第30話 10月2週目

『帰国を一日早めました。迎えは大丈夫です』


 そうメールを送っていたが、夏生さんは来てくれた。


「お帰りなさい」

「ただいま」

「ステファンはなんだって?」


 ステファンは、あなたがやましいことをしてるんじゃないかって……


「パートナーと相談してから、お返事をいただくことになりました」

「そうか。こっちはレイアウト変更が上手くいったと思うんだ。気に入ってもらえるといいんだが」


 家に来たのは、本当に林田さんだけですか?


「さ、行こう、道が混んでくる」


 聞きたいことは聞けず、言いたいことも言えず、それでも助手席に座るとホッとする。


「今日の夕飯どうする?」

「あまりお腹は空いてないわ」

「なにか、買って帰ろう」


 最寄りの駅近くで総菜を買った。


「ここのコロッケが美味しいって、原田さんが言ってたって、林田君が言ってた」


 それって、原田さん情報、要ります?


「そうですか」

「あと、工事の日程を原田さんが送ってくれたから、後で確認しよう」


 また、原田さん?


「分かりました」


 もう、完全に嫉妬で心が焼かれている。

 自分でこの火を消す方法が分からない。


「疲れてそうだね」

「ええ。シャワーを浴びて、横にならせていただくわ」

「それがいい」


 着替えを取りに自室に行き、ベッドがないことに衝撃を受ける。


「私の部屋に移動させた」

「そうですか」

「見てみろよ」


 隣のドアを開けると、夏生さんのベッドに私のベッドがピッタリとくっ付いていた。


「どう?」

「どうって……」


 喜んでいいのかしら。

 やましいことを隠すためにやっていたりするの?

 ステファンの言葉が『男はそういう生き物だ』って何度も、何度も、こだまして……


「どうした?」

「すみません」

「気に入らなかった?」

「いえ、そういうわけでは……」

「そうだ、1階の改築のスケジュールを原田さんから」

「嫌です!」


 耳を塞いだ。


「その名前を聞きたくありません!」

「どうした?」


 夏生さんに両腕を捕まれた。


「放してください!」

「どうしたんだ!」

「聞きたくありません」


 後ずさり、ベッドに尻もちをついた。

 反動で仰向けに倒れてしまった。

 夏生さんが覆いかぶさる。


「どうしたって言うんだ?」


 逃げようと、体を翻す。

 腹這いになって逃げようと手足を動かす。

 後ろから、夏生さんが私の腰に手を回した。

 動けない……


「放してください!」


 どうしよう!どうしよう!ステファン!どうしよう!


 パニック!


「ステファン!」


 夏生さんの手の力が抜け、私はベッドにうつ伏せになって倒れた。


「なんで、ステファンなんだよ」

「それは……」

「あ、いや、いい。今は、冷静に聞けそうにないから、失礼させていただくよ」


 そう言って、夏生さんは出て行ってしまった。

 どうしよう。私どうすればいい?ステファン……




 金曜に帰国したのに、揉めてしまい、出て行った夏生さんは土日帰っては来なかった。


「はぁ……」


 溜め息が止まらない。

 これから会社で会えるかしら。


「本当は、こっちを着ていきたい」


 紫と黒のワンピース。

 私に自信を持たせてくれる魔法の服。だけど、もう季節外れで着ることができない。

 仕方なく、紫のブラウスに黒いスカートを履く。


 一人で電車で出社。

 なんか、もう、泣きそう。


 役員に与えられている、自分の個室に入る。

 大きな窓ガラスを眺めていると、門をくぐる夏生さんが目に入った。

 よかった、来てくれた。どんな顔をして会えばいいのかと考えながら、デスクに座り、書類を広げて仕事を始める。

 難しい書類に目を通す方が、夏生さんとの会話よりずっと簡単。


「失礼します」


 ノックの音とともに夏生さんが入ってきた。


「おはようございます、夏生さん、あの……」

「この前は、すまなかった」

「いえ。私の方こそ、あの……」


 言葉が出てこない。なんと言ったらいいのか分からない。


「今夜、食事に行こう」

「はい」

「6時に迎えに来ます」

「はい」


 なんの話だろう。

 きっと、もう、愛想を尽かれてしまったわね。


 6,7年前、入院した私の病室に夏生さんがやって来た。

「こんな時に、申し訳ありません」と恐縮しながら、書類に押印を求めてきた彼の訪問は、私にとって、この上ないご褒美だった。

 きっと手術を頑張った私に、神様がご褒美をくださったんだ、そう思った。


 その時、夏生さんの手に指輪がないことに気が付いた。

 結婚している人が皆、指輪をするとは限らない事は分かっている。

 だけど、入社の際にお会いした時は指輪をされていたから、ほんの少しの期待を込めて調べさせていただいた。


 夏生さんは入社後、間もなく離婚をされていたのだと言う事をその時知った。


 私は祖父に、夏生さんに縁談を持ちかけて欲しいとお願いした。

 できるだけ、夏生さんに負担のない形で、嫌なら断っていただいて構わないと、だけど、一度だけでもいい、二人きりで会うチャンスが欲しかった。



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