第23話:「弁護人の資格」

 事務所の中は、息を潜めたように静まり返っていた。デスクの上には書類の山。蛍光灯を消し、スタンドライトだけが狭い範囲をぼんやり照らしている。神崎はその光の中で、一枚の封筒を握りしめていた。

 封筒の中身は、佐倉真理の証言メモ――。

 本来なら裁判資料として提出すべきものだが、その中には蒼にとって致命的な一節が含まれていた。

 《被告人は、ときおり壁を見つめて笑う癖があった》

 《あの目は……怖かった。けれど、どうしようもなく惹かれた》

 神崎はその文章を見つめ、呼吸が乱れるのを感じた。 胸の奥で、別の声が囁く。

 ――これを出せば、彼は終わる。

 ――隠せば、彼を救える。

 答えは、もうわかっていた。ハサミを手に取り、慎重に一節を切り取る。 紙が裂ける音が、やけに大きく響いた。心臓が速く打つ。だが、恐怖ではなかった。


 (正義のためだ。救済のためだ。俺は間違っていない)


 呟きは祈りというより呪文だった。唱えなければ、崩れてしまう。信じなければ、耐えられない。切り取ったページの代わりに、白紙を差し込む。封筒を閉じ、深く息を吐いた。指先が震えていることに、そのとき初めて気づいた。


 翌日の法廷。証人席には佐倉真理が座っていた。落ち着いた口調だが、声の端にわずかな緊張が混じっている。

 「……たしかに、蒼さんと最後に会ったのは事件の数週間前です」

 「けれど、そのとき彼が言っていたのは――」

 言葉が途切れた。 真理の眉がわずかに寄る。

 「証人、どうかしましたか?」

 裁判長が問いかける。

 「いえ……提出されたメモと、少し……違う気がして。何か、ページが――」

 傍聴席がざわめく。 神崎の喉が、ひくりと動いた。冷たい汗が背筋を伝う。

 (気づかれた……?)

 裁判長の視線が、一瞬だけ神崎に向けられた。言葉はなかった。だが、その沈黙は責めるよりも重かった。


 閉廷後、控室に戻った神崎は鏡を見た。映った男は、ネクタイの曲がりも、ワイシャツの皺も気にしない顔をしていた。目だけが、妙に澄んでいる。

 ――君はまだ弁護士なのか?

 ――それとも、ただの被告人の味方か?

 問いは鏡の向こうから響いてくるようだった。 神崎は呟く。

 「俺は……真実を守っている。俺は……真実を守っている」

 言葉は空気に吸い込まれ、やがて消えた。祈りではなく、縛り付ける呪文として。


 その夜、神崎は再び拘置所へ向かった。蒼がガラス越しに微笑む。

 「先生、顔色が悪いですよ」

 「……問題ない。君を救うためなら、何だってする」

 蒼は静かに壁へ視線を逸らした。真っ白な壁を見つめ、指先でガラスを軽く叩く。 その音が、神崎の胸の奥で――何かの終わりを告げる合図のように響いた。

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