第10話 ──京都地裁への道
雫が持ち込んできた四人の名前──赤松達彦、川原義明、間宮拓真、大泉まどか。
その一枚の紙を手にしたまま、真神怜司は古びたソファの背にもたれ、しばらく天井を仰いだ。
机の上には、飲みかけの缶コーヒーと乱雑に積まれた書類が、薄暗い蛍光灯の明かりに照らされている。
(これで、ようやく糸口に近づけるかもしれない……)
胸の奥に、静かだが確かな決意が湧き上がってくる。
彼女が必死で探り当てたこの四人の名が、香月慧失踪の真相に迫る鍵であることは、もはや疑う余地がなかった。
「ここからが、俺の仕事だ」
呟いた声は、小さな事務所の中でかすかに反響した。
怜司は椅子に座り直し、ノートパソコンの電源を入れる。
起動音と共に、外ではぽつり、ぽつりと雨の音が混じり始めていた。
空は朝から曇天で、今にも本格的に降り出しそうな気配を漂わせている。
まずはネットからだ。
名前があれば、SNSをはじめとするあらゆる情報の海から、何かしらの痕跡を拾える可能性がある。
「赤松達彦……」
ひとりごちるように名前を打ち込み、検索をかける。
次いで、川原義明、間宮拓真、大泉まどかと、順に入力していった。
検索結果の画面が次々に現れては切り替わっていくが、同姓同名が多すぎて、目当ての人物かどうか判別がつかない。
怜司は画面を凝視しながら、眉間にしわを寄せた。
「所属学部で何回生だったか……活動時期……もう少し手がかりがあれば」
プロフィール欄や投稿内容にヒントがないか目を走らせるが、いずれも決定打に欠ける。
ならば、と今度は彼らが使いそうなニックネームやアカウント名に焦点を切り替える。
“アカマツ”、“タツ”、“ヨッシー”、“マミー”、“マドカン”──ありそうな文字列を入力し、検索をかけ続ける。
だが──
「……出てこないな」
モニターの前でため息をついた。
数時間が経っても、結果は芳しくない。
まるで彼らが、ネットという世界に存在していないかのようだった。
(意図的に痕跡を消してるのか……それとも……)
机に肘をつき、怜司は沈黙の中で考え込む。
ネット社会にあって、ここまで痕跡が薄いのは不自然だ。
この四人は、いったい今どこで、何をしているのか。
そして──
(なぜ、名前の一覧に“代表”の名がなかった?)
もう一つ、胸の奥に引っかかる違和感があった。
部長。サークルの代表者の名が、資料には記されていなかったのだ。
それがただの調査漏れなのか、それとも意図的に隠されているのか。
いずれにせよ、これから調べていくべきことは山積みだった。
怜司は再びパソコンに向かい、検索の窓に手を伸ばす。
雨は、窓の外で静かにその勢いを増しつつあった。
真神怜司は、ノートパソコンの前で手を止めた。
「……まぁ、そんな簡単に分かってたまるかって話だよな」
思わず口元に浮かんだのは、自嘲にも似た薄笑い。
だが、心の中に焦燥はない。
むしろ、ここからが“本番”──怜司はそう腹を括っていた。
雫がもたらしてくれた実名。
たった一枚のプリントに記された四人の名前は、行方不明事件の核心に迫る鍵となり得る。
もちろん、ネット検索やSNSではヒットしなかった。
だが、それは想定の範囲内だった。
「……それでも、人間ってのは、生きてりゃ痕跡を残すもんだ」
怜司はそう呟くと、事務所の棚から年季の入ったUSBメモリを取り出した。
銀色の本体に走る細かな傷が、幾度となく使い込まれてきたことを物語っている。
それをノートパソコンに差し込むと、専用の検索支援ツールが自動的に立ち上がった。
それは官報専用のクロール検索ツールだった。
莫大な官報情報──破産公告、失踪宣告、裁判記録、法人設立・解散、行政処分など──を横断的に検索できる高性能アプリである。
検索条件の柔軟さと速度は特筆もので、最大過去10年分のデータを一括して洗い出せる。
このツールを入手したのは数年前のこと。
当時、ストーカー化した元恋人に悩まされていた依頼者──とあるIT企業の若きエンジニアだった──の調査を請け負った際に知り合い、問題解決後に「お礼に」と格安で譲ってもらった。
『探偵業にも、こういうの使えると思ってさ』
快活に笑っていたその青年の顔が、今も鮮明に脳裏に蘇る。
以降、このツールは何度となく怜司を助けてきた。
浮気調査、債務者の資産調査、行方不明者の手がかり収集──。
表には現れない“裏の情報”を掬い上げる、怜司にとっての切り札だった。
「さて、今回も頼らせてもらうぜ」
キーボードに指を這わせながら、怜司は一人一人、名前を正確に入力していく。
──赤松達彦(文学部・副代表)
──川原義明(理学部・会計)
──間宮拓真(法学部・渉外担当)
──大泉まどか(人間科学部・広報)
検索条件は、“過去10年間”“破産・裁判記録・失踪宣告”。
ゆっくりと深呼吸をして、検索実行ボタンを押した。
数秒後、画面の中で無数の文字列が走り出す。
官報データの奔流が、静かな事務所の空間にかすかな電子音とともに流れてゆく。
壁に反射するモニターの光が、淡く、怜司の表情を照らしていた。
「……頼むぜ。何か、引っかかってくれ」
探偵としての執念と希望を胸に、怜司はじっと画面を見つめ続けた。
■
京都市内の夜は早い。
人通りの少なくなった烏丸通りには、ビルの明かりがところどころ点滅するだけで、夜風がアスファルトをなぞる音がかすかに響いていた。ビルの谷間にひっそりと佇む雑居ビルの一室、そこが真神怜司の事務所だった。
木製のデスクに腰を据えた怜司は、手元の湯呑みに残るぬるくなった緑茶を一口すする。目の前のPCモニターがぼんやりと青白く事務所の薄暗さを照らしている。
官報検索支援ツールのウィンドウが、静かに点滅していた。
無機質なその画面には、膨大な情報と過去の痕跡が眠っている。
これまで幾度もこのツールに救われてきた。行方不明者の行動履歴、消えた会社の虚構、偽名を使う者の正体。
今夜、探るべきは――雫がもたらした四つの名前。
怜司は指先で静かにキーボードを叩いた。
「さて、どこから崩れるか……」
最初に入力したのは――赤松達彦。
検索ボタンをクリックすると、待っていたかのように複数の情報が画面に表示された。スクロールバーをたどる指先が止まったのは、ひとつの見逃せない文言だった。
「……損害賠償請求訴訟……?」
まぶたの奥が微かにうずく。クリックして詳細を表示したその先に、原告として記されていた名前を見て、怜司の目が静かに見開かれる。
――大泉まどか。
訴えたのは、かつての旧オカルト愛好会・広報担当。
訴えられたのは、同じく幹部だった赤松達彦。
裁判は3年前、京都地方裁判所で行われていた。
判決は原告・大泉の全面勝訴。赤松に対する金銭的な損害賠償請求が認められたと、官報には簡潔に記されていた。
理由欄には「不法行為」とだけある。だが、その言葉の重みは十分すぎた。
過去に何があったのか。サークル時代の関係性。表に出ることのない何かが確かにそこにあった。
モニター越しの文字列を見つめながら、怜司は胸の内にざらついた感覚を覚えた。
この情報を、雫に見せるべきなのか――そんな迷いが、一瞬脳裏をかすめる。
だが、それを断ち切るように、怜司は次の名前を打ち込んだ。
――川原義明。
検索結果はすぐに表示された。
その中のひとつが、怜司の指を止めた。
――自己破産手続。
令和元年の官報に、川原義明の名前が記載されていた。
債務総額、約1億円。
数字を見た瞬間、怜司は眉をひそめた。
「……これは、個人投資じゃないな。規模的には……事業失敗か、先物か……あるいは、株の暴落に巻き込まれたか……」
川原はかつて、サークル内で“会計”を担当していた。
その肩書が脳裏をよぎるたび、怜司の思考は暗い渦に引きずり込まれていく。
ただのオカルトサークルに流用できる資金などない。まさか当時の資金を私的に――と疑うのは早計だ。
表示された情報の下部には、官報記載の現在住所が記されていた。
都内の古びたアパート名と部屋番号。
冷えた部屋の中、怜司の唇がわずかに動いた。
「……まあ、川原は東京か。そっちは後回しだな」
そしてもうひとつ、確かめなければならないことがある。
赤松とまどかの間に、何があったのか。
その詳細を知るには、実際に裁判記録を閲覧する以外にない。
怜司はゆっくりと椅子の背にもたれ、モニターの光に照らされながら目を閉じた。
――次は、京都地方裁判所だ。
午前十時前、真神怜司は事務所のソファから重たい身体をゆっくりと起こした。
仮眠と呼ぶにはあまりに浅い眠りだった。瞼の裏には、夜中に目にした官報の文字が焼きついたまま離れない。赤松と大泉まどか――二人の過去に何があったのか。思考は何度も同じ問いを巡り、不穏な影だけを濃くしていた。
ぬるくなった珈琲をひと口。苦味が喉に絡みつく。
怜司は深く吐息を漏らし、ゆっくりと立ち上がった。
目指すは、京都地方裁判所。
中京区の菊屋町にあるその建物へ向かうには、烏丸御池駅から地下鉄に乗り、丸太町駅で下車するのが最も合理的だ。
だが、その先には炎天下の徒歩が待っていた。
九月とはいえ、京都の残暑は容赦がない。
アスファルトの照り返しが靴底から伝わり、湿気を帯びた空気が皮膚にまとわりつくようだ。
地下鉄の出口を抜けた瞬間、怜司は小さく目を細めた。日差しが強い。
歩道沿いに咲く百日紅の花が、目に刺さるような紅を灯している。その下を、小さな犬が飼い主に引かれて通り過ぎた。
蝉の声が遠くでけたたましく響く。陽炎が揺れる歩道を、怜司は淡々と歩き出した。
額に浮かぶ汗を無意識に拭いながら、脳裏では再び“あの言葉”が反芻されていた。
(……不法行為、か)
官報に記されていたのは、それだけだった。理由の詳細は伏せられていた。
あえて多くを語らぬその一言が、却って怜司の胸にざらついた疑念を残す。
そもそも、大学のオカルトサークルにおいて、何を“行為”とし、何を“不法”と断じるのか。
ふたりの間に、何があったのか。
怜司は、想像するほどに胸の内がざらついていくのを感じていた。
“鬼の淵”と無関係であるはずがない。
そう思いたくなる直感が、根拠もなく怜司の背中を押していた。
前方、灰色のコンクリートでできた京都地方裁判所の建物が視界に入ってきた。
威圧感を抑えた外観ながらも、そこに蓄積された“記録”の重みが、建物全体に沈黙の圧を与えている。
怜司は、歩幅を自然と速めていた。
額を伝う汗も気にせず、ただひとつ――
封じられた記録の奥に、あの日の“真実”が眠っていることを確かめるために。
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