第7話 第七話 始まり
『きやぁああアアっッッ!!!』
という女の叫び声、そしてそれに続く、『うわああああっ!?!!』という男の声が階下から響いた。
それはあまりにも唐突で俺は驚いたが、優奈はもっとだったらしい。
「今のって、さっきの赤バンダナのおっさんたちだよな?」
俺の言葉に、優奈は声を出さず喉元を押さえながら強く頷く。
「……ビビりすぎだろ。たしかに、いきなりで俺も結構驚いたけどさ。でも、さっきと同じ演技だろ?」
赤バンダナは、『演出』とか気取った言い方をしていたな。
「……っ、はぁ?何言ってんの!?どう考えても今のは、――演技じゃないじゃん!」
優奈は、その語気とは対照的に、囁くよう声を抑えてそう言った。
――なんだこれ?また俺を揶揄っているのか?
先程までのやり取りから、俺はまた優奈がふざけているのかと考えた。
しかし、どうやら違うらしい。
それを証明するように、再度叫び声が響く。
『だれかっ!誰か助け――』
『ぐわっああああ――!!』
2人分の渾身の叫び。
それに混じるよう、不思議な音が聞こえた。
『パシュッ』と、言えばいいのか。なにかを潰すような、なにかが破裂したような、不愉快で不気味な聞き覚えのない音。
階下を覗き込む俺は、優奈に無理矢理引っ張られて振り向く。
真剣な面持ちの優奈が、月明かりに照らされる。
「……逃げよ。お願い」
少し前までの、『オカルトなんてありえない。ホラーなんて子供騙し』と言いたげだった彼女は、どこかに消えた。
今、俺の目の前にいる優奈は、怯えた目で今にも泣きそうな顔を浮かべている。
「……マジ?」
思わず訊ねる。
「マジだよ」
優奈はつぶやく。
何があったか知らないが、すぐ近くで誰かが助けを求めている。
それを知っていて見捨てるということに、俺は激しい拒否感を覚えていた。
「無理、マジで無理、……逃げようよ」
優奈の頬を、水滴が滴る。
俺の腕をいつのまにか掴んでいた、彼女の手が震えている。
『ガアアアアアアアッ!!!!』
さっき会った2人と違う叫び声。
今晩会った、誰のものでもないだろう。
というかもう、それは人の発するものとは思えなかった。
《化け物》のような鳴き声が建物内を反響し、優奈は何度も首を振る。
それはまるで、聴こえないように、振り払うように。
その姿を見て、『これ以上、俺のエゴに付き合わせるべきじゃない』と思った。
「なぁ……反対側の階段から降りよう」
俺の提案に、優奈は小さく頷く。
砕けた電灯のカケラが散乱する廊下を、俺たちはゆっくり静かに移動する。
一歩一歩、カケラを踏みしめる音が最低限になるように気を使って足を動かす。
「……ホントにこれで見つからないの?」
走り抜けよう、と言いたげな優奈。
「化け物ってのは目が見えないとか、耳が異様に良いとかありがちだからな」
「……いやそれ、ゲームとかの知識でしょ?」
小声で呆れられた。
しかし、今のところ《化け物》が来ているような気配はない。
じっくり、のんびり、ゆっくりとしたペースで廊下を渡りきり、反対側の階段へ辿り着いた。
額の汗を拭い、階段を降りようとすると、『見捨てるの?』という声が聞こえて振り返る。
――今のは、誰の声だ?
隣にいる優奈は、眉間に皺を寄せ、『なに?』と疑うような目をコチラに向けている。
「……早く降りようよ」
「ああ、そうだな。ここからは一気に行こう」
「暗くて見えないから、私が先ね」
そう言って優奈は階段を降り始め、俺もその後に続く。
そして、階段を降りている最中、道路にそびえ立つ《鳥居》を見つけた。
想像もしていなかった事が立て続けに起き、俺は『話しかけてきた声』について考える余裕を失ったのだった。
そして、《今》に戻る。
――今、こうして考えてみると、あの声の主は過去の俺自身だったのかもしれない。
ずっと昔、親に捨てられたばかりの頃の自分。
『過去の自分が今の自分を苦しめる』なんてのは、よくある話だ。
道路の真ん中に建った《鳥居》。
その前に立つ俺のそばで、中世の罪人のように吊るされ、鮮血を滴らせながら揺れる《塊》を見つけた優奈の叫び声が反響している。
声にならない声をあげた優奈は、ここにきた経緯を長々と思い出して後悔していた俺の肩を、力強く揺らす。
「なんなのこれ?なんなのこれ!?」
その声で俺は、《今》と向き合わなくてはならないことを思い出した。
「悪い、少し……呆けてた」
「あ、あれって……やっぱり……、人……だよね?」
鳥居の上から吊るされた《塊》を優奈は指さす。
このままここにいたらダメだ。
ふっと湧いたその感情を奮い立たせ、俺は優奈の手を引いて道路から離れようとする。
「……いたっ、ちょっと待ってよ!」
優奈は何故か鳥居を魅入って動こうとしない。
「どう考えてもここは危険だ!今の悲鳴で《化け物》に場所がバレたかもしれない。移動するぞ!」
このフェンスに囲まれた空間の中で、ここだけ視界が通っている。
外周は雑木林、内側は建物や街路樹。
だが、道路上には何もない。
――いや、この鳥居はある。
しかしコレは視界を遮ってはくれない。
俺は優奈の腕を引っ張り、道路から引き摺り出そうとする。
しかし、半端じゃない力で抵抗される。
「優奈!おい、逃げたいんじゃねーのかよ!」
――くそっ!マジで意味わからん!どっからこんな力が湧いてくるんだ!?
引っ張るのをやめ、押す方に変えたが、それでも優奈は動かない。
まるで地面に根を張ったように。
殴る?いや、意味ないだろう。
置いてく?それは絶対にありえない。
服を脱がす?変態か俺は。
…………。
……。
目を隠してみよう。
ものは試しだ。
そう考えた俺は、優奈の目元に自身の手をかざし、《鳥居》を彼女の視界から――。
「ごっ……、……テメっ!?」
思いっきりみぞおちを殴られた。
――なんだこれ?
「優奈、……まさか洗脳されてんのか?」
漫画やゲームじゃあるまいし、そんな筈はないだろう。そう考えつつも、思わず口をついた。
が、なんのリアクションも返ってこない。
『洗脳?マジで言ってんの?ダサ。ここは現実なんですけど?』
俺の知ってる、――と言ってもさっき会ったばかりだが――彼女ならこう言って俺を全力で馬鹿にしてくるだろう。
だが、優奈は口を閉ざしたまま、今も鳥居を見続けている。
「……優奈、俺はどうしたらいい?」
情けないことを自認しつつ、俺は訊ねる。
答えは返ってこない。
「…………、なんかムカついてきたな」
腹を殴られた痛みが時間と共に薄れて、苛立ちに変わり始める。
「はぁ……、まぁ他に手がないしな」
俺は、再度その視線を隠すため、優奈の顔に手を近づける。
「がっ、――いってぇなマジでっ!」
ノーモーションで拳が飛んできて、俺の腹部を襲った。
「ぐ、がはっ、ふぅぅ……、くそっ!マジでいてえ……」
何度殴られたかわからない。
しかし、その甲斐あって俺は優奈を運ぶことに成功した。
片手で目線を隠し、もう片方の腕で肩を横に押す。……途中からムカついて頭を押していたのは内緒だが、そうやってなんとか、道路から歩道へ移動させたのだ。
「……マジで?……なんも覚えてない」
歩道に戻ると、優奈は突然正気を取り戻した。
「えっと、覚えているのは……階段をダッシュで降りて、《鳥居》を見つけた。で、……なにしてたっけ?」
どうやらここ数分の記憶がないらしい。
『洗脳』なんて適当に言ったが、あながち間違いではなかったらしく、俺は冷や汗がにじみ出るのを感じた。
「もしアンタの言ってる事が本当ならさ、私の身体を反対に向けて《鳥居》を見えないようにしたら、殴られずにすんだんじゃない?」
――殴りてぇ。
ど正論を前に、俺は言い返す言葉が浮かばず、痛めた腹を抱える。
「とりあえず……ごめん。あと、ありがとう」
「……素直にそう言われると、何も言えねぇわ。はぁ、んで、これからどうするかだけど……」
本当は、反対の棟がある側の歩道に向かうべきだった。しかし、距離的な近さを優先して元の道へと戻ってしまったのだ。
《化け物》が、まだいるかもしれない建物の方へと。
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