第3話 ──慈雲寺にて
情報が、あまりにも少なすぎた。
八年前の失踪事件──名門大学に通っていた大学生・香月慧が、地底湖で忽然と姿を消した出来事。
通常であれば、サークル名、同行したメンバーの証言、警察の調査記録、あるいは多少の報道がネットの片隅に残っていても不思議ではない。
しかし、それらは驚くほどに欠落していた。
──まるで、誰かが意図的に“削除”したかのように。
「……せめて、あの場にいたメンバーの名前さえわかれば……」
真神怜司は、薄暗い探偵事務所の机に肘をつき、指先で古びたマウスをカチリと動かしながら、かすれた声でつぶやいた。
依頼人である香月雫は、慧の妹で、当時はまだ中学生だった。怜司が今回依頼を受けたのは、彼女が兄と同じ大学に在学していることを知ったからだった。現在、雫にはその大学のオカルトサークルに接触し、少しでも当時の情報を掴んでもらうよう頼んである。
だが、それもすぐに成果が出る保証はない。
大学内部の情報は容易に引き出せるものではなく、ましてやサークルメンバーたちはすでに卒業して久しい。怜司の立場からでは、彼らの現在の所在や交友関係を追うすべがなかった。
「……じゃあ、今できることをやるか」
怜司は半ば惰性のように新しい検索タブを開き、キーボードに指を走らせた。
──鬼の淵。
それが、慧が最後に目撃されたという“地底湖”がある場所の俗称だった。
モニターに表示された地図を睨む。
その洞窟は京都北部の山間部、福知山市と舞鶴市の間に位置していた。標高は高くないものの、周囲をぐるりと低い山々に囲まれており、密生した樹木の海の中に埋もれるように存在している。
「……京都市内から……車で二時間弱ってとこか」
呟きながら、怜司は目を細めた。画面に表示された道路経路は、山道に入るほどに線が細くなっていき、やがて舗装路すら怪しくなる。
公共交通機関を使えば、まずJR嵯峨野線で園部駅へ。そこから山陰本線に乗り換え、最寄り駅に着いた後は、さらにバスで三十分──だが、そのバスが一日に一本しかないという現実があった。
「どんな不便な場所だよ……」
思わず口に出して苦笑するが、次の瞬間、その表情がぴたりと止まる。
ある古い郷土資料の中に、こんな記述を見つけたのだ。
『鬼の淵のある一帯には、かつて小さな集落が存在していたが、数十年前にダム建設のため沈んだ』
沈んだ──
人々が生活していた家屋も、神社も、墓地も、すべてが濁った水の底に沈んだ。
そして今、その沈殿した土地のどこかに、“鬼の淵”と呼ばれる洞窟がぽっかりと口を開けている。
観光地ではない。案内板もなければ柵もない。山道の途中にわずかに残る苔むした標識が、訪れる者に曖昧な道筋を示すばかりだった。
衛星写真で洞窟周辺を拡大する。黒い影のように見える山肌の割れ目。そこに至るまでの林道は、所々で落石に阻まれ、舗装も崩れているようだった。
怜司の背筋に冷たいものが走った。
──こんな場所に、若者たちが肝試し目的で入り込んだのか?
常識では考えられない。だが、大学のオカルトサークルという特異な集団なら、無謀な儀式めいた“恒例イベント”の名目でやりかねない。
「……何を見たんだ、香月慧」
怜司は画面に映る洞窟の写真をじっと見つめた。
鬱蒼とした木々の影の奥、岩肌にぽっかりと開いたその穴は、まるで巨大な口のようだった。
呼んでいる──そんな錯覚にさえ襲われる。
だが今、怜司にとっての“鬼”とは、怪異そのものではない。
記録を消し、証言を曖昧にし、事件の輪郭を溶かしていった沈黙の連鎖。
それこそが、この事件を覆い隠している正体だった。
「必ず、何か引きずり出してやる」
怜司は指先に力を込めた。深夜の画面に浮かぶ洞窟の影が、じわじわとその輪郭を濃くしていくように思えた。
夜更けの探偵事務所。
机の上のスタンドライトだけが、薄暗い部屋に橙色の光を落としていた。
真神怜司は椅子に深く腰を下ろしたまま、スマートフォンを手に取る。
画面には、通話履歴の中でも異彩を放つ名前が表示されていた。
《慈雲寺・道暁じうんじ・どうぎょう》
京都市内、北白川の外れにある小さな古寺の住職だ。
だが、彼の姿を見て坊主と答える者はまずいない。
まず髪の毛。剃髪どころか、背中まで届く長髪を後ろで無造作に束ね、黒光りする髪が風に揺れるその姿は、どう見ても僧侶には見えない。
初対面の人間は誰もが腰を抜かし、少なくとも寺の門前で手を合わせる者はまずいない。
さらに派手な柄シャツに細身のパンツ、金属のアクセサリーをじゃらじゃらと身につけ、常に煙草の匂いを漂わせている。
身体は異様に痩せていて、まるで骨だけの人形のようにも見える。
趣味は呪物の蒐集。
曰くつきの掛け軸や、海外の民間信仰の偶像などをネットや骨董市で集めては、本当に呪われることもしばしば。
そのたびに、怜司の元を訪れては「今度のはガチっぽい」と言いながら憑き物を見せてくる。
実際、道暁には常に“何か”が憑いている。ひどい時には三重に纏っていることすらある。
それでも飄々としているのが、この坊主の恐ろしさでもあった。
「……まったく、あの坊主のせいでこっちが祟られるっての」
ぼやきながら、怜司は発信ボタンを押す。
数コールの後、くぐもった声が電話越しに響いた。
『ん、レイちゃん? もしかして、また何かついてる?』
「いや、今日はそっちじゃない。ちょっと相談したいことがあってさ」
『おお、なんだなんだ。珍しいな。呪物の鑑定じゃなければ、女の子絡みか? まさか恋煩いってやつじゃ……』
「違う。鬼の淵って聞いたことあるか」
相手が一瞬、黙る。
『……鬼の淵? あー……あそこ、行くつもりか?』
「一度、足を運びたいと思ってる。正直、一人じゃ心許ない。まずはそっちの寺に寄って、状況を話したい。ついでに飲みにでも行こうや」
『お、ええやん。久しぶりに外で酒飲むか。最近またひとつ、妙な仮面を拾ってしもうてな……右肩がずっと重たいんや』
「また拾ってきたのか……。まあ、行く前にそれも見てやるよ。霊の声が聞こえなけりゃ、何がついてるかは分かる」
『頼りにしてるで。で、鬼の淵の話はそれからやな?』
「そういうこと。明日、昼過ぎにそっち行くわ」
『了解や。酒は冷やしとく。あと怪談のネタ、ついでに一つ持ってきてくれや』
通話を切ると、怜司は微かに笑いながらスマートフォンを伏せ、夜の闇に目を細めた。
鬼の淵――。
そこには、きっと語られていない何かがある。
それを暴くには、普通じゃない感性を持つ者が必要だった。
翌日の午後、曇天の空を見上げながら真神怜司は京都・北白川の山裾へと向かっていた。
目指すは「慈雲寺じうんじ」──地元でもほとんど知られていない、藪に埋もれたような小さな古寺である。
車を降りると、湿り気を含んだ風が頬を撫でた。
山門をくぐれば、風鈴の涼しげな音とともに漂うのは、湿った苔と線香の匂い。
だが、その香りに混じって何か異質なものがある。
土気、生乾きの木材、古びた布……そして血のような鉄の匂い。
白い砂利を踏みしめ、苔むした石段を登りながら、怜司は胸の奥にじわりと重みが差すのを感じていた。
ここは“普通”じゃない。
霊能者としての勘が、そう告げている。
「……やっぱ、気持ち悪ぃな」
戸を叩くと、中から陽気な声が響いてきた。
「おう、おかえりレイちゃん。上がっとくれ」
戸を開けた瞬間、むっとする熱気と共に、鼻腔を突く異臭が広がった。
香木の匂いとはかけ離れたものだ。
線香、埃、古紙、乾いた皮膚のような匂いが入り混じっている。
本堂の中はまさに異様だった。
天井からは奇怪な面が吊り下げられ、壁際にはひび割れた西洋人形、赤黒く変色した木札、毛髪を封じた瓶が無造作に置かれている。
そこかしこに異国の偶像が鎮座し、朱文字の護符が天井から床まで貼り付けられていた。
時々、道暁が連れてくる美香と呼ぶ得体の知れない日本人形が哀しげに怜司を見つめてくる。
呪物の巣窟──。
これが坊主の空間とは、誰が想像するだろうか。
そんな混沌の中に、ひときわ静かに祀られているのが中央の壇上の観音菩薩像だった。
薄暗がりの中で浮かび上がるその表情は、ただ穏やかに微笑んでいる。
だが怜司には、こう語りかけているように感じられた。
──このアホ、なんとかしてやってくれへん?
「今日もまた……悪趣味な博覧会だな」
「落ち着くやろ?」
そう言って現れたのは、住職・道暁。
剃髪どころか、腰まで伸びた黒髪を無造作に垂らし、細身のパンツに民族柄のシャツ、手首にはガラガラと音を立てるブレスレット。
坊主というより、場末の呪術師か風変わりなアーティストか。
だが、身体は不思議なほど引き締まり、瞳には軽薄さの裏に奇妙な鋭さがある。
「……また、何か連れてるな」
怜司の目は、無意識のうちに道暁の右肩へと吸い寄せられていた。
灰色の影──人型に見えなくもない、それは道暁の肩にぴたりと張り付いていた。
「前に言うたやろ? モンゴルの市で仮面拾ったって」
「そっち系か……呪われてんじゃねぇか」
「うん。肩が冷たいんよ。でもまあ、今回は喋らんだけマシやな」
道暁は肩を軽く叩き、飄々と笑った。
「まぁ座りぃ。茶でも淹れるわ」
案内されたのは、本尊の前に置かれた赤い座布団。
周囲の呪物たちが静かにこちらを睨んでいるようで、怜司は肩に僅かな緊張を覚えながら腰を下ろした。
湯呑みに注がれた茶から、香ばしい香りが立ち上る。
その香りだけが、この空間で唯一“生きているもの”のように感じられた。
──さて、鬼の淵の話に入るには、まずこの異空間に馴染む覚悟がいる。
怜司は、静かに一口、茶をすすった。
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