第6話

 カラルは気を紛らわせるために、本棚を眺めた。難しそうな題名ばかりが並んでいる。とても読めそうにない。それでも、じっとしているのが怖かった。カラルは本棚から適当に一冊選んで表紙を開いた。


「温かい血と……冷たい血……」


 イラージャの著書だった。蛇や蛙の生態について書かれている。

 カラルは食い入るように文字に目を走らせた。それを読んでいる間は、辛いことを考えずにいられた。


 窓の外には青黒い闇が広がっていた。沈みかけた太陽が、わずかに山脈の稜線を赤く縁取っている。


――コンコン。


 ゆっくりと戸が開けられた。イラージャだ。右手に持った手燭が、彼女の顔に深い影をつくっている。その顔には疲労の色が見えた。


「……終わったよ。付いてきな」


 カラルはイラージャの背に付いて、長い廊下を進んだ。

 突き当りの戸を開けると、真っ暗な部屋が広がっていた。

 イラージャが蠟燭の明かりを掲げると、薄っすらと黒い体が浮かび上がってきた。


「リーハ……!」


「眠り薬を飲ませてある。しばらく起きないよ」


 カラルはリーハの左足に目をやる。太腿の途中から白い包帯が幾重にも巻かれている。その先には、何も無かった。


(ああ、本当にもう無いのか)


 リーハの側に寄り、膝をつく。暗がりの中、蠟燭の明かりが二人を照らす。

 カラルはそっと、リーハの身体を撫でる。ふいごのように、お腹が上下している。


(ちゃんと、生きてる……)


 今はそれだけで十分だった。

 カラルはリーハの大きな身体に背中を預ける。反応は無い。けれども静かな寝息と、ほんのりと温もりが伝わってくる。


 しばらくして、カラルもすうすうと寝息を立て始めた。

 その様子を見て、イラージャは部屋を後にした。戸にもたれかかり、ふうっと一つ息を吐く。


「あんな小さい子に、酷な選択をさせちまったな……」


 静かな廊下に、窓から月明かりが差し込む。



 採光窓からの光で、カラルは目を覚ました。いつの間にか、身体には毛布が掛けられていた。傍らを見ると、リーハはまだ眠っていた。


「起きたかい?」


 イラージャが部屋に入ってきた。手にはお盆と風呂敷を一つ持っている。


「おはようございます、院長。あの、この毛布って……」


「リーハの熱だけじゃ足りないだろう。風邪を引かれちゃ困るからね」


 そう言いながら、持っていたものをカラルの前に置く。お盆にはクブズが二切れと、温めた山羊の乳が乗っていた。


「お腹空いてるだろ? ちゃっちゃと食べちまいな。あと、こっちはリーハの餌だ。起きたら食べさせてやりな」


「ありがとうございます、何から何まで……」


 カラルは湯気の立つ乳の良い香りで、少しだけ心が安らぐのを感じた。

 クブズを一切れちぎって、乳に浸した。口に入れると、ほんのりと蜂蜜の甘みと、ぴりっとする生姜の辛味が広がった。体の芯からじんわりと温まっていく。冬の朝に、これほど頼もしいものは無かった。

 カラルが朝食をとっている横で、イラージャが口を開いた。


「もう少ししたら、リーハが目を覚ますだろう。朝方は駆竜の動きは鈍くなる。けれど……体が温まってきて足のないことに気づいたら、じっとしていられないだろうね。覚悟しておくんだよ」


 お椀で指を温めながら、カラルはこくりと頷いた。


「それじゃあ、あたしは他にも仕事があるから、お暇させてもらうよ。もし何かあったら、そこの呼び鈴を鳴らしな」


 イラージャは天井から垂れ下がっている紐を指さした。そして、すっと立ち上がると、部屋から出て行った。


 最後の一切れを食べようとしたとき、リーハがもぞもぞと動き出した。鼻をひくひく動かしている。


「おはよう、リーハ。……お腹、空いてるか?」


 風呂敷を広げると、中には団子状の肉が幾つか入っていた。団子を一つ取り上げてリーハの前に持っていく。リーハはくんくんと匂いを嗅いでから、舌と上顎で器用に団子だけを掬い取った。二つ、三つと平らげていく。

 ちゃんと食欲がある。カラルは安堵した。


 肉を食べ終わると、リーハは満足そうに舌なめずりをした。

 それから、ゆっくりと立ち上がろうとした。その時だった。


「リーハ!」


 ぐらり、とリーハの体が傾いた。カラルは慌ててリーハの体に手を伸ばす。ずっしりと重たい体がのしかかった。

 リーハは何度も何度も立ち上がろうとしては体勢を崩す。その度に、苛立たしげに鳴き声を上げた。


「お願い、リーハ! もうやめて!」


 カラルはリーハを押さえる。しかし、リーハは立ち上がることをやめなかった。

 リーハが体を動かすたびに、強い衝撃がカラルを襲った。

 弾き飛ばされないよう必死にしがみついているうちに、リーハの動きが鈍くなってきた。


 リーハはよろめきながらその場にしゃがみ込んだ。そして、しげしげと左足があった場所をじっと見つめた。目に焼き付けるように、確かめるように、じっと。



 リーハが足を無くしてから一月。降り積もっていた雪はまばらになっていた。

 リーハは竜舎に戻っていた。傷はふさがったが、かつての活気は無い。食欲も失せていた。

 日毎に弱っていく姿を見るのは、胸が裂かれるようだった。


「リーハの様子は……?」


 房の前でしゃがみ込んでいると、父が話しかけてきた。


「ずっとこんな感じ。放牧場に連れ出しても、隅っこでうずくまってばかり……」


 リーハの、艶の無くなった鱗を眺めながら、ぶっきらぼうにつぶやく。


「そうか……。戦に行かなくて済むようになった代償が、これか……」


 父は大きなため息をつく。

 足のない駆竜は戦で役に立たない。だからリーハはもう徴用の対象ではないのだ。

 カラルは、リーハが戦場に行かずに済むと知ったとき、心のどこかで安堵していた。しかし、それと引き換えに走る喜びを一生奪われたことに憤りも感じていた。


「ねえ、父さん」


 カラルは父の方を振り向いた。


「俺、リーハをもう一度走らせたい。こんな狭い房の中に閉じ込めていたくない……」


「そうだな……」


 少し間をおいて、不意に何かを思いついたように父が顔を上げた。


「俺の知り合いに鍛冶職人がいる。あの鎧を作ったやつだ。もしかしたら何か力になってくれるかもしれない」


 父は、浅黒い旧友の顔を思い浮かべていた。


「鍛冶職人……」


「そう。トクマクという名前でな、腕の立つやつだ。気難しいが、面倒見のいいやつでな……。駆竜の鎧とか、人の鎧とか、色々手広くやってる。人用の義肢も作っていたはずだ」


 一つの希望が見えてきた。もしかしたら、リーハはまた走れるようになるかもしれない。そう思うと、胸の高鳴りを抑えられなかった。


「後で手紙を送っといてやる。引き受けてくれるかはわからないが、きっと返事はくれるはずだ」


「ありがとう、父さん」


 震える声で、父に感謝した。



 五日後、トクマクからの返事がきた。

 父は封を切ると、四つに折りたたまれた紙を丁寧に広げ、読み始めた。


――わが友ラティーフへ。

 用件は確かに承知した。俺が直接向かいたいところだが、あいにく今は戦の直後で人用の義肢作りに忙しい。

 そこで、息子をそちらへ向かわせる。腕は俺が保証する。

               トクマク――


 読み終えると、父はカラルと顔を見合わせた。二人とも、隠しきれない笑みを湛えていた。

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