第8話 ——鬼の淵の声

「……怜司、さっきの……見えたのか?」




 道暁の声は、先ほどまでの軽口とは打って変わって低く、どこか震えていた。


 洞窟内に響くその声は、冷えた鍾乳石を震わせるように、静かに反響した。




 怜司は深く息を吐いてから、懐中電灯の灯りを少し足元に落とした。


 水の染み出す岩肌が、その光を受けて鈍く光る。




 「視えたよ。……農民たちだった。粗末な衣装に、鬼のような顔。まるで何かに追われてるみたいな表情だった。中心には赤子を抱えた男がいた。その赤子だけが、今も泣いてた」




 「ま、まじかよ……なんなんだ、それ……」




 道暁の手がわずかに震えているのを、怜司は薄暗がりの中でも見逃さなかった。




 「なぁ、道暁」




 「ん、なんや……?」




 「なんで彼らは、俺たちの前に姿を見せたと思う?」




 「……いや、やめてくれって。そういう深掘り、この状況では怖いって……」




 道暁は冗談めかして肩をすくめたが、その笑いには明らかな緊張が滲んでいた。




 怜司は、洞窟の奥を見つめながら静かに言葉を継いだ。




 「ここに来る前、山道で落ち武者たちが見えた。彼らも、俺たちに視線を向けていた。……たぶん、同じ理由だよ」




 「……理由って、なんや……?」




 「霊ってのはな、ただ“伝えたい”だけなんだよ。無念だったり、悔しさだったり、存在そのものを感じてほしいという強い願いだったり。とにかく、自分がそこにいたってことを、誰かに知ってほしい。それが行動原理なんだ」




 洞窟の壁から、ひたり、ひたりと水滴が落ちる音がした。まるで誰かが静かに涙を流しているようだった。




 「……視える者――俺みたいな奴に波長が合えば、向こうも気づく。霊自体が強かったり、思念が濃かったりしたら、視えない人間の前にも現れることがある。……たいていは、そういう“訴えたい”気持ちが動力源なんだと思ってる」




 道暁は目を泳がせ、少し身を縮こませた。




 「お、おい……やっぱりやめようぜ。なんか、さっきから寒気が止まらん……」




 怜司は、ふと笑みを浮かべたが、それはどこか哀しげだった。




 「安心しろ。今はただ伝えたいだけの存在だった。……でもな、道暁。時々、その“伝える方法”を間違える霊もいるんだ」




 「間違える……って?」




 「言葉じゃ通じないと思った時に、誰かの身体を借りる。……憑依ってやつだよ。よくあるだろ? “突然友人の様子が変わって怖くなった”とか、“誰かに乗っ取られたみたいだった”って話。あれ、実際に起こるんだ」




 「……冗談、だよな?」




 道暁の声がわずかに上ずった。けれど怜司は何も言わず、懐中電灯の先を再び奥の闇へ向けた。




 そこには、漆黒の静寂が広がっていた。




 その目は、霧の奥に何かを探すように、どこまでも深かった。




 「なぁ怜司、オレ……今の話、マジで怖いから、ほんまやめてくれや……」




 懐中電灯の淡い光に照らされた道暁は、腕を抱えるようにして肩をすくめ、足を止めていた。額には汗がにじみ、手に持つライトがわずかに震えている。その姿は冗談抜きで本気の恐怖に包まれているように見えた。




 怜司は道暁の様子をちらりと見やり、口元に微かに笑みを浮かべると、ぽつりと呟いた。




 「でもさ、道暁……俺がいちばん怖いのは、お前なんだよ」




 「は? ……なに言ってんだよ、こんな状況で」




 道暁は顔をしかめて怜司を見たが、怜司の眼差しは冗談とも本気ともつかない、不思議な光を湛えていた。




 「お前さ、今でこそ震えてるけど、本当は怖がってなんかいないんじゃないかって思ってさ」




 「なに、それ……どういう意味や」




 「だって、お前、呪物コレクターだろ? 曰くつきの人形とか、古い仏具とか、よくわからないものを集めて悦に入ってる。……普通、そんなもん持ち歩こうとするか?」




 怜司はわざとらしく肩をすくめ、洞窟の壁を指差した。




 「こことかさ、ちょっとした音でもビビるのが普通だろ。でもお前、来るときも言ってたよな。“どんな怪異が潜んでるか楽しみだ”って」




 道暁は苦笑いのような顔をしながら、ぷるぷると首を横に振る。




 「いや、それは……言葉のあややって。興味はあるけど、別に怖くないわけじゃ……」




 「だったら、もし本当に“怖い”って感じてるなら、それはお前の中に、とんでもない何かが棲みついてるってことだよ」




 怜司の声音が急に静かになった。




 「そいつは、お前が集めた呪物たちの力を、ちょっとずつ吸って、お前の中でずっと成長してる。で、いつか……お前を完全に乗っ取る。お前が“お前じゃなくなる”日が来るんだ」




 「……マジで、そういうのやめろって……ほんま、冗談にしても笑えん」




 道暁は身を縮こませるようにして懐中電灯を握り直した。その手が小刻みに震えている。




 怜司は一拍おいて、わざと軽い調子で言った。




 「――なんてな。冗談だよ。さすがに怖がらせすぎたな」




 しかしその声には、ほんのわずかに苦さが混じっていた。




 (冗談なんかじゃない。あいつには確かに憑いてる……)




 怜司の目は、再び暗い洞窟の奥へと向けられた。彼には分かっていた。




 道暁には、普通の人間なら決して背負うはずのない“何か”が取り憑いていることを。




 自分にはそれが“視える”だけで、祓う力はない。ただの傍観者に過ぎない。




 それでも、道暁が今もこうして無事でいられるのは、きっとあいつの家に代々伝わるご本尊――仏像か何かの加護のおかげなのだろう、と怜司は思っていた。




 「ま、趣味は自由だけど、ほどほどにな」




 そう言いながら、怜司は再び歩を進めた。




 その背後で、道暁はまだほんの少し震えながらも、怜司の後ろ姿を追うように足を動かした。




 深い闇の洞窟には、二人の足音だけが、乾いた音を立てて反響していた。




 あの分かれ道で見た、粗末な衣服の農民と泣き叫ぶ赤子の霊。


 怜司と道暁は、その一団のあとを追うように、左の通路へと進んでいた。




 足元に感じる微かな傾斜に、怜司は息を整えながら足裏の感覚に集中する。




 「……これ、登ってるな。地味にキツい」




 ぽつりと呟いた怜司に、後ろを歩く道暁が呻いた。




 「マジかよ……太ももパンパンやって。こんなとこ登山とか聞いてへんし」




 しばらく登る感覚が続いたが、突然足が勝手に前へ出るようになった。




 「お、今度は下ってるな……今どこにいるんかわからんけど、なんやジェットコースターみたいや」




 道暁が懐中電灯を照らしながら周囲を見回す。




 「なぁ怜司……まだ見えてるん? あの農民と赤ん坊」




 怜司は立ち止まり、静かに周囲をうかがった。




 「いや……もう見えへん。気配も消えてる。完全に」




 「そうか……よかった……ようやく落ち着けるわ」




 ほっとしたような道暁の声を聞きながら、怜司はふと呟くように言った。




 「たぶんな、あの霊たちは……昔ここで起きたことを、誰かに知ってほしかったんやろな」




 「……知ってほしかった?」




 「そう。赤ん坊を間引くっていう、極限の貧しさから生まれた風習。あれがあの霊たちの“伝えたかったこと”なんやろう」




 道暁は思わず口を閉じ、懐中電灯の光を足元に向ける。




 怜司は続けた。




 「たとえば、こけし。あれって元は、間引かれた子どもを供養するための人形って言われてる。貧しい農家にとって、ひとり増えるだけで食い扶持が厳しくなる時代やったんや。豊作の年ならともかく、不作が続けば信仰にすがるしかない。土着の神様に“子を返す”って……」




 「人間の業ってやつか……こわい話やな」




 「それにな。ちょっと裕福な家でも、長男以外の子は“厄介者”として粗末な部屋に押し込められた。“厄介部屋”って言うらしい。俺が読んだ伝承本に、戦前ぐらいまでは当たり前にあったって書かれてたわ」




 「信じられんな……昭和やろ? そんな時代、うちのジジイとか普通に生きとった頃やん」




 二人の会話が途切れると、鍾乳洞内は再び静寂に包まれた。




 そのとき、不意に空気が変わる。




 冷気が肌を撫で、耳の奥に水音が微かに届く。




 「……ん?」




 道暁が前方を照らす。




 そして、その先に現れたのは——




 巨大な水面。




 壁から無数の水滴が静かに落ち、湖面に無数の波紋を生み出していた。




 「……これが……鬼の淵、か」




 怜司が呟く。




 岩肌の湿った匂い。ランタンと懐中電灯の光が映す、墨のような水の広がり。




 言葉を失うほど、圧倒的な空間だった。




 「……なんか、地獄の入り口みたいやな……」




 そう呟いた道暁の声が、しんとした洞窟に反響して消えていった。




 鬼の淵──。


 それは鍾乳洞の最深部、岩肌に囲まれた巨大な地底湖だった。




 怜司と道暁は、立ち止まったまま息を呑んでいた。


 目の前には、まるで墨を流したような暗い水面が静まり返って広がっている。




 「……泳ぐとか、無理やろこれ」




 ぽつりと道暁が言った。


 その声は、洞窟の壁に吸い込まれるように消えていく。




 怜司はLEDの懐中電灯の光を水面に当てたまま、小さく首を横に振った。




 「無理だな。まず、水面までが高すぎる。足場もない。落ちたら……這い上がる場所がない」




 光を追っても、水の奥は深く沈んで見えない。底があるのかどうかすら分からない黒の深淵。




 「しかもこの暗さ。湖の底がどうなってるかなんて、まるで見えない」




 怜司はしゃがみこみ、懐中電灯を慎重に岩場の端に置いた。


 白い光がわずかに湖面を照らし、その表面に、怜司たちの影がゆらりと揺れていた。




 そのときだった。


 静まり返った湖面の下から、ごぼごぼと水を飲み込むような音が聞こえた。


 そして……それに混じって、赤子の泣き声のような微かな音がした。




 「……今、聞こえたか?」




 怜司が小声で言うと、道暁がびくりと肩を震わせた。




 「やめてくれよ……気のせいやろ? なあ、そうやろ……?」




 怜司は懐中電灯を手に取り、水面にもう一度光を当てた。


 だが、そこにはただ静寂と暗闇が広がっているばかりだった。




 「……もし、誰かが飛び込んでたとしたら……?」




 道暁の言葉に、怜司はゆっくりと答えた。




 「そそのかされたか、強要されたか……。こんな場所、好き好んで入るやつはいないよ」




 「やっぱ、殺人って可能性、あるんか……?」




 道暁の声が少し震えていた。




 怜司は黙って湖面を見つめながら、小さく頷いた。




 「俺たちがこうして現場に来て、はっきり分かったことがある」




 「なにが?」




 「ここは……“帰れない場所”だってことだ」




 それは決して比喩ではなかった。


 ここに落ちた者は、這い上がれない。


 助けを求める声も、届かない。




 「怜司……あれだけ霊が出てきたんや。雫の兄ちゃんの霊……感じたりせぇへんの?」




 その問いに、怜司は少し顔を曇らせた。




 「……それがな、全然感じない」




 「マジかよ……落ち武者とか農民とかは見えてたのに?」




 「ここには……残ってない。雫の兄の気配も、思念も、まるで感じない」




 道暁は水面を見つめながら、ぽつりと呟くように言った。




 「……じゃあ、兄ちゃんは、ほんまにここで……?」




 怜司は答えなかった。ただ、懐中電灯の灯りの先──


 その沈黙の水面を見つめ続けていた。




 水は語らない。


 叫び声も、悲鳴も、すべてを呑み込んで、ただ静かにそこにあるだけだった。




 風もない洞窟の奥で、二人の吐息だけが小さくこだましていた。




 鬼の淵。


 それは人の手では到底測れない、悪意も怒りも悲しみも、すべてを無言でたたえる沈黙の水面だった。




 湖面は静かに凪いでいたが、怜司にはふと、深く沈む何かが水の奥でうごめいたような錯覚を覚えた。小さく、揺れたようにも見える。その直後、わずかに“ごぼ、ごぼ……”という、何かが水を飲み込むような低い音が耳に届いた。




 ──それは、誰にも知られることなく沈められた“何か”が、未だそこに在るという証のように。




 そして、ほんの一瞬だけ。


 湖面の暗がりの奥に、白く細長い布の切れ端のようなものがゆらりと揺れた。怜司は目を凝らすが、それはすぐに水底へと沈んでいく。


 まるで、女性のワンピースの裾のような、柔らかく、しっとりとした白い布だった。




 しばらく湖面を見つめていた怜司は、ぽつりと口を開いた。




「……無理してでも、ここまで来た意味はあったよ」




「それは……何で?」




 道暁が小さな声で聞き返す。




 怜司は微かに笑みを浮かべながら、答えた。




「目で見て、体で感じないと分からないことってあるだろ。ここは、まさにそれだ」




 道暁は少しうなずいた。




「でも……雫の兄ちゃんのことは?」




「それはまた別で、時間をかけて調べていくさ。少なくとも、ここが“帰ってこられない場所”だってことは分かった。今はそれだけでも収穫だ」




 怜司は立ち上がり、懐中電灯で足元を照らしながら言った。




「さあ、帰ろう。ここに長居する意味はない」




「……お、おう」




 道暁は声を震わせながら立ち上がり、怜司の後を追った。




 一時間後。


 ようやく二人は山を下り、京都市内にある探偵事務所へと戻ってきた。




 時刻はすでに夜の十一時を回っていた。外気は冷え込み、事務所の空気は昼間の熱気とは打って変わって静まり返っていた。




 怜司は椅子に座り、湯沸かしポットで淹れたインスタントのコーヒーを道暁に差し出した。




「仕事でもないのに、無理に付き合わせちまったな。ありがとな」




 道暁は缶コーヒーを受け取りながら、少し照れたように笑った。




「よくわからんけど……お前が真剣やったから、俺もな。ついて行けて、まあ良かったわ」




 怜司も笑い、軽く肩をすくめた。




「また頼むことがあるかもな。……そのときは、呪物持ってきてもいいから」




「いやそれ、いらんねん……」




 二人は笑い合い、やがて道暁は帰路に就いた。




 車に乗り込むと、後部座席に置いてあった自作の呪物人形を見つけた道暁は、それをぎゅっと抱きしめて小さく呟いた。




「こわかったわー……もうこんなとこ、連れてかんといてな……マジで、無理や……」




 怜司はその姿を見ながら、わざと無視するように手を振った。




「おう、気ぃつけろよ。その人形、たぶん……ずっとお前のこと見てるけどな」




「やめろやあああああっ!!!」




 夜のコインパーキングに、道暁の情けない叫び声が響き渡った。


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