと考えるのであれば、
「奇妙なお話」
というのも、オカルトと言えるだろう。
というのは、
「奇妙なお話」
というのは実に幅が広いもので、
「ごく普通の人が、ふとしたことで、怪しい穴に落ち込んで、そこで奇妙な体験をする」
などということを、まことしやかに、
「奇妙な話」
として書いたのが、そもそも、
「川崎が好きになった、短編の名手と言われた人の作品」
だったのだ。
その人の作風は、
「大人の小説」
といってもいい。
もちろん、
「アダルト」
という意味でもいえることで、
「アダルトな部分を、しゃれた文体で書く」
というところが、この作家の、
「名手たるゆえんだ」
といってもいいだろう。
この人の作品を最初に読んだのが、
「少しアダルトな作品」
ということで、ひょっとすると、
「他の作品であれば、俺はここまでこの作家に陶酔することはなかったはずだ」
と思っている。
それを思い起こさせたのが、
「中学時代に読んだミステリー」
だったのだ。
そういう意味で、この二つのジャンルは、
「俺の中で時系列でつながっているのではないか?」
と感じたのだ。
好きだった小説ではあるが、再度大人になって読み返した時、
「自分が大人になったから、子供の頃と感じ方が違うのか?」
と思うほど、感覚が違っていた。
しかし、それは間違いで、
「オカルトを途中で挟んだことが、昔の探偵小説を見返してみたい」
と感じたことと、
「小説を書いてみたい」
と感じたことであり、そこから今度は、
「探偵小説を読んでみたい」
と感じたことから、今度は、
「長編に挑戦したい」
と思わせたのだろう。
それが、自分の中の、
「時系列」
というもので、その時系列を今までははっきりと感じたことがなかったのに、どこか曖昧な感覚になったということで、今度は、
「自覚してみたい」
と感じるようになったのかも知れない。
それを思うと、今まで書いてきた小説とは別に、
「他のものを書いてみたい」
と感じたのは、
「長編を書きたいから」
というときとでは感覚が違っていた。
実際に、
「ミステリーはまだまだ書いてみたい」
と感じたのも事実であったが、それ以上に、
「オカルトとミステリーの調和を書きたい」
と思ったのだ。
どちも、
「時系列によって、書きたいと感じた小説のジャンル」
ということで、
「縦並び」
といってもいいのだが、
それはあくまでも、
「一本の線」
ということで、
「交わることのない平行線」
といってもよかった。
そういう意味で、
「小説の中でのジャンルの融合」
などという発想はまったくなかった。
もし考えたとしても、今までであれば、
「絶対にそんな発想は持たない」
と感じたはずだった。
「ジャンルの融合などというのは、小説に対しての冒涜になるのではないか?」
と感じたほどで、それは、
「自分が生きてきたことを否定する」
とまでいえる、
「時系列の冒涜だ」
といってもいいかも知れない。
ただ、
「オカルト」
と、
「奇妙な話」
というものを、
「似て非なるもの」
と考えていたという意識はあった。
だから、
「ジャンルの融合」
というものも、決して無理なことではなく、
「前衛的」
という意味で。ある意味、
「時代の最先端を行くということで、面白いものになるのではないか?」
と感じたのだった。
それが、
「陰謀論」
と呼ばれるものの発想であり、あくまでも、これは、川崎独自の発想であるが、
「昔から言われている伝説に対しての批評や解説のようなもの」
としての、
「預言書」
と呼ばれるものの解釈について書かれている小説や批評が、今でいう、
「陰謀論」
というものの、基礎になっているのではないか?
と思えるのだった。
だから、
「昔からあったかも知れないが、今のいわゆる陰謀論というのは、新しいジャンルではないか?」
と考えるのは、
「預言書を元に考えられたジャンルだ」
ということからである。
その預言書というのは、言わずと知れた、
「世紀末に起こるであろう」
ということを予言したといわれる、
「ノストラダムスの大予言」
である。
「四行詩」
というものの中に記された、
「読解困難」
と言われた預言を、
「いかに解明するか?」
ということで、言われ続けたものだった。
実際に、ノストラダムスは、
「四行詩」
というものに嵌め込んで、難しい言葉で分からないようにしているかというのは、
「地動説を唱えたガリレオのようになりたくない」
という思いからであろう。
「世間を騒がせる預言」
というものから、
「四行詩でごまかしながら、後世に、自分の思いを託した」
ということが書かれていた。
もっとも、それが本当なのかどうかは、そもそも、読解困難で書かれているので、分かるはずもない。
それが分かってしまうと、
「四行詩」
というものに込めた理由も分からないということだ。
つまりは、
「昔の人の、言論の自由を脅かす」
という時代背景が、
「未来への警鐘というものを阻んだ」
ということになり、
「未来に何も感じていない」
ということの証明であろう。
昔の人は、
「家を守り、未来永劫の発展を願う」
と言っておきながら、結局は、
「未来への警鐘」
である預言を妨げることで、
「未来に対しての継承」
を怠っているといってもいいだろう。
実際に、世紀末に、
「言われているような、世界の滅亡」
というのはなかったが、それを、
「本当に世界の滅亡を謳ったものではない」
ということなのか、
「あくまでも、時代が違っていただけ」
ということになるのかによって解釈は変わってくるが、とりあえず、
「何もなかった」
ということで、事なきを得たが、結果、すぐに、
「そんな予言があった」
ということも忘れ去られることになり、
「実際に世界は破滅に向かっている」
ということは、少し勉強すればわかるのに、今度はそのことを誰も言おうとしないのだった。
それは、
「バブル崩壊」
の時と似ているのではないだろうか?
バブルの時も、
「誰も、崩壊するということに気づかなかったのか?」
ということが、怖いと思っているのだろうが、別の考え方ということで
「実際には知っている人はたくさんいて、それを世の中の混乱を恐れて、発表しなかったのだ」
という考えもある。
また、本来は、その内容を、
「一番金になる」
という人に売ることで、
「金儲けできる」
という、
「自分さえよければいい」
という人間がいたということになるだろう。
いや、考え方として、
「それの何が悪いというのか?」
ということである。
確かに、
「金儲けのために、社会の混乱を止めない」
という考えは悪いということになるのだろうか?
確かに、
「余計なことを言って、自体をさらに最悪にする」
ということもありえることで、だったら、
「騒ぐことをしないで、自分の中でこの発想を温めておいて、あくまでも、フィクションということで、この発想を公開すれば、金儲けできる」
と考えるのは、悪いことではない。
問題だとすれば、
「過去の歴史において、世間を騒がせることをいうと、罰せられる」
ということを繰り返してきたからである。
それが、ガリレオの話であったり、
「大日本帝国時代の、大東亜戦争下での、情報統制」
などというのが、その例の一つであろう。
だから、昔から、
「陰謀論」
というのは存在していたことだろう。
「それを大っぴらにできない」
あるいは、
「しない」
というのは、政治的、あるいは、個人的に、
「都合のいいように」
ということで考えるからだろう。
だが、今の時代では、
「自由」
というものが、
「いい悪いは別にして、一番守られる時代」
ということである。
おまけに、
「コンプライアンス」
というものが叫ばれ、
「自由への侵害は、許されない」
という時代であった。
しかも、それを全世界に発信させる媒体として、
「ネットやスマホの普及」
ということで可能になったのだ。
だから、歩い程度ではあるが、
「陰謀論」
というものの発想が
「まことしやかに言われている」
というのも、その理由の一つだといえるのではないだろうか?
それを考えると、
「今の小説の中にこそ、未来の日本。いや、世界というものがあらわされているのではあないか?」
と思うのだ。
そして、この陰謀論の中にあるかのように、
「今世界各国で起こっていることが、現実のこととして、世界への滅亡の導火線」
というものに、
「火が付いた状態だ」
といってもいいのではないか?
ということであった。
実際の陰謀論として、特に一番気になるところは、数年前に突如発生した、
「世界的なパンデミック」
というものだった、
そもそも、これは、実際には、
「突如発生した」
というわけではなく、一定期間の短い周期で、
「パンデミックというのは起こっている」
というのだ。
ただ、それが、
「比較的に局地的だった」
ということから、
「突如現れた」
という表現になるのだろう。
その中で、かなりのことが、
「都市伝説」
のように言われ。さらに、それが、
「陰謀論」
ということで、拡大解釈されたというのが結構あったのだ。
「災害というものが起こると、そこにデマはつきものだ」
ということで、
「戦争や災害によって、どれだけの虐待が行われたか?」
というのは歴史が証明していて、その理由としては、
「インフラが壊滅してしまったからだ」
ということであるが、それを考えると、
「文明に染まってしまった世界は、文明が危機になると、頭の中はパニックになり、時代は一気に、原始時代に戻ってしまう」
といってもいい。
「それこそが、陰謀論の正体なのではないだろうか?」
ということを、川崎は感じていたのだった。
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