マリーゴールドの朝

@hanakotoba08

第1話

題名

「マリーゴールドの朝」


一章

「ピーピーピー――」

けたたましいアラーム音に手を伸ばし、目を細めながらスマホを止めた。

眠気の残る目をこすり、布団から体を起こす。重たいまぶたを押し上げるようにカーテンを開けると、朝日が部屋の中に静かに差し込んできた。

窓の向こうで揺れる木々の葉が、光を受けてキラキラと輝いている。

一瞬で、頭の中が少しだけクリアになる。

「ふぁあ……」

小さくあくびをひとつして、台所に向かう。

コーヒー豆を挽き、ドリップの香ばしい香りが部屋に広がるのが心地よい。

マグカップを手に、リビングのソファへ腰を下ろす。

湯気の立つコーヒーをひとくち。まだ何も始まっていない朝の静けさが好きだった。

これが、僕 いつもの朝

コーヒーを飲み終えたら、洗面所で髭を剃り、鏡の前で寝癖を直す。

ネクタイを締め、スーツに袖を通して出勤の準備は完了。

時計を見ると、いつもとほぼ同じ時間。慌ただしく玄関を出た。

家を出てすぐ、目の前にコンビニがある。

パンと紙パックのカフェオレを手に取り、レジを済ませると、足は自然と近くの公園へ向かっていた。

小さな公園。子どもたちが走り回るような場所ではなく、どちらかと言えば近所の人たちが静かに休むような、落ち着いた空間だ。

ベンチに腰かけると、目の前には色とりどりのマリーゴールドが風に揺れていた。

その花を眺めながら口にするパンは、なぜか家で食べるより美味しく感じる。

「今日も頑張るか…」

そんなふうに心の中で小さく呟き、ゴミを捨てると会社に向かう。

徒歩で20分。急がず歩けばちょうどいいウォームアップになる。

僕は、ごく普通の会社員。23歳、独身。

2DKの小さな部屋で、一人暮らしをしている。

午前9時から午後6時まで。

特に激務というわけでもなく、残業もほとんどない。

マイペースに仕事ができる、ありがたい職場だ。

業務をこなし、夕方、定時にタイムカードを押すと、また朝のコンビニへ寄り道する。

今度は夜ご飯用の弁当を手に取り、レジを済ませる。

家に帰るとまずシャワーを浴びて、スッキリと汗を流す。

テレビのスイッチを入れ、ソファに座って弁当のフタを開ける。

カチカチと変わるチャンネル。流れるお笑い番組やニュース。

そんなものをBGM代わりにしながら、僕は今日も一人でご飯を食べる。

今日という日も、昨日と同じように過ぎていく。

けれど、そういう日々が、なんとなく心地よかった



二章

その日もいつもと変わらず、公園のベンチに座ってパンを食べていた。

セブンのメロンパンと、紙パックのカフェオレ。

マリーゴールドが朝の光の中で優しく揺れているのを見ながら、僕はパンを一口かじる。

小さな風が吹いたその時――

「いつもここでパンを食べてますね、ふふっ」

不意に、声をかけられた。

驚いて顔を上げると、そこには僕と同じくらいの年齢の、細身の女性が立っていた。

ショートカットの髪が少しだけ風に揺れ、大きな目がぱちくりと僕を見つめている。

あまりに自然に、まるで前からの知り合いかのように、笑っていた。

「えっ……あ、はい……そうですけど」

少し戸惑いながらも答えると、彼女はふわりと腰を下ろして、僕の隣に座った。

距離はほんの少し。けれど、なぜか不思議と緊張はなかった。

「公園で、何を見てるんですか?」

突然の質問に、言葉が詰まる。

「えっと……マ、マリーゴールドの花です」

「やっぱり!」

彼女が嬉しそうに笑った。声が少し跳ねる。

まるでクイズの正解を当てた子どものように。

「マリーゴールドの花言葉って、知ってますか?」

僕は首を横に振る。

「変わらぬ愛、祈り」なんですって。素敵ですよね」

その言葉を聞いたとき、なぜだか胸の奥が少しだけ熱くなった。

そんなに親しげに話してくる彼女なのに、どこか遠くを見ているような、そんな眼差しをしていた。

「それは……知らなかったです」

「ただ、ここで朝ごはんを食べてると落ち着くんですよね。花が綺麗で、なんというか……ほっとするというか」

「うん、わかる気がします」

そう言って彼女は、ほんの少しだけうなずいた。

「それはそうと――」

「お近くに住まわれてますか?」

あまりにも自然に、次々と質問をしてくる。

初対面なのに、人懐っこいというか、何かに急かされているようにも感じた。

だけど、不思議と嫌な気持ちはしなかった。

むしろその笑顔には、どこか安心感があった。

「ええ……この辺に住んでますよ。駅の向こうのアパートで」

「そっか、良かった」

良かった?

その意味を聞こうとしたとき、彼女が急に立ち上がった。

「いつかは約束できないけど……今度、お邪魔してもいいですか?」

「え? それは……まぁ、いいですけど」

「やったー!」

ぱっと顔を輝かせて、両手を小さく広げた。

「じゃあ、また今度!」

そして、それ以上何も言わず、手を振りながら去っていった。

僕はパンを持ったまま、しばらくその背中を目で追った。

朝の光の中に溶けていくように、彼女はゆっくりと歩いていく。

……なんだったんだろう。

夢でも見ているような、不思議な感覚。

でも確かに、あの大きな目と、笑った顔は、目の前にあった。

なんとなく胸のあたりに、風の通り道のようなすき間ができた気がして、

僕はパンを口に運び、冷めかけたカフェオレを飲み干した。

そして、まるで何事もなかったかのように、会社へと向かった。

でも、この日を境に、僕の「いつもの日常」は、ほんの少しずつ――変わっていくことになる。



三章

数日後、いつものように18時に仕事が終わり、

帰宅してシャワーを浴びる。ぬるめの湯に肩を沈めると、体から力が抜けていく。

今日もなんてことのない一日だった。

誰かに話すほどの出来事もなく、会議をこなし、書類をまとめて、定時に退社。

着替えてリビングへ戻り、冷蔵庫から冷えたカフェオレを取り出す。

テレビのスイッチを入れると、くだらないバラエティ番組が騒がしく始まった。

テーブルの上にコンビニの弁当を置き、割り箸を割ろうとした、その時――

「ピンポーン」

部屋にチャイムの音が響いた。

僕は思わず手を止める。

人が来るなんて滅多にない。荷物も頼んでいないし、配達の予定もないはず。

「はーい……?」

少しだけ首を傾げながら玄関に向かい、ドアを開けると――

「来ちゃった、ふふっ」

と、その人は、まるで迷いもなくそこに立っていた。

マリだった。

公園で出会った、あの不思議な空気をまとった女性。

その時刻は、19時を少し過ぎた頃。

「えええ!? 本当に来たんですか?」

僕の声は、驚きというよりは、少し笑ってしまっていた。

「だって、「行きますね」って言いましたよね、あの時」

マリはそう言って、いたずらっぽく笑った。

その目が、大きくて、どこか子どもみたいで、見ていると妙に気が緩んでしまう。

「玄関先じゃ暑いし、入ってもいいですか?」

そう言いながら、僕の返事を待つ間もなく、

「お邪魔しまーす」と軽やかに靴を脱ぎ、僕の部屋にすっと入ってきた。

その姿を見ながら、なぜだか断る理由が見つからなかった。

というより、断る気すら起きなかった。

「改めて、私の名前は“マリ”です。“マリーゴールド”のマリ、ね。ふふっ。よろしくお願いします」

ソファに腰を下ろすと、彼女はそう言って笑った。

その笑顔には、作った感じがなくて、どこまでも自然だった。

「あの時、お名前と年齢を聞くのを忘れていたから……よかったら教えてください」

やっと、僕の話す番が回ってきた。

「……とおる、23歳です。よろしくお願いします」

するとマリは、またくすっと笑って言った。

「とおるさん、いい名前ですね。同い年だし。……なんか、運命的じゃないですか?」

僕は思わず照れて、少しだけ視線をそらした。

マリはずっと笑っていた。

他人の部屋に、それも異性の部屋に来て、なんでこんなに落ち着いていられるんだろう?

そんな疑問も、彼女のペースにすっかり巻き込まれて、聞きそびれた。

「あ、コンビニのお弁当。やっぱり毎日これですか? 栄養偏ってそう。よくないですよ?」

そう言いながら、僕の食べかけの弁当をのぞき込む。

「自炊、苦手で……。でも最近、野菜ジュースとか飲んでるから、まあ……なんとか……」

「ふふっ、なんとか、ね」

何がそんなに楽しいのか。彼女はずっと笑っていた。

僕が弁当の続きを食べると、彼女も隣にすっと座る。

少しだけ空いたソファの隙間が、不思議と心地よく感じた。

しばらく、テレビの音だけが部屋に流れていた。

その間、何も話さない時間が、やけに長く感じた。

でも、それが不快じゃなかった。

むしろ、となりに誰かがいるというだけで、いつもの“ひとり”の時間とまるで違っていた。

「私、20時半には帰らなきゃなんです。だから、少しの時間だけど……よろしくね?」

「早く食べてくださいよ? コンビニ弁当、冷めちゃいます笑」

そう言ってまた笑う。

けれど、なんとなくその笑顔に、一瞬だけ“何か”がよぎった気がした。

その後は、会社のことや、僕の朝のルーティンの話。

マリは質問が多くて、僕はまるで面接を受けているかのようだった。

でも、嫌な感じじゃなかった。

話すうちに、言葉にすることで、自分の生活がほんの少し輪郭を持っていくような、そんな気がしていた。

あっという間に時間は過ぎて、20時半。

「帰りますね、また来てもいいですか?」

そう言ったマリの顔が、ふと真顔になった。

ずっと笑っていた彼女の、少しだけ不安そうな表情。

「もちろん、来てください」

僕は自然に言っていた。

「今度は、マリさんの話も聞きたいし」

すると彼女は、ぱっと笑顔に戻った。

「やったー。でも、私の話はしたくないなぁ。……でも、今度は飲み物でも持ってきますね」

それから、彼女はカバンの中から小さな紙の束を取り出した。

「これ、どうぞ」

それは、マリーゴールドの押し花が貼られた、手作りの付箋だった。

「公園で本を読んでるのを見かけたから、何かしおりになるものを作ってみたんです。……どうしても渡したくて」

僕は、胸の奥に何かが温かく灯るのを感じながら言った。

「ありがとう。……今日から使わせてもらいます」

マリは玄関に向かい、靴を履いて振り返った。

「またね」

そう言って、軽く手を振って玄関の扉を閉めた。

今日わかったことは、

彼女の名前が「マリ」だということ。

僕と同い年、23歳だということ。

そしてたぶん――

彼女は、僕よりもずっと、いろんなものを抱えているということ。

けれど今はまだ、それを知るには少し早い気がした。

それよりも今は、

あの押し花の付箋を、どの本に挟もうかと、そんなことを静かに考えていた。



四章

それから、ちょうど一週間が経った水曜日。

時計の針が19時を指したころ。

「ピンポーン」

部屋にチャイムの音が響いた。

少しだけ心が跳ねる。

……やっぱり。

扉を開けると、そこには、あの笑顔があった。

「また来たよ」

「来ましたね。どうぞ、入ってください」

自然な会話。自然な距離感。

だけど、不思議と新鮮だった。

「ありがとう。あ、また“いつもの”コンビニ弁当だ。とおるさん、ほんと変わらないね」

そう言って、マリはビニール袋から一本の野菜ジュースを取り出し、僕に差し出した。

「はい、これあげる。たまにはね、体にいいもの取ってもらわないと」

「よく飲んでるし……一応、気にしてますよ」

僕がそう返すと、マリはいたずらっぽく笑った。

「そういうことにしておきます、笑」

そして、おもむろに自分のバッグからもう一本、同じ野菜ジュースを取り出す。

「じゃーん! 実は私も、これ。ペアですね〜」

ストローを差し込みながら、彼女はいつものソファへ腰を下ろす。

その仕草も、服装も、どこかラフで、でもちゃんと彼女らしくて。

今日もまた、僕たちは並んで座り、野菜ジュースを手に、話をはじめた。

マリは僕の一週間について、こないだと同じように、興味深そうに聞いてくる。

「え、それで? その上司ってどんな人なの?」

「へえ、同僚さんが旅行行ったんだ。お土産は?」

「うんうん、で、朝は相変わらず公園でメロンパンとカフェオレ?」

質問のテンポは軽快で、でもちゃんと耳を傾けてくれて。

話していると、なんだか自分の日常が、ちょっとだけ面白く思えてくる。

すると、ふとマリが言った。

「ねえ、こないだ渡した“マリーゴールドの押し花の付箋”、ちゃんと使ってる?」

その声に少し驚いて、僕は立ち上がり、玄関のそばに置いていた通勤カバンを手に取る。

「……会社に毎日持って行ってる本に、挟んでますよ。愛用させてもらってます、はい」

本を開いて、マリーゴールドの押し花を見せると、マリの顔がぱあっと明るくなった。

「わあ、よかった〜! 嬉しい!」

「……いつも私がいるんだね、その本の中に」

その言葉に、不意を突かれて照れてしまう。

「そ、そういうことになるね……💦」

気づけば、彼女の言葉ひとつで、こんなにも心が動くようになっていた。

食事が終わったあと、マリがベランダの方をちらりと見た。

「ねぇ、ちょっと外に出てみようよ。星、見えるかも」

「いいね」

僕は部屋の隅にしまってあった折りたたみの釣り用チェアを二つ取り出し、ベランダに並べた。

夏の終わりのような涼しい夜風が、そっと肌を撫でていく。

僕たちはその椅子に腰を下ろし、夜空を見上げた。

空には、街の明かりが届かないぶん、無数の星がくっきりと瞬いていた。

「……周りに光が少ないから、星がきれいだね」

マリがぽつりとつぶやいた。

「ほんとだ。いつもこんなに綺麗だって、知らなかったな」

風がやさしく通り抜ける音。

小さな虫の声。

街のざわめきとは違う、静かな世界が、ここにはあった。

ふたりとも、ただ黙って、夜空を見上げていた。

不思議と、その沈黙は心地よかった。

やがて、マリがそっと言った。

「……いつまでも、こんな時間が続けばいいのにね」

その声には、笑いのない、少しだけ寂しそうな響きがあった。

僕が何か言いかけたその時――

「ピロピロピロ」

彼女のスマホから、小さなアラーム音が鳴った。

「そろそろ……シンデレラは帰る時間みたい」

そう言って、マリは少し笑って、立ち上がる。

「今日は、とても綺麗な星空をありがとう」

「こっちこそ、野菜ジュースありがとう。また来てください」

「ふふ、お言葉に甘えて。また来させていただきますね」

ベランダをあとにし、彼女は玄関へ向かい、靴を履く。

僕たちは、目を合わせて、手を小さく振った。

「またね」

「また」

その扉が静かに閉まる音がしたあと、僕はベランダの椅子にしばらく座ったまま、動けなかった。

そのあと布団に入って、天井を見つめながら、今日のことを思い返す。

特別なことをしたわけでもない。

ただ話して、星を見上げただけ。

なのに、マリが帰ったあとの部屋には、爽やかさと寂しさが同時に残っていた。

――こないだも、水曜日。今日も、水曜日。

じゃあ、来週の水曜日も……来てくれるのかな。

そんなふうに思いながら、

僕はそっと目を閉じた。

マリーゴールドの押し花が挟まれた本が、枕元にあった。



五章

あれから、三か月が経った。

毎週水曜日の夜七時、チャイムが鳴るとマリがやってくる。

「また来たよ」「やったなー、勝ったー」「ねぇ、この花の名前知ってる?」

たわいない会話が、僕の部屋を優しく彩っていた。

ゲームをして笑い合い、花の名前を調べ、ベランダで星を見上げる。

季節は静かに流れ、あの暑かったベランダも、今ではほんの少し肌寒く感じるようになっていた。

「はい、いつもの野菜ジュース」

「ありがと。これがないと水曜日って感じがしませんね」

「星の光って、なんでこんなに綺麗なんだろうね……とおるさんと見るから、かな」

名前で呼び合うようになったのは、たしか一か月が過ぎたころ。

距離感が少しずつ、でも確かに縮まっていた。

マリが笑うたび、僕の中にも何かが灯る気がした。

「今日もありがとう」

「こちらこそ、ありがとう」

そんな言葉のやり取りが、僕たちの一週間をやさしく結んでいた。

水曜日は、僕にとって特別な日になった。

それは、あまりに自然で、あまりに幸せな時間だった。


けれど、その“いつもの水曜日”は、ある日、突然終わりを迎える。

その日も、いつものように19時を迎えた。

部屋を軽く片付け、ジュース用のグラスを二つ出し、ソファの位置を整える。

……けれど、チャイムは鳴らなかった。

「用事かな……?」

いつもより時間が長く感じられる。

テレビの音も、時計の秒針も、妙に大きく耳に入ってくる。

20時半を過ぎても、玄関のチャイムはならなかった

胸の奥が、静かにざわめいた。

何か、悪いこと言ったかな。

疲れてたのかもしれない。

もしかして

そんな思いが、夜の深さと共に、胸を締めつけていった。

彼女が来なかった水曜日が、2度、続いた。

水曜日が、少しだけ怖くなる。

そして、3度目の水曜日。

時計が19時を指したその瞬間。

「ピンポーン」

来た。

「マリだ」

僕は反射的に立ち上がり、急いで玄関へと駆け寄った。

ドアノブを回しながら、胸が高鳴っていた。

「やっと……来てくれた」

けれど、そこに立っていたのは、見知らぬ40代くらいの女性だった。

「……あの、何か御用ですか?」

女性は小さく頷き、言った。

「マリの母です」

その言葉を聞いた瞬間、心の中に薄く氷が張るような感覚が走った。

「マリが、いつもお世話になったようで……ありがとうございます」

「いえ……こちらこそ、お世話になって……ました」

「今、お時間ありますか?」

「……はい」

「ご案内したい場所があります。車を用意していますので、よろしければご一緒いただけますか?」

すぐに部屋に戻り、上着を羽織る。

心臓の鼓動が、少しずつ速くなっていた。

女性が運転する車に乗ると、車は静かに住宅街を抜け、やがて一つの建物の前で停まった。

それは、いつもマリと出会っていた公園のすぐ向かいにある——総合病院だった。

言葉が、喉で止まる。

車を降りて歩く足が、少し震えているのが自分でもわかる。

病院のロビーを抜け、案内されたのは、最上階の静かな個室フロアだった。

母親が立ち止まり、小さく呼吸を整えてから、僕の方を向いた。

「ここです」

白く光るネームプレート。

そこには、見慣れた名前が、静かに記されていた。

「入院患者:藤本 真理(ふじもと まり)」

目の奥がじんと熱くなる。

僕は、ドアの前で深く息を吸った。

そして、そっとノックをした。

中から返事はなかったけれど、母親がうなずいたので、ゆっくりとドアを開けた。


六章

「ここです」

マリの母親が、病室の前で静かに立ち止まった。

廊下には足音一つなく、天井の蛍光灯がうっすらと壁を照らしている。

その中に佇む白い扉。異様なほど静かだった。

ノブに手をかけた瞬間、僕の呼吸が浅くなるのを自分でも感じた。

“ここを開けたら、もう戻れない”

そんな直感のようなものが、心の奥に、そっと沈んでいった。

母親がゆっくりとドアを押し開けると、

そこには、あまりにも静かな風景があった。

シーツの上に、まるで眠っているように横たわるマリ。

信じられなかった。

目を閉じているだけのように見える。

さっきまで話していたような気がしてならない。

呼びかければ、きっと、あの軽やかな声で「来ちゃった」なんて言ってくれそうで。

「……マリさん……?」

そうつぶやいた自分の声は、驚くほどかすれていて、震えていた。

母親は一瞬だけ目を伏せ、そして意を決したように静かに語りはじめた。

「……あの子、白血病だったんです」

その言葉を聞いた瞬間、胸の奥が鋭い痛みで締めつけられた。

「余命の宣告も……されていました。でも、最後まで、ずっと病気と闘っていました。誰にも弱音を吐かずに……あの子らしく、ずっと笑っていました」

言葉の一つひとつが、喉の奥に刺さったまま、飲み込めなかった。

笑ってたじゃないか。

あんなに元気で、あんなに楽しそうで……僕は何も知らなかった。

「マリがね、余命宣告を受けた時に言ったんです。“どうしても会いたい人がいる”って」

僕の胸が、ぎゅっと音を立てて潰れそうになった。

「この病室の窓から、公園が見えるんです。

そこに、毎朝パンを食べている男の人がいたって。あなたのことです」

頭の中に、あの朝の風景がよみがえる。

ベンチ。メロンパン。朝の光。

その視線の先に、マリがいた

知らなかった。

見られていたことも、想われていたことも。

「お医者様は反対しました。でも、本人の強い希望で……副作用が比較的軽くなる水曜日の1時間半だけ。

それなら……と、許可してくれました」

時間の重さが、現実の重さとして胸に落ちてくる。

“水曜日だけ”

“1時間半だけ”

――それが、彼女の残されたすべてだった。

「きっとね、あなたには“病気のマリ”を見せたくなかったんです。

楽しい思い出だけを残したくて、きっと……」

その瞬間、僕の目から静かに涙がこぼれ落ちた。

母親は小さく頷きながら、懐かしむように言葉を続けた。

「送り迎えは、毎回私がしていました。あの子、車に乗るなり、楽しそうに話すんです。“今日も野菜ジュース飲んだよ”って」

「私、見る目あるね。あの人、めっちゃいい人!」

「って言ってね。本当に、あなたとの時間が嬉しかったみたい」

母親の目にも光るものがあった。

二人で思い出を分け合うように、しばらく沈黙が続いた。

そして――

「これを、渡してあげてくださいって」

母親がベッド脇から取り出したのは、一冊のノートだった。

少しだけ色あせた、花の模様が入った日記帳。

表紙の角が丸く擦れている。

何度も開いた証拠。たぶん、彼女の手の温もりがまだ残っている。

ページを開くと、そこには、見慣れたマリの丸みを帯びた文字が並んでいた。

「またあの人がパンを食べてる笑 今日はなんだろう……あ、メロンパンだ!」

「ついに話しかけた!すごく優しかった。泣きそう。ほんとにいい人だった」

「“家に来ていい”って言ってくれた……夢みたい。夢じゃないよね?」

涙が頬を伝い落ちるのを、もう拭うことすらできなかった。

ページをめくるたび、マリの笑顔が、声が、部屋の空気に染み込んでいくようだった。

「とおるさんっていうんだ。名前まで素敵」

「“また来ていいですか?”って聞いたら、“もちろん”って。優しすぎる。嬉しすぎて、帰り道で泣いた」

指先が震えていた。ページがにじんで読めなくなりそうだった。

だが、日記の途中から、文の色が変わった。

テンポが少しゆっくりになる。

「今日は副作用がつらい……体が重くて、息も苦しい。でも、水曜日にはとおるさんに会える。だから頑張る」

「病気なんかに負けたくない。星空の下で、笑いたい。星の灯りを一緒に見たい」

ページごとに、彼女の戦いが、希望が、祈りのように綴られていた。

そして――

最後のページ。

「ありがとう、とおるさん」

「とてもとても幸せでした」

「夜空も、星も、あなたの笑い声も、全部が宝物です」

「とおるさんなら幸せな家庭がもてるから私の分も幸せになってね」

そのページには、小さな押し花の付箋が貼られていた。

マリーゴールド。

あの日、彼女がくれたものと、同じ花だった。

風に揺れるオレンジ色の花の記憶が、胸の奥からあふれ出した。

そして、僕はもう声を押し殺せなかった。

涙が、途切れることなくこぼれ落ちた。

止まらなかった。

止めたくなかった。

彼女が最後に見た景色は、

あの夜のベランダ。

釣り用の椅子。

星。

そして、何も知らずに笑っていた僕だった。

「いつまでもこんな時間が続けばいいのに」

その一言に、どれだけの想いを込めていたのか。

今なら痛いほどわかる。


日記を胸に抱きしめ、病室の窓に目をやると、

そこには、変わらない公園があった。

風が、朝露をはらんだマリーゴールドを静かに揺らしている。

その風はどこか、あの日の彼女の笑い声に似ていた。

今日も、誰かがベンチに座ってパンを食べているかもしれない。

それは、明日からの僕だ。

マリ――

ありがとう。

君がくれた、あの優しい時間は、

僕の心に、ずっと咲き続ける。

まるで、あのマリーゴールドのように。


七章

あれから、もう10年が経った。

季節はまた、夏の終わり。

空にはうっすらと秋の気配が漂い、蝉の声も、どこか名残惜しそうに聞こえる。

僕は、結婚し、子どもが二人いる。

妻は優しく、子どもたちは元気だ。

仕事も順調といえるほどではないけれど、大きな不満もなく、日々が過ぎていく。

“幸せ”といえるのかもしれない。

でも、それよりも、“穏やか”とか“普通”という言葉のほうが、しっくりくる気がする。

そんな日々の中に――

ふと、彼女の面影がよぎることがある。

朝、カバンを開けるとき。

夜、子どもたちを寝かしつけたあとにベランダへ出るとき。

あるいは、静かな午後、風がマリーゴールドの花の香りを運んでくるとき。

妻には、マリのことをすべて話してある。

出会いのことも、水曜日のことも、別れの夜も、押し花の付箋も。

彼女は静かに頷いて、何も聞かずに、ただ僕の手を握ってくれた。

だから、毎年一度だけ――命日には、家族には何も言わず、静かに一人でマリの墓を訪れる。

墓石の前に、マリーゴールドを一輪。

他のどんな花でもない、あの日と同じ、あの色、あのかたちの花。

「マリさん、今年も来ました」

そう小さく声に出すと、不思議と胸が静まる。

あの水曜日の記憶は、今でも色鮮やかだ。

野菜ジュースの味も、夜空の風も、彼女の笑い声も。

全部、まるで昨日のことみたいに心に残っている。

けれど、それは“過去”ではなくなった。

今では、日常の中に静かに息づいている、“一部”になったんだと思う。

**

会社に向かう通勤バッグの内ポケット。

そこには、今も一冊の文庫本が入っている。

タイトルも、内容もたいして重くない、通勤中に少しずつ読む小説。

そのページの間には、マリーゴールドの押し花の付箋が2つ、はさんである。

一つは、あの日、彼女が僕にくれたもの。

そしてもう一つは――

妻と結婚する際、妻が静かに僕の手に渡してくれた、手作りの押し花。

「あなたにとって、とても大切な人だったんでしょう?」

そう言って、笑っていた。

あのとき僕は、うまく言葉が出せなかった。

ただ、目頭が熱くなって、ありがとうとだけ、呟いた。


通勤電車の窓から外を眺めながら、本を開く。

風に揺れるページの先に、色褪せた二つのマリーゴールドの押し花が、そっと揃って咲いている。

「忘れない」というのは、胸にしまっておくことじゃない。

日々の暮らしの中で、折に触れて思い出し、微笑んだり、胸を締めつけられたりしながら、静かに一緒に生きていくことだ。

そう思う。

マリがくれた水曜日。

あの時間が、僕をここまで連れてきてくれた。

家族の笑顔、夜風の優しさ、あの頃にはなかった未来を、今、こうして生きている。

彼女が願ってくれた“幸せ”の形の中で。

今年も、マリーゴールドは、ちゃんと咲いている。

オレンジ色のあの花が、今日も僕の人生に、静かに灯っている。

まるで、

そっと見守るように――。


マリーゴールドの花言葉

「“変わらぬ愛”」「“祈り”」



(作)

デイジー

花言葉

「希望」「平和」


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

マリーゴールドの朝 @hanakotoba08

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ