第9話 ノイズ

新しい『時空観測室』での仕事は、以前とは比べ物にならないほど高度で、そして刺激的だった。


最新鋭の量子コンピュータと、世界中に設置された新しい観測網のおかげで、俺はもはや地球の『ため息』を聞くまでもなく、その『呼吸』のリズムそのものを予測できるようになった。

「3ヶ月後、プレートの動きが活発化することで、地球の自転に0.001ミリ秒単位の加速が見られます。半年後のGPS一斉更新の際に、この誤差を組み込むべきです」

俺のレポートは、もはや予言に近かった。


栞は、あの一件で得た膨大なデータを元に、水を得た魚のように研究に没頭していた。

「太陽フレアの電磁パルスが、高次元空間に与える影響についてのシミュレーションよ。もしこれが正しければ、天気予報みたいに、小規模な時空の歪みを予測できるようになるかもしれないわ」

彼女のデスクの周りには、凡人には解読不可能な数式が書かれたホワイトボードが、何枚も立てかけられている。


そして光は、そんな俺たち専門家(という名の変人)と、他の部署や新しく配属されたスタッフたちとを繋ぐ、完璧な潤滑油として機能していた。

「水無月さん、栞さん!また難しい顔してますね!ほら、お昼ですよ!今日は屋上で、五十嵐局長代理の奢りの、特上うな重です!」

彼女の明るい声がなければ、この観測室はただの静かな研究室になっていただろう。彼女がいるから、ここは『チーム』でいられる。


そんな、完璧なほどに平穏な日々が、数ヶ月続いた。

誰もが、この平和が永遠に続くと信じていた。

俺自身も。


異変の最初の兆候は、本当に、些細なものだった。


「……なんだ、これ」


観測データの片隅に、奇妙な波形を見つけたのは、ある日の午後だった。

それは、あまりに微弱で、他のあらゆるデータに埋もれてしまいそうなほど小さなノイズ。

普通なら、機器の誤差か、宇宙空間の偶発的な放射線が原因として、自動的にフィルタリングされる類のものだ。


だが、俺には、それがただのノイズには思えなかった。

他のノイズが無秩序な波形を描くのに対して、それだけは、まるで何かの『リズム』を持っているように見えた。

トクン……トクン……と、弱々しい心臓の鼓動のような。


「水無月くん、どうしたの?そんな画面の隅っこを睨みつけて」

コーヒーを片手にやってきた栞が、俺のモニターを覗き込む。


「いや……なんでもない。少し、気になるデータがあっただけだ」

咄嗟に、そう答えていた。

なぜかは分からない。だが、このノイズのことは、まだ誰にも言うべきではない、と直感が告げていた。

この完璧な平穏を、俺の気のせいで乱したくなかった。




その日から、俺は一人で、あのノイズを追い始めた。

業務が終わった後も観測室に残り、膨大なデータの中から、あの心臓の音を探す。

それは、数日に一度、ほんの数秒だけ現れては、すぐに消えてしまう、幻のような信号だった。


そんな俺の様子を、仲間たちが見過ごすはずもなかった。


「水無月さん、また一人で残ってるんですか?最近、ちゃんと眠れてます?」

夜食のおにぎりを持ってきてくれた光が、心配そうに俺の顔を覗き込む。隈がひどい、と彼女は言った。


「ああ、少し気になることがあってな。大したことじゃない」


「……また、一人で抱え込もうとしてませんか?」

光のまっすぐな瞳が、俺を射抜く。

「私たちは、仲間です。地球を救った時みたいに、何でも言ってくださいって、約束したじゃないですか」


「……分かってる。本当に、ただの俺の思い過ごしかもしれないんだ。もう少し、確信が持てたら、必ず話す」

俺は、そう言って彼女を納得させるしかなかった。


一方、栞は別のアプローチで俺の秘密に迫っていた。

「ねえ、水無月くん。あなたの最近の検索ログ、見させてもらったわ」

ある日の昼休み、彼女はタブレットを操作しながら、何気ないふうに言った。

「『ゴースト信号』『ファントム波形』『次元外ノイズ』……。あなた、何か面白いものを見つけたんでしょう?」

科学者としての好奇心が、キラキラと彼女の瞳に宿っている。


「……まだ、そうと決まったわけじゃ」


「いいから、データを渡しなさい。あなた一人の直感より、私の解析の方が、よほど早く答えにたどり着けるわ。それとも、この世紀の大発見を、独り占めするつもり?」

栞の言う通りだった。俺一人で悩んでいるよりも、彼女の頭脳を借りた方が、よほど建設的だ。

俺は、観念して、自分が記録していたノイズのデータを彼女に転送した。


——そして、運命の日が訪れる。




その日の深夜、栞から緊急の通信が入った。

『水無月くん、すぐに観測室に来て!あのノイズが……!』


俺が観測室に駆けつけると、メインモニターに、信じられない光景が映し出されていた。

これまで幻のように微弱だったあのノイズが、まるで嵐のように、明確な波形となって観測されていたのだ。


そして、それはもう、ただの『音』ではなかった。

俺の脳内に、直接、流れ込んでくる。


『——たす……て——』

『——なぜ、我らは……生まれながらに、終わっているのだ……』

『——時の……理が……こわ……る——』


断片的で、意味不明な言葉の羅列。

だが、それは間違いなく、知的生命体からの、悲痛なメッセージだった。


「栞……これ、は……」


「ええ。あなたの気のせいじゃなかった。これは、私たちの宇宙じゃない……全く別の物理法則で構成された、異次元からのSOSよ」


モニターに表示された波形は、激しく乱れ、そして、最後に一つの強いパルスを放って、再び静寂に戻った。

だが、その最後のパルスは、俺の脳裏に、鮮明なビジョンを焼き付けていた。


見たこともない、紫色の空。

枯れた大地にひれ伏し、何かを祈る、異形の、しかし人間によく似た人々。

そして、すべてを支配する、巨大な絶望感。


俺は、息を飲んだ。

もう、見て見ぬふりなど、できるはずがなかった。

俺は、地球の時の番人。

だが、今、聞こえてしまったこの声から、どうして耳を塞ぐことなどできようか。


翌日、俺は光と栞、そして五十嵐局長代理を前に、自分が観測したすべてを、打ち明けた。

俺たちの、長すぎた平穏は、終わりを告げたのだ。

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