第20話 7月4週目
降りそうな天気ではあったが、どうしても自転車に乗りたかった。
ウェアを着て、畳んだスーツをナップサックに入れて背負った。
「行ってきます」
セーヌ川沿いのサイクリングロードが恋しい。
車の横をすり抜けて、ペダルを漕ぐ。
汗で張り付くウェアが気持ち悪い。
風を感じるが、少しも気持ちが良くない。
着替えの時間も考慮し、早く会社に着くようにした。
「おはようございます」
後ろから声をかけられた。
「おはよう、早いんだね」
「いつもこの時間です」
林田君は、ちゃんと自転車通勤をしていた。
「その格好で来たんですか?」
「汗かくからね、スーツはここに」
背中を向ける。
「皺になりませんか?」
「なるけど、汗だくよりはマシだ」
「あはは。その通りです」
「あ、の、さ」
急に声が出辛くなった。
「はい」
この暑い中、呼び止めといて、声が出ないなんて情けない。
「今夜……」
「飲みに誘ってくれるんですか?」
ありがとう、林田君。
「良ければだけど」
「いいに決まってます!自転車は会社に置いて行きますんで、終業時刻にまた、ここで、でいいですか?」
「ああ、じゃ、また」
何から何まで、察してくれて、ありがとう。
まだ明るい最中、向かいの会社に勤める20歳近く年下の青年と飲み行くと言うのは変だろうが、私には他に頼れる人がいない。
「室田さん、出張はどこに行かれてたんですか?」
「フランスだ」
「ツールドフランスを見に行ったんですか?」
「そのための出張ではなかったはずなんだけど、結果として、堪能して来たんだからそう言えるかもな」
「羨ましーです!」
若々しい青年の発言に、好感を覚える。
「奥様も行かれたんですか?」
「ああ、途中で合流して、一緒に帰ってきた」
「奥様も自転車乗るんですか?」
「いや。見るのは好きそうだが、乗りはしない」
前回と同じ居酒屋に入った。見回してみる。
「原田なら今日は来ません」
君には何でも分かってしまうんだな。
「そうか」
「今週は夏休み取ってて」
自転車を置いてきたので、心置きなく飲める。
生ビールを頼んだ。
「食べられないものはありますか?」
「いや」
林田君は、枝豆と冷やしトマト、焼き鳥の盛り合わせを頼んでくれた。
そして、私の方をじっと見ている。
そうだよな。
呼び出しといて、「何の話しか?」って思うよな。
「実は、相談したいことがあって」
「僕にですか?お答えできるといいですが……」
「その、原田さんとは、その後どうだ?」
「進展はなく、かと言って悪くもなってないので、現状維持といった感じでしょうか」
私に答える必要もないことなのに、真剣に答えてくれてありがとう。
「君が言っていた、『原田さんの好みに寄せていく』と言うのは、具体的にどうやって見極めたんだ?」
「はい?」
林田君が摘まんだ枝豆が、ピョーンと一粒、飛んで行った。
「あの、恥ずかしい話、私も妻の好みに寄せていけたらいいと思っているんだが、どうにもよく分からなくて」
林田君の口が空いたままだ。
「妻とは再婚なんだが、歳が10も離れていて、私は妻の好みでは無いようなんだが、どうにかできればなと……」
何を口走っているんだと、恥ずかしいはずなのに、勝手に口が動いてしまう。
「君が、原田さんに対して誠実な姿を見て、見習いたいと思ったんだ、フランスで……」
林田君が、うっすら笑っている。
「笑うことないだろ」
「すみません」
林田君は爆笑した。
「……」
「すみ、すみませ、ん、ほっ、と笑って、すみませ」
照れ隠しに焼き鳥を頬張る。
ひとしきり笑った林田君は、黙って枝豆をいくつか食べた。
「実は『室田さんの好みに寄せて行こうかなって』最初に言ったの、原田なんです」
「え?」
「その時、ロードバイクを買って、共通の話題を作りたいって、春香が言ってて……だから、共通の話題が出来れば、何でもいいんだと思います」
私と秋子の共通点……最初に浮かんだのは……ステファンだった。
「林田君と原田さんには、そもそも共通点はなかったのか?」
「職場は一緒だし、同期だし、よく飯食いに行ったりして、もともと話しは合う方だったんですけど、お互いに自分の話をするって感じで、相手に好きになってもらうために話をしようと思ったことはそれまで無かったんです」
秋子に好きになってもらうために話す……
「僕がロードバイクを買ったのは、その発想を春香から受けてのことです。春香は、最初、あなたに好きになってもらいたくて、自転車の話しがしたくて、乗り始めたんですけど……だけど、あいつは、今は、あなたの事は関係なしに自転車が好きみたいで……」
そうか。それを聞いて純粋に嬉しかった。
「僕も自転車が好きな春香に好きになってもらいたくて自転車を買って、乗ってるんですけど……さっき、言いました通り、進展はないので、僕が室田さんに出来るアドバイスは、現状ないっていうか、残念ながら、持ち合わせてなくて……どうもすみません、それに……」
林田君はジョッキに残ったビールを一気に飲んだ。
それから、ふぅっと息をついてから言った。
「この作戦は良くないかもしれません」
「なぜだ?」
「まだ、成功者を見ていません。春香も失敗してますし」
「ああ……」
ふたりで笑った。
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