第6話 ──哭ノ窟への道中

 エンジンが低く唸りを上げ、ゴツい四駆の車体が京都市内を抜けていく。




 だが、朝の九号線は思った以上に混雑していた。特に沓掛あたりまでの区間は、いつもながらの慢性的な渋滞が続いており、車列の間にうんざりするほどのブレーキランプの赤が並んでいた。




 「……やっぱり、日曜の九号線は地獄だな」




 怜司は運転席の道暁にぼやいた。助手席には荷物をどけた上で、例の日本人形“美香”が鎮座している。ガラスのような瞳が、振動に合わせてかすかに揺れていた。




 「最初から縦貫道で行くべきだったか……」




 「まあまあ、渋滞も旅のうちや。おかげで美香ちゃんとの時間も増えるし」




 「いや、増やすな」




 道暁は上機嫌に美香の髪を梳いている。どう見ても“人形愛好家”を通り越している。




 この異常な光景に、怜司はうすら寒さを覚えた。助手席に座るそれが、ただの無機物であることを、時々忘れてしまいそうになるからだ。




 「俺さ、昔は工場で働いてたんだよ」




 車内の空気を変えようと、怜司はふいに話を切り出した。




 「意外やな。工場って、ライン作業とか?」




 「うん、地味なもんだったよ。でもな、現場・現物・現実、って“三現主義”ってのを徹底されててさ。机上の空論より現場で見ろ、触れって。あれが今の仕事でも結構役に立ってる」




 「へぇ……」




 道暁は興味ありげに返したが、視線は依然として人形に向けられたままだ。




 「……聞いてないだろ」




 「ちゃんと聞いてるさ。三現主義でしょ。俺の三原則は“蒐集・接触・共鳴”だけどな」




 「……道楽ここに極めれり、暁を覚えずってやつか」




 「よう言わはるな、それ。おもろいやんか」




 そんなやりとりを交えつつ、ようやく沓掛を越えた車は京都縦貫道へと滑り込んだ。




 園部で一度降り、国道を走り抜け、丹波インターチェンジを経由して舞鶴自動車道に合流。そこから福知山インターへと入り、さらにそこから旧道を使って、目的地である哭ノ窟なぐさのいわや近くまで辿りついた。




 標高こそ低いが、周囲は鬱蒼とした山に囲まれた山間部。舗装はされているものの、狭く曲がりくねった道が続き、時折落石や枝葉が道を塞いでいた。




 「やっぱ、ここまで来ると空気が違うな……」




 怜司は窓を開け、湿った森の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。




 隣では道暁が美香を撫でながら「着いたぞ、美香ちゃん」と小さくささやいた。




 「……君の“相棒”は心強いな」




 「そりゃあな。俺の命綱やからな」




 怜司は思わずため息をついた。美香の目が、こちらを見ている気がする──そんな錯覚すら覚えるほど、どこか生々しいのだ。




 車は、目的の洞窟の少し手前にある広場に停まり、エンジン音が山に吸い込まれていった。




 しかし、哭ノ窟まではここからさらに山道を徒歩で一時間歩かなければならない。




 木々が鬱蒼と茂る登山道の入り口が、目の前に口を開けていた。まるで、何かを待ち受けるように。




 怜司は荷物を手に取りながら、そっと息をついた。「……じゃあ、行くか」




 その声は、森の奥に吸い込まれていった。




 道暁が車のドアを開けて降りようとした瞬間、怜司はその背に向かって声をかけた。




「……頼む、道暁。その人形、今日は置いていってくれ」




 助手席に置かれていた“美香”と名付けられた日本人形は、黒髪を艶やかに垂らし、真っ白な肌の顔をこちらに向けているようだった。その瞳はガラス玉でありながら、どこか生きているように見える。




「え? 何でや?」




 道暁は振り返り、怪訝な表情で美香を抱え直す。




「お前だって分かってるはずだ。ああいう“持ってる”モノは、こっちの感覚を鈍らせることがある。視えなくなるんだ、妙な霊障の前兆とか……それに、もしこの地に何かがいたとしたら、あの人形が反応して、共鳴して、よからぬことが起きるかもしれない」




「よからぬことって……例えば?」




「事故。足場の崩落。体調の急変。過去に何度か似たパターンで、ああいう呪物が原因だったことがある」




 道暁は黙ったまま、美香の顔を見つめた。まるで別れを惜しむような仕草で髪を撫でている。




「……そりゃ、美香は俺の命の護りなんやけどな」




「分かってる。でも、今回は事情が違う。哭ノ窟は、普通の場所じゃない。視えるべきものが視えなくなるなんてことが起きたら、命取りだ」




「……ふむ。しゃあないな」




 道暁はため息をつき、慎重に人形を抱えて後部座席の足元に置いた。




「留守番やで、美香。ちゃんとええ子にしといてな」




「ただの人形なら、それで済むんだけどな……」




 怜司の言葉は風に溶けて消えていった。




 時刻はすでに午後三時を少し前に差し掛かっていた。ここから哭ノ窟までは、さらに山道を徒歩で一時間。往復するにはギリギリの時間帯だった。




 怜司は空を仰ぎ見た。山の稜線にはまだ太陽が浮かんでいたが、周囲はすでに薄暗く、木々に囲まれた山道は昼間だというのに薄闇が広がっている。




 日が落ちれば、一気に視界は悪化する。戻り道で足を踏み外せば命に関わる──それを思うと、胸の奥が少しだけざわついた。




 二人はホームセンターで揃えた装備品をそれぞれ身に着けた。ヘルメットにヘッドライト、滑りにくい登山靴と手袋、道暁の分も含めたザックには予備の電池や食料、応急キットまで詰め込まれていた。




「行くぞ。無事に帰ってこれるうちにな」




 怜司の言葉に、道暁は小さくうなずいた。そして、二人は哭ノ窟への山道へと足を踏み出した。




 地図にすら満足に載っていないような、獣道に毛が生えた程度の山道を、二人は重たい装備を背負って黙々と歩いていた。




「はぁっ……はぁっ……思ったよりキツいな……」




 怜司は額の汗をぬぐいながら、斜面の角度を睨む。想像以上の急勾配で、息がすぐに上がる。後ろを歩く道暁もゼェゼェと荒い呼吸を漏らしていた。




「おい怜司ぃ……こんなん、運動不足には毒やぞ……ああ、膝が笑いよる……」




「……道暁、もう少し静かにしろ。声で熊が逃げるならいいけど、逆に寄ってきたら洒落にならん」




 道中、濡れた木々が辺りを包んでいた。朝方には晴れていたが、昼過ぎに突如として激しい通り雨が通り過ぎたらしい。葉の表面に残る水滴が時折、滴り落ちて肩や首筋に落ちるたびにヒヤリとする。




 地面はぬかるんでいた。泥が靴に重く絡みつき、歩くたびに足が取られそうになる。踏み出す一歩一歩に神経をすり減らす。




「……なあ怜司。この依頼者の兄さんや、そのサークルの連中……肝試しっていうかさ、もう完全に範疇超えてるよな。ここ、好き好んで来るような場所ちゃうで……」




「……俺も同感だ。正気じゃない。でも、好奇心ってやつは時に理性を壊すんだよ」




「はは、俺らも同類っちゅうことやな。ここまで来てる時点で」




 道暁はそう言って笑ったが、疲労が色濃く滲んだ笑みだった。




 足元を確認するための登山用ストックを突きながら、時折バランスを崩しそうになっては苦笑いを浮かべる。怜司も、ホームセンターでそろえた装備――登山靴、防水ジャケット、ヘッドライト、虫除けスプレーなどを詰め込んだバックパックが肩に食い込んで重かった。




「夏の陽なんて、あてにならんな……」




 怜司がふと空を見上げながら呟いた。




 太陽はまだ沈んでいないはずなのに、木々が密集しているせいか、視界の大半は薄暗く、まるで夕方のような気配が漂っていた。




 まさに、逢魔が時。時間帯ではなく、世界の境界が揺らぎ始める“その時”が迫っていた。




 何かが、こちら側をうかがっているような、そんな空気が辺りに満ちていた。




 その時だった。




 怜司の足が、ふいに止まった。




 全身の毛穴が、わずかに総毛立つ。肌が冷たい風に撫でられたような錯覚と共に、視線を感じた。




 大勢の視線を、感じた。




 ただの錯覚だと、理性は言う。しかし、それを否定するにはこの感覚はあまりにもリアルすぎた。




 怜司はそっと背後を見やるが、そこには道暁がいるだけだった。




「……どうした、怜司?」




 道暁が訝しげに尋ねる。




「……いや、何でもない。気のせい……かもな」




 だが、自分の直感は裏切らない。哭ノ窟の“何か”が、既に彼らの到来を知っている。




 その確信が、怜司の胸の奥に冷たい影を落としていた。




 傾斜のきつい獣道を、怜司と道暁は重たい装備を背負いながら黙々と進んでいた。




 頭上には鬱蒼とした木々が覆いかぶさり、まばらにしか陽が差し込まない。先ほどの通り雨で湿った空気が肌にまとわりつき、ぬかるんだ足元に足を取られそうになる。




 怜司はふと、ぴたりと足を止めた。




 その瞬間、背筋にひやりとしたものが走った。




 胸の奥がざわめく。まるで、数十の視線が一斉にこちらを見ているような、そんな圧迫感。




 「……どうしたんだ、怜司? また何か見えたのか?」




 道暁が後ろから声をかけてくるが、怜司は答えず、ただじっと前方の木々の隙間を見つめた。




 その先に、確かに“いた”。




 木々の間、微かな光を背にして立ち尽くす影たち。




 それは――落ち武者だった。




 戦国時代の武士たち。鎧兜は朽ち果て、血で黒ずみ、破れた衣が風に揺れている。手や足が欠損している者もいれば、首のない者もいた。




 そして、その中の一人。




 背に、ぼろぼろの旗印を背負っていた。そこにうっすらと浮かび上がる桔梗紋。




 「……明智光秀の軍勢か」




 怜司は小さく呟いた。




 恐らく、山崎の合戦のあと秀吉の軍に敗れ、命からがらこの山奥まで逃げ延びたものの、落ち武者狩りに遭って命を落とした者たち。




 その怨念が、いまもこの地に根を張っている。




 じっと、こちらを見ている。




 眠りを妨げたことに怒りを燃やす者もいれば、口元を引きつらせるように笑い、「早く仲間になれ」と語りかけてくるような者もいる。




 怜司はゾッとした。身体中に鳥肌が立つ。




 この地の空気が変わった。時がねじ曲がり、昼でも夜でもない、逢魔が時に取り込まれたようだった。




「……見えなくて良かったな、道暁」




 怜司はようやく口を開いた。




「そういうのはな、視えない方がいい。俺の目は、時々ろくでもないものを拾っちまう」




 道暁は神妙な顔で頷き、何も言わずに怜司の横に並ぶ。




 落ち武者たちは動かない。ただ、じっと見ている。




 襲ってくる様子はないが、あの眼差しは怜司たちの姿を、魂の形までも見通しているように思えた。




 怜司は再び一歩を踏み出した。視線を背中に感じながらも、道暁とともに前に進む。




 この先に待つ“哭ノ窟”が、さらに異なる恐怖を秘めていることを、まだ知らぬままに。




 夕暮れの光が山の木々に遮られ、道はすでに夜の帳が降りたかのように薄暗くなっていた。怜司は額に滲む汗を拭いながら、ぬかるむ山道を踏みしめる。雨上がりの地面は滑りやすく、草木が繁茂する細い道は、まるで人を拒むように閉ざされていた。




 「やれやれ、まだかよ……」




 ぼやくように呟いたのは道暁だった。肩には簡易ロープやら懐中電灯、非常食を詰めたザック。彼の後ろ姿は一見すると登山客だが、腰には念のためと持ってきた塩と清めの鈴、そして何より――車に置いてきたはずの日本人形「美香」が入ったポーチを手にしていた。




 「……道暁。まさか、それ、持ってきてないよな」




 「いや、これは単なる御守り代わりやって。今日はちゃんと車に置いてきたから安心しぃ」




 ホッとする一方で、怜司は彼の言う「御守り」の基準がまったく信用できないことを思い出し、心の中でため息をつく。




 そこへ、道の向こうに開けた岩の裂け目が見えた。周囲の木々がやけにざわついているように感じられたのは、風のせいか、それとも――。




 「……あれが、哭ノ窟か」




 怜司が立ち止まった。獣道の終わりにぽっかりと口を開けるように現れたのは、まるで山が泣き声を上げたかのような、不気味な洞窟の入り口だった。岩肌は黒ずみ、古い水垢が幾筋も流れ落ちている。入口の周囲だけ、気温がひときわ低く、肌を刺すような冷気が漂っていた。




 「ようやく、着いたな……」




 道暁が息を吐く。だがその声はどこか、引き締まっていた。




 「気を引き締めろよ、暁。ここから先は――何があるかわからない」




 怜司はザックからヘルメットを取り出し、額に装着する。LEDライトのスイッチを入れると、白い光が洞窟の奥を照らし、岩壁に無数の水滴が光を反射した。




 「しっかし……本当に入るのか? 正気か俺たち」




 「依頼だ。それに、俺自身がこの目で確かめたい。雫の兄さんが、どうしてここに来て、そして帰ってこなかったのか」




 ふと、雫の顔が脳裏をよぎった。あの儚げな微笑。真夏だというのに、なぜか風のような冷たさを感じさせる存在。




 ――彼女は、何を知っているのだろう。




 「怜司……」




 「ん?」




 「君、あの子に惚れてんじゃないか?」




 「ち、違ぇよ。ただ、依頼者として……気になるだけだ」




 道暁はくくっと笑うと、洞窟の前に歩み寄る。




 「じゃあ、まずは俺から行こう。君は後ろから照らしてくれや」




 「気ぃ抜くなよ。何かあっても、引き返す判断だけは間違えるな」




 そう言いながら、怜司も洞窟の入口に一歩、足を踏み入れた。




 そこは、夏の山とは思えないほど、冷たい空気が支配していた。まるで、遠い昔にこの地で起きた出来事の名残が、いまだ消えずに息を潜めているかのようだった。


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