貨幣のない国
〆鯖
貨幣のない国
若い商人がある街を訪れた。そこは通貨のない国だった。
関所にたどり着いた商人は驚いた。
「うちは貨幣がないんですよ。なので関税は荷台のもの一つということになっています。」
幸い、商人の荷台にはがらくたもそこそこあったため、それを渡して関所を通過することができた。
「まったく今時貨幣がない国とは驚いた。ここじゃ一味違う駆け引きができそうだ。」
商人は貨幣がない国を見たことがなかった。商人の心は好奇と少しの不安で満ちていた。
商人は考えなければならなかった。
ただ持ってきたものを巧みな言葉で売りさばくだけなのとは、話が違ったからだ。
商人は考える。
貨幣がないということは、おそらく物々交換が主流であり、そこには貨幣に代わる何らかの価値のあるものがあるに違いない。
商人は、酒場に足を運んだ。
「おや、お嬢ちゃんが昼間っから酒場とはどうしたんだ?」
「子ども扱いしないでくださいよ。こう見えてももう二十三なんです。商人としても一人前ですよ。」
まだ日が短い影を作っていたが、酒場は賑わっていた。
マスターが商人に気づいて声をかける。
「おやおや、お嬢ちゃん商人なのかい。こりゃ驚いた。この町は商人に好かれる街じゃないからね。ところでお嬢ちゃん、この国は初めてかな。ここじゃ酒は25まで出せないんだ。価値が落ちるからね。」
「価値?」
商人は困惑した。酒を飲むと価値が落ちるという意味が理解できなかった。
「お嬢ちゃんにはミルクでもあげよう。」
商人はミルクを受け取ったが、飲もうとしなかった。
「これを飲んだとして、代金はどうやって払うのですか。がらくたなら荷台にありますが、それで構わないですか?」
「いいや、いらないさ。お嬢ちゃんの価値は若さだ。代金はそれで充分だよ。あと商人としての根性だな。」
商人はますます困惑した。
「若さが価値になるとして、いったいどう支払えば?」
商人は自分の寿命を吸われるような想像をした。
「いやぁ、若いってのは存在してるだけで価値になるんだ。だからミルクくらいそれだけで十分なのさ。」
「はぁ。ええと、ありがとうございます。」
「ま、若さとか美貌に頼りすぎるのも良くないけどな。期限が短いからね。ま、商人のお嬢ちゃんには無用の心配だったかな。」
商人は不思議な気持ちになった。
「では、あなたのその親切と、ついでにそこの酒を買わせてください。荷台にオルゴールがありますので、それと交換でいかがでしょう。」
「オルゴールか……。音楽は良い。それこそ、若さよりずっと長持ちだしな。」
マスターは気さくに笑う。
「あまり若い子に酒は売りたくないが、商売には付き合ってやるよ。」
マスターはしぶしぶ良さそうな酒瓶をひっぱり出してきた。
「オルゴールは良いなぁ。心が落ち着く。」
オルゴールの音をしばらく聴き、気に入ったようで、もう一本おまけしてくれた。
商人は雑貨屋に向かった。
そこには、見慣れない不思議なものがたくさんあった。
だが何よりも、そこに値札がないことが商人にとっては衝撃的だった。
商人はある程度目利きができたが、ここでのほかの物との価値の比べ方は心得ていなかった。
「失礼、店主さん。ここではどうやってモノを買ったらいいんですか?」
薬の瓶を磨いていた白髪の老人が顔を上げる。背筋がシュッと伸びた紳士だ。
「価値を支払えば買えますよ。この国はどこもそうですよ。ええ。」
「どんなものを価値にできるんですか?」
「それは人によりますねえ。私でしたら、商品にできるものがいいですかねえ。ほかにも、労働力とかを払う人とかももちろんいますよ。国が価値を与えてくれます。価値とは多様なものですよ。ええ。」
商人は疑問に思った。労働力や商品を買うなら通貨のほうが扱い易いと考えたからだ。
「なぜこの国には通貨がないのですか?通貨があったほうが商売も取引も円滑に進むと思うのですが。」
老人は唸った。
「そりゃあ国王様がお決めになったことですからねえ。でも、私はこの価値の交換、結構楽しいですけどね。ええ。」
取引の喜び。
商人は、貨幣の動かし方は良く知っているし、その楽しさも知っている。
だが、ここでの取引にまだ快感を得られていない。
「皆、自分に価値を見出そうとする。普通じゃ貨幣にならないものも、ここでは価値になる。その価値は、誰かが決めて、買い取る。私は好きですよ。こういうの。多分この国の人は皆そんなような感じだと思いますよ。ええ。」
商人は少し感心した。だが引っかかる点も多い。
「では、例えば、私のこの帽子は母からもらった宝ですが、あなた方からしてはただの帽子です。さて、これであそこの大きな宝石が買えますかね。」
「うーん。私は売らないですかね。でも欲しがる人もいると思いますよ。私なら、その帽子に詰まった物語のほうが欲しいですねえ。本にでもしてくれたら、結構欲しいですね。あの宝石だと厳しいかもしれませんがね。ええ。」
商人は昔撮った夕焼けの写真を、果物ナイフと寝不足解消用の睡眠薬に換えて、雑貨屋を後にした。
この国で商売をする人は、音楽やら本のように長く価値が残るものが好きなのだろうか。
「そろそろ宿を取らなくては。」
商人は宿の代金を何で払おうかと考え、銀貨で払ってみることにした。
「すいませんねえ。この国は貨幣が無いだけじゃなくて、そもそも貨幣で取引しちゃいけないのよ。ごめんなさいねえ。」
宿屋の主人は、申し訳なさそうに言う。
「銀貨が好きで集めてる人もいるけど、取引はできないし、この国じゃ骨董品以下の価値しかないねぇ。集めるのにも申請が必要らしいわよ?まあこの国じゃ貨幣は役に立たないのさ。ほかに何か持ってないのかい?」
商人は少し落胆した後、玄米一合を渡して部屋に入ることができた。
「まったく不便な国だなぁ。」
商人は不満に思いながらも、自分の価値について、少し興味が湧いていた。
早朝、商人は宿を後にした。
道中で手持ちの毛皮をいくつかの林檎に変えて、それを齧りながら歩く。
そこそこ大きな国であったために、貨幣が無いことが余計に不思議に見えた。
林檎が半分ほど削れたころ、裏路地にいる少年と目が合った。
怯えたような、何処か飢えたような、透き通る琥珀色の瞳がどこか美しくて、私は見惚れてしまった。
私は、そこに価値を感じたので、残りの林檎をあげることにした。
少年は少しおびえた様子で林檎を受け取る。
この少年は、この林檎を
「ねぇ、価値って何だと思う?」
耐えられなくなったのか、林檎を貪っていた。
やはりどこでも貧富の差はあるらしい。
あの少年には価値がなかったのだろうか。
商人にはそう見えなかったが、救えるほどの価値を商人もまた持っていなかった。
裏路地を進んでいくと優しそうな男に話しかけられた。
「お嬢さん、かわいいね。その可愛さに応じて僕が案内してあげよう!」
ここでの不思議な取引にも慣れてきた。
だが商人は容姿だけで価値になるなんて、照れくさいし申し訳ないとも感じていた。
「さあ、こっち。」
薄暗い石造りの廃墟のような場所に来た。
「この上だよ。」
そこの屋上に上ると、美しい街並みが見えた。
「わあ。美しいですね。」
「でしょう!君も同じくらい美しいよ。」
その直後、視界が暗転した。
目が覚めると、石の冷たい感触が肌に伝わってきた。
商人は服がはだけたまま横たわっていた。
恐怖で、しばらく動けなかった。
彼女はそのことを宿屋のオーナーに話した。
「わ、私は、い、ったい、ど、どうし、たら……。」
「そりゃあんた、大変なことさね。今日はもういいから早くねなさいな。」
どうやらこの話が価値になったらしい。
商人は何も考えられなかった。
睡眠薬を喉に流し込み、ベッドに倒れこんだ。
後日、宿に役人と思われる人が来た。
いくらかの男の写真を持ってきて、商人に見せた。
その中に昨日の男がいた。
商人は恐怖しながらその男を指さした。
「ありがとうございました。あなたの価値は返ってきませんが、あの男の価値は清算されます。我が国の民の無礼をどうかお許しください。」
昨晩、宿屋が訴えたのだろう。
あの男はいったいどうなるのだろうか。
私の価値は、どこに行ってしまったのだろう。
商人の問いに答えてくれる人はいなかった。
正午、その男は断頭台に架けられた。
だが、商人の心の虚空はなくなることはなかった。
「お嬢ちゃん、そりゃ大変だったなぁ。まあ、俺がどうこう言える問題じゃねえけど、そんな男にお嬢ちゃんの価値は潰せねえってことは言えるな。」
「……私の体は、私の権利は、私の価値は、どこに行ってしまったんでしょうか。」
あの男の処刑で私の心が清算されたとは思っていない。
あの時私は、人間そのものとしての価値を否定された。
あの恐怖が、不快感が、ぬるい風のように背中を撫でてくる。
「お嬢ちゃんの価値は失われたわけじゃない。」
夜の騒がしい酒場に、優しいオルゴールの音が鳴りだした。
「その一瞬で壊されるくらい君の価値は脆いのかい?もちろん傷ついたって、動けなくなったっていい。でも、足を止めたときに、本当の価値は失われると思うんだ。」
商人ははっとした。
失われない価値。
物語の一ページくらい、最悪だっていいんだ。
これから全部、楽しい冒険譚で埋めていくのだから。
「マスター、ありがとうございました。少し前向きな気持ちになりました。良い言葉をいただけたので、いつかオルゴールが入荷したら、また来ます。」
「おう、よかったよ。待ってるぜ。」
数日後、商人は国を発つことにした。宿のロビーでペンを走らせていると、一人の少年が興味深そうにこちらを見てきた。
「何してるの?日記書いてるの?」
「ああ、日記じゃなくて、物語かな。私とこの帽子の冒険譚だよ。」
少年は目を輝かせた。
「ねえ、聞かせて!」
「じゃあ君の純粋さの価値に応じて、この話をしてあげよう。もうそれはそれは、この帽子とは雨の日も風の日も――」
商人は、その国での最後の商売をしに、雑貨屋を訪れた。
「おやおや、まさか本当に本にしていただけるとは。ええ。買い取りますよ。なにと交換いたしますか?――ええ。それはいいですね。ええ。できればその帽子も欲しいのですが。」
商人は答えた。
「これは渡せません。ここに私の物語があるから。」
「どうでしたか。この国は。」
関所で兵士に尋ねられた。
「自分の価値というものが、少し見えた気がします。」
商人は帽子をかぶりなおして、次の国を目指した。
貨幣のない国 〆鯖 @akichattayo
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